冬はつとめて、と枕草子が言っているが最近は早朝の散歩が日課である。
それもちょうど日が上がってくる時に犬のココと散歩に行く。
さすがに天気が悪い時には行かないが、晴れた日は日の出を見るのを兼ね散歩に行く。
もともと朝は早いたちなので暗いうちに起き出して行動は始める。
僕のシーウンオフの行動は時計の時間よりも太陽に合わせて動く。
お日様が昇る前、暗いうちに起きて、お日様が沈んで数時間後に寝る。
もう十数年もそんな生活をしているのでこれが当たり前になってしまった。
特にニュージーランドでは日が昇ってくるのが遅く日の入りが遅いのでちょうどよい。
日本では日の長い時に居たということもあったが、朝太陽が上がったので散歩に出ると街がまだ起きていないということがよくあった。
太陽はかなり高く上がっているのだが、ほとんどの人は眠っているのだろう、活動している人が少ない。
もったいないなあと思った。
人間が時計の時間に合わせて行動しているならば、その時計をずらしてあげれば、この太陽が明るく照らしているエネルギーを人々が起きている時間帯に使える。
そうすれば原発なんかを動かすよりもよっぽど省エネになるだろうに。
なんでこんな簡単なことに気がつかないんだろう。
こういう話をすると必ず「それは○○だから無理だ」という人が出る。
○○の所には、御用学者やマスコミやどこかの偉い人が言った言葉、もしくは自分にとって都合のいい解釈などが入る。
「ああ、それは面白そうだ」とかではなく「無理だ、難しい」と言う。
「無理だ、難しい」と言っているのは自分の心であり、「面白そうだ、できたらいいな」と言うのも自分の心だ。
高杉晋作の辞世の句 『面白き こともなき世を 面白く』という句は有名だが下の句はあまり知られていない。
『すみなしものは 心なりけり』 そう、結局どうあるかは心なのである。
暗いうちに起きて、お茶を飲みながらこんな毒にも薬にもならないようなブログを書いているとだんだん空が明るくなり始める。
「さあ、ココ、散歩に行くか?」
もうその一言で犬は喜び勇んで尻尾を大きく振る。実に分かりやすい。
犬というヤツはとかく散歩が好きで、散歩に連れて行ってもらえるなら朝だろうが夜だろうがいつでも良いのだ。
外は真冬の寒さである。気温はマイナス2度。雪山のような装備で外に出る。
冬はつとめて、霜のいと白き中、サクサクと草を踏み歩くさまいとをかし。
などと想っていると、犬がすぐ横でウンコをして気分台無し。
とにもかくにも早朝の公園は人もほとんどいなく、気持ちが良い。
今年は秋に暖かい日が続き、街の街路樹もまだ葉っぱを残しているが、最近になって山に雪が降った。
遠くに見える山はすっかり冬景色で、気の早いスキーヤーは既に滑ったようだ。
そうしているうちに山のてっぺんが赤く染まって、みるみるうちに山全体が朝日に染まる。
数週間後にはあのはるか彼方の山の山頂に立ち、こちらを見るだろう。
山の麓に住み常に山を見て暮らす友もいる。
それはそれでいい家だなと思う。
だが僕は今自分がいる、この距離感が好きでもある。
目をこらせばかろうじてどの斜面か識別できる距離は直線距離で言えば50kmぐらいだろうか。
途中に視界をさえぎる物もなく、またこれ以上遠くなったら肉眼では見えない、ぎりぎりの距離感なのだ。
牧場を歩いているうちに平野部にも日が差してきた。
目の高さから一点のまばゆい輝きが現れ、それはあっというまに大きさを増し黄金の玉になる。
これこれ、これがクライストチャーチの良い所だ。
クィーンズタウンは景色がきれいな所だが山あいの街なので太陽は山の陰から上がる。
場所によっても違うが、太陽がかなり高い角度になって顔を出すという所もあるし、冬の間は全く日が刺さない場所もある。
その点、平野というのは太陽が水平方向から上がる。
東側が海というのも一つの要素である。
地平線から上がっ他ばかりの太陽は美しく神々しい。
僕は朝日に向かって拝む。
声を出して拝む。
「お天道様、今日も昇ってきていただいてありがとうございます。今日もこの大地を照らしてください。」
そしてイメージを持つ。
自分が今居る社会、具体的にはクライストチャーチの一角ぐらいだ。
その社会の子供たちが元気に学校で学ぶ様を、通り行く車の運転手が明るく働く様を、そういう肯定的なイメージを浮かび上げる。
そういった地域全体を上に昇らせるようなイメージをお日様にお願いする。
太陽が昇るということは当たり前のことだが、その当たり前のことに意識を向けることが大切なのだと思う。
そんなことをしていると、犬のココがしびれをきらして「早く行こうよ」という顔で寄ってきた。
さて今日もいい1日になりそうだ。
