さらに川を下っていくと遠くに人影が見えてきた。
こんな所に自分たち以外にも人がいるんだ。
近寄って行き、挨拶をする。
僕達と同じようにパックラフトで川下りをしながら、途中で釣りをやっている男達が3人。
彼らのパックラフトはアメリカ製だがトーマスのはニュージーランド産。
その名もコアロ。コアロとはマオリの言葉でこの国の川魚の名前である。
激流ではなく穏やかな流れに住むこの小魚、ときどきルートバーンを歩いていても見る。
パックラフトも急流ではなく、流れが緩やかな場所向きで、それを商品名とするところが好い。
ひとしきりパックラフトの話で盛り上がり、僕達は再び漕ぎ出した。
川から見る眺めは森歩きとは違う。
森歩きだと木々の切れ間から山が見えたりするが視界は開けない。
川下りだと常に視界が開けていて、気分が良い。
その分、雨の日や風が強い日は大変なんだろう。
森の中から鳥が川の方へ飛び出して、虫を捕まえてまた森に戻っていく、そんな光景を何十回と見る。
こんなのも普通に山歩きをしていたら気付かない。
川を下ることでここまで劇的に自然の見方が変わる。
今までとは違う角度でこの国の自然を楽しめる。
こりゃトーマスが夢中になっちまうわけだな。
穏やかな流れを進んでいくと人の声が聞こえてきた。
歩く道も川と平行しているのだろうが、川の方が低いのでこちらからは山道が見えない。
まもなく川の下流方向から数人のハイカーが歩いてくるのが見え、その中の一人が声をかけてきた。
「あらあら、あなた達、それは楽しそうね。」
「こんにちは。とっても気分がいいよ」
「なんと言っても、歩かなくていいしね」
「楽ちんさ」
「気をつけて楽しんでいらっしゃい」
向こうから僕達はどういうふうに見えるのだろう。
遠くから水音が聞こえてきた。
Hidden Falls 日本語で言えば隠れ滝という滝の音だろう。
この滝のそばの山小屋が今回の折り返し地点である。
上陸地点までそんなに遠くなく、日はまだ高い。
このままフィニッシュしてしまうのはもったいないので、川岸に船を上げて上陸。
しばし休息である。
倒木に腰を下ろすのと同時にサンドフライがやってきた。
サンドフライはブヨのような虫で、刺されると痒いが、かかなければ痒みはすぐに引く。
ただし、かきむしったりすると腫れは広がりいつまでも残る。
西海岸はサンドフライも多い。
マオリの言い伝えでは、人間に来てほしくないようなきれいな場所にはサンドフライが多いのだと、なるほど。
僕らはもう慣れっこで、そういうものだと思っているが、他所から来た人には恐怖と憎悪の対象だ。
観光客のおばさんがこの虫を追い回す時はすごい形相であるし、ヒステリックに嫌がる人も多い。
無造作に追い払う地元の人より、必要以上に毛嫌いする人の方へ虫も多くたかるのが不思議だ。
現代人が虫を毛嫌いするのは、無菌室で育った人が菌に対して免疫が無いのと同様の脆さのようなものを感じる。
以前、ミルフォードサウンドで仕事で行った時に、別のグループの添乗員(50代、オバサン)がお客さんにこう言っていた。
「サンドフライをつぶさないでください。臭いですから」
僕は長年ここに住んでいるがサンドフライを臭いと思ったことなどなく、変な事を言う人だなあと思った。
それを聞いたお客さんの反応がすごかった。
サンドフライがブーンと飛んでくると鼻をつまんで「わあ臭い、わあ臭い」と言って必死で追い払うのだ。
「お前、自分で匂いを嗅いでないだろ」という心の声を胸の奥に、人間の心理とはこういうものだなあと、僕はあきれて見ていたのだった。
再び川を下り始めると滝の音は聞こえなくなった。
「この先に小川があるはずです。それを超えた場所が上陸地点です」
トーマスが言った。ガイドとはありがたいものだな。
ほどなくしてそのポイントが見えてきた。
僕らは船を岸に着け、降りてボートをたたんだ。
たたんだボートをバックパックに縛りつけ、川から一段上の草原へ上がるとすぐに山小屋が見えてきた。
ナルホドこりゃ近くていいな。
5分ほどの歩きで今夜の宿であるヒドゥンフォールスの山小屋に到着。
