あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

手間

2014-05-08 | 日記
人間という物は基本的に怠け者なのだろうか。
野菜を育てるのも放っておけば勝手に育つ、というのが好きなようだ。
そういう自分もそうだった。
今の考え方はちょっと違う。
どれだけ手をかけるか、どれだけそこにいて目を向けるか、というところか。

僕は家に居る時はほとんどの時間を庭で過ごす。
野菜を見ていれば自然とやるべき事が見えてくる。
雑草が茂っていればその野菜が育つのに邪魔にならないくらいに取る。
こぼれ種から芽が出て密集していればそれを分けて植え替える。
枝が混んでくれば剪定だって必要だ。
ネギなんかは白い所を伸ばすために土をかけてあげる。
土を入れ替えてミミズが出てくれば新しく堆肥を入れた場所へ埋めて人働きしてもらう。
葉っぱにつく青虫やナメクジなどはニワトリの餌だ。
庭によく日が当たるように木の枝を払った。
土だって堆肥も作れば鶏糞で肥料も作る。
土作りは農業の基本である。
昨日は半年に一度の鶏糞肥料作りをした。
ニワトリ小屋のそばには大きなプラスチックの入れ物があり、そこに毎日の糞と汚れたおがくずを放り込んでいる。
だいたい半年でそれが溜まるので、それを地面に掘った穴に埋め微生物たっぷりのボカシなどを入れてまた半年寝かす。
半年前に作った肥料はニワトリの餌が入っていた袋に入れて物置に保管。必要に応じて使う。
こういう手間をかければかけるだけ野菜に対する愛も生まれる。
野菜に話しかけるのはよくするし、野菜をよく見ればこの野菜に何が必要か、どうして欲しいのか分かる時がある。
自分に分からなければ、今やネットで何でも調べられる。
勉強とは本来こういうものだと思う。
そうやってできた野菜はやっぱり美味いのだ。

育てるのと同じくらい大切なのが収穫。
ズッキーニやきゅうりなどは収穫が遅れると育ち過ぎてしまう。
ブロッコリーは放っておくと花が開いてしまうし、レタスなども花芽が出たら葉っぱは美味しくなくなる。
タイミングというものがあるのだ。
逆にハーブなどは必要な分だけ庭からちょいと取れるというのが新鮮で香りも良い。
産地から消費地までの移動距離と時間は短いのが良い。
庭の片隅にリンゴの木があるが、僕は必要な分だけ収穫をしてその場で食べる。
木で熟す果物はとことん美味く、我が家のリンゴは蜜リンゴだ。
今でもまだ数個は残っているがこれを全部収穫したら枝を剪定してあげなくては。
イチジクも食べごろの実がいくつかできていたな。
又、ネギやニラ、シソなど種を収穫するものもある。
日陰でも育つ野菜はそういう場所に種を蒔く。

まあいろいろな作業があり、それを一生懸命やるのが作務。
手間をかけずして事は成らず。
実が熟す結果も大切だが、そこへいくプロセスの中に答はある。
その大事なプロセスをおろそかにしてはいかん。
だからと言って真面目に気難しく眉間にしわをよせてやるわけでもない。
明るく楽しく、最近はボーズのワイヤレススピーカーを買ったのでそれで気に入った音楽でも聞きながらノリノリで(死語?)やるのだ。
僕はこういうことは苦行でなくていいと思う。
自称生臭坊主としては、はたらくという言葉は『他人を幸せにする』ということで、そのためにはまず自分が幸せであることが前提なのだ。
仕事は明るく楽しくね。

山菜など自然界の中で勝手に育つ野菜もある。
それはそれで自然の恵みとしてうけとればいい。
人間が手間をかけて育つ命もある。
そうやってできた野菜の命を今日も美味しく「いただきます」。
ありがたやありがたや。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明鏡止水 | トップ | ニョッキ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事