それもちょうど日が上がってくる時に犬のココと散歩に行く。
さすがに天気が悪い時には行かないが、晴れた日は日の出を見るのを兼ね散歩に行く。
もともと朝は早いたちなので暗いうちに起き出して行動は始める。
僕のシーウンオフの行動は時計の時間よりも太陽に合わせて動く。
お日様が昇る前、暗いうちに起きて、お日様が沈んで数時間後に寝る。
もう十数年もそんな生活をしているのでこれが当たり前になってしまった。
特にニュージーランドでは日が昇ってくるのが遅く日の入りが遅いのでちょうどよい。
日本では日の長い時に居たということもあったが、朝太陽が上がったので散歩に出ると街がまだ起きていないということがよくあった。
太陽はかなり高く上がっているのだが、ほとんどの人は眠っているのだろう、活動している人が少ない。
もったいないなあと思った。
人間が時計の時間に合わせて行動しているならば、その時計をずらしてあげれば、この太陽が明るく照らしているエネルギーを人々が起きている時間帯に使える。
そうすれば原発なんかを動かすよりもよっぽど省エネになるだろうに。
なんでこんな簡単なことに気がつかないんだろう。
こういう話をすると必ず「それは○○だから無理だ」という人が出る。
○○の所には、御用学者やマスコミやどこかの偉い人が言った言葉、もしくは自分にとって都合のいい解釈などが入る。
「ああ、それは面白そうだ」とかではなく「無理だ、難しい」と言う。
「無理だ、難しい」と言っているのは自分の心であり、「面白そうだ、できたらいいな」と言うのも自分の心だ。
高杉晋作の辞世の句 『面白き こともなき世を 面白く』という句は有名だが下の句はあまり知られていない。
『すみなしものは 心なりけり』 そう、結局どうあるかは心なのである。
暗いうちに起きて、お茶を飲みながらこんな毒にも薬にもならないようなブログを書いているとだんだん空が明るくなり始める。
「さあ、ココ、散歩に行くか?」
もうその一言で犬は喜び勇んで尻尾を大きく振る。実に分かりやすい。
犬というヤツはとかく散歩が好きで、散歩に連れて行ってもらえるなら朝だろうが夜だろうがいつでも良いのだ。
外は真冬の寒さである。気温はマイナス2度。雪山のような装備で外に出る。
冬はつとめて、霜のいと白き中、サクサクと草を踏み歩くさまいとをかし。
などと想っていると、犬がすぐ横でウンコをして気分台無し。
とにもかくにも早朝の公園は人もほとんどいなく、気持ちが良い。
今年は秋に暖かい日が続き、街の街路樹もまだ葉っぱを残しているが、最近になって山に雪が降った。
遠くに見える山はすっかり冬景色で、気の早いスキーヤーは既に滑ったようだ。
そうしているうちに山のてっぺんが赤く染まって、みるみるうちに山全体が朝日に染まる。
数週間後にはあのはるか彼方の山の山頂に立ち、こちらを見るだろう。
山の麓に住み常に山を見て暮らす友もいる。
それはそれでいい家だなと思う。
だが僕は今自分がいる、この距離感が好きでもある。
目をこらせばかろうじてどの斜面か識別できる距離は直線距離で言えば50kmぐらいだろうか。
途中に視界をさえぎる物もなく、またこれ以上遠くなったら肉眼では見えない、ぎりぎりの距離感なのだ。
牧場を歩いているうちに平野部にも日が差してきた。
目の高さから一点のまばゆい輝きが現れ、それはあっというまに大きさを増し黄金の玉になる。
これこれ、これがクライストチャーチの良い所だ。
クィーンズタウンは景色がきれいな所だが山あいの街なので太陽は山の陰から上がる。
場所によっても違うが、太陽がかなり高い角度になって顔を出すという所もあるし、冬の間は全く日が刺さない場所もある。
その点、平野というのは太陽が水平方向から上がる。
東側が海というのも一つの要素である。
地平線から上がっ他ばかりの太陽は美しく神々しい。
僕は朝日に向かって拝む。
声を出して拝む。
「お天道様、今日も昇ってきていただいてありがとうございます。今日もこの大地を照らしてください。」
そしてイメージを持つ。
自分が今居る社会、具体的にはクライストチャーチの一角ぐらいだ。
その社会の子供たちが元気に学校で学ぶ様を、通り行く車の運転手が明るく働く様を、そういう肯定的なイメージを浮かび上げる。
そういった地域全体を上に昇らせるようなイメージをお日様にお願いする。
太陽が昇るということは当たり前のことだが、その当たり前のことに意識を向けることが大切なのだと思う。
そんなことをしていると、犬のココがしびれをきらして「早く行こうよ」という顔で寄ってきた。
さて今日もいい1日になりそうだ。
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