山小屋は一つの建物の4分の3ぐらいが一般用で残りがスタッフ用になっている。
スタッフ用の施設は二段ベッド、キッチン、ストーブ、僕らは使わなかったがシャワーまでもついている。
トーマスはドックのスタッフなのであらかじめ鍵を借りてきていて、僕達はスタッフ用の施設を使える。
こんな時に日本だったら木っ端役人が「仕事で行くのではないのだからスタッフ用の施設は使ってはいけません」などと言うこともあるのだろう。
ここではそんなケチ臭いことは言わない。
それはトーマスの信用もあるのだろうが、僕も役得にあずかり快適な二人部屋を使わせてもらった。
先ずは服を着替え、パックラフトその他濡れているものを外に干す。
暖炉を点ける前にポンプを手で回し水をタンクに貯めるなどと、小屋には使用上の注意が書いてある。
ポンプを回す、外の薪を運んでくるなど、作業をしていると夕暮れ時になった。
外に出て山すそに沈む夕日を眺めながら、本日の乾杯。
今日も文句なしに「大地に」だな。
自然の中でとことん遊んだ日の最初の一口を大地に捧げるという儀式を始めた相方のJCは、今では北海道で鹿撃ちの猟師になっている。
そして友と乾杯。
今日はビールではなく、トーマス特製のプラムワイン。
けっこうずっしりとくる赤ワインである。
これがなかなかどうして、旨い。
ヤツはこんなものも作っちゃうのか、すごいな。
人里から遠く離れ、太古の昔から続いている自然に抱かれ、友の作った酒を飲む。
人間とはちっぽけな存在だが、小さいなら小さいなりに存在し続ける。
こうやってこの瞬間にこの場で酒を飲むこともまた、自分なりの存在なのだろう。
そのまま晩飯に突入。
晩飯はステーキに白飯である。
奮発して高いステーキ肉を買ってきたからね。
男同士の夜もまた楽し。
ワインを飲みながらテーブルの上の地図を眺めて、あーだこーだ。それがいいのだ。
2本目のワインの終盤でトーマスがダウン。
昨晩は僕が先につぶれてしまったが、今宵はヤツが先につぶれた。
これで1勝1敗か。
続く
こんな所に自分たち以外にも人がいるんだ。
近寄って行き、挨拶をする。
僕達と同じようにパックラフトで川下りをしながら、途中で釣りをやっている男達が3人。
彼らのパックラフトはアメリカ製だがトーマスのはニュージーランド産。
その名もコアロ。コアロとはマオリの言葉でこの国の川魚の名前である。
激流ではなく穏やかな流れに住むこの小魚、ときどきルートバーンを歩いていても見る。
パックラフトも急流ではなく、流れが緩やかな場所向きで、それを商品名とするところが好い。
ひとしきりパックラフトの話で盛り上がり、僕達は再び漕ぎ出した。
川から見る眺めは森歩きとは違う。
森歩きだと木々の切れ間から山が見えたりするが視界は開けない。
川下りだと常に視界が開けていて、気分が良い。
その分、雨の日や風が強い日は大変なんだろう。
森の中から鳥が川の方へ飛び出して、虫を捕まえてまた森に戻っていく、そんな光景を何十回と見る。
こんなのも普通に山歩きをしていたら気付かない。
川を下ることでここまで劇的に自然の見方が変わる。
今までとは違う角度でこの国の自然を楽しめる。
こりゃトーマスが夢中になっちまうわけだな。
穏やかな流れを進んでいくと人の声が聞こえてきた。
歩く道も川と平行しているのだろうが、川の方が低いのでこちらからは山道が見えない。
まもなく川の下流方向から数人のハイカーが歩いてくるのが見え、その中の一人が声をかけてきた。
「あらあら、あなた達、それは楽しそうね。」
「こんにちは。とっても気分がいいよ」
「なんと言っても、歩かなくていいしね」
「楽ちんさ」
「気をつけて楽しんでいらっしゃい」
向こうから僕達はどういうふうに見えるのだろう。
遠くから水音が聞こえてきた。
Hidden Falls 日本語で言えば隠れ滝という滝の音だろう。
この滝のそばの山小屋が今回の折り返し地点である。
上陸地点までそんなに遠くなく、日はまだ高い。
このままフィニッシュしてしまうのはもったいないので、川岸に船を上げて上陸。
しばし休息である。
倒木に腰を下ろすのと同時にサンドフライがやってきた。
サンドフライはブヨのような虫で、刺されると痒いが、かかなければ痒みはすぐに引く。
ただし、かきむしったりすると腫れは広がりいつまでも残る。
西海岸はサンドフライも多い。
マオリの言い伝えでは、人間に来てほしくないようなきれいな場所にはサンドフライが多いのだと、なるほど。
僕らはもう慣れっこで、そういうものだと思っているが、他所から来た人には恐怖と憎悪の対象だ。
観光客のおばさんがこの虫を追い回す時はすごい形相であるし、ヒステリックに嫌がる人も多い。
無造作に追い払う地元の人より、必要以上に毛嫌いする人の方へ虫も多くたかるのが不思議だ。
現代人が虫を毛嫌いするのは、無菌室で育った人が菌に対して免疫が無いのと同様の脆さのようなものを感じる。
以前、ミルフォードサウンドで仕事で行った時に、別のグループの添乗員(50代、オバサン)がお客さんにこう言っていた。
「サンドフライをつぶさないでください。臭いですから」
僕は長年ここに住んでいるがサンドフライを臭いと思ったことなどなく、変な事を言う人だなあと思った。
それを聞いたお客さんの反応がすごかった。
サンドフライがブーンと飛んでくると鼻をつまんで「わあ臭い、わあ臭い」と言って必死で追い払うのだ。
「お前、自分で匂いを嗅いでないだろ」という心の声を胸の奥に、人間の心理とはこういうものだなあと、僕はあきれて見ていたのだった。
再び川を下り始めると滝の音は聞こえなくなった。
「この先に小川があるはずです。それを超えた場所が上陸地点です」
トーマスが言った。ガイドとはありがたいものだな。
ほどなくしてそのポイントが見えてきた。
僕らは船を岸に着け、降りてボートをたたんだ。
たたんだボートをバックパックに縛りつけ、川から一段上の草原へ上がるとすぐに山小屋が見えてきた。
ナルホドこりゃ近くていいな。
5分ほどの歩きで今夜の宿であるヒドゥンフォールスの山小屋に到着。
山小屋は一つの建物の4分の3ぐらいが一般用で残りがスタッフ用になっている。
スタッフ用の施設は二段ベッド、キッチン、ストーブ、僕らは使わなかったがシャワーまでもついている。
トーマスはドックのスタッフなのであらかじめ鍵を借りてきていて、僕達はスタッフ用の施設を使える。
こんな時に日本だったら木っ端役人が「仕事で行くのではないのだからスタッフ用の施設は使ってはいけません」などと言うこともあるのだろう。
ここではそんなケチ臭いことは言わない。
それはトーマスの信用もあるのだろうが、僕も役得にあずかり快適な二人部屋を使わせてもらった。
先ずは服を着替え、パックラフトその他濡れているものを外に干す。
暖炉を点ける前にポンプを手で回し水をタンクに貯めるなどと、小屋には使用上の注意が書いてある。
ポンプを回す、外の薪を運んでくるなど、作業をしていると夕暮れ時になった。
外に出て山すそに沈む夕日を眺めながら、本日の乾杯。
今日も文句なしに「大地に」だな。
自然の中でとことん遊んだ日の最初の一口を大地に捧げるという儀式を始めた相方のJCは、今では北海道で鹿撃ちの猟師になっている。
そして友と乾杯。
今日はビールではなく、トーマス特製のプラムワイン。
けっこうずっしりとくる赤ワインである。
これがなかなかどうして、旨い。
ヤツはこんなものも作っちゃうのか、すごいな。
人里から遠く離れ、太古の昔から続いている自然に抱かれ、友の作った酒を飲む。
人間とはちっぽけな存在だが、小さいなら小さいなりに存在し続ける。
こうやってこの瞬間にこの場で酒を飲むこともまた、自分なりの存在なのだろう。
そのまま晩飯に突入。
晩飯はステーキに白飯である。
奮発して高いステーキ肉を買ってきたからね。
男同士の夜もまた楽し。
ワインを飲みながらテーブルの上の地図を眺めて、あーだこーだ。それがいいのだ。
2本目のワインの終盤でトーマスがダウン。
昨晩は僕が先につぶれてしまったが、今宵はヤツが先につぶれた。
これで1勝1敗か。
続く
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