あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

秋深し

2021-06-04 | 日記
秋の日はつるべ落とし、という言葉がある。
秋の日が落ちるのは、つるべが落ちるように早い、という意味だ。
だが今の世代で一体どのくらいの人が、つるべなんてものを知っているだろう。
大阪のメガネをかけた落語家の話ではないぞよ。
昔、井戸にかかっていた水をくむ道具のことをつるべと言う。
僕も知識として知っているが実物を見たことがない。
日本では春から初夏へという時期だが、南半球では秋深し。
遠い祖国の死語となりつつある言葉を、ニュージーランドの空に浮かべてみた。
ああ風流だね.
まあそんな具合で秋である。
朝の日の出がめっぽう遅くなり、夕暮れ時はあっという間に暗くなる。
そういえば秋の夜長、なんて言葉もある。
日中の太陽の光はどことなく弱く、雲が厚ければ肌寒い。
晴れた日の空の青さも夏のそれとは明らかに違う。
季節は一歩づつ冬に向かっている。
どことなく物悲しいようなこの季節だが、僕は嫌いではない。
ともすれば夏と冬のつなぎのようであり、足早に過ぎ去ってしまう。
他の季節のように絶対的な季節感ではなく、おぼろげではかない。
そんな秋が好きだ。

我が家の庭にも秋が来た。
収穫の秋である。
桃と洋梨はすでに収穫を終えているが、りんごは真っ赤に熟れ、鳥が来て喜んでつつく。
フィジョアの実が熟れてそろそろ落ちるころで、地面に落ちたフィジョアの旨さは絶品だ。
イチジクは実を付け、熟れきって落ちたものをニワトリが喜んで食べる。
そうそう、ニワトリと言えば、ニワトリを買い足すのもこの時期だ。
しばらく前にニワトリエリアの門が壊れ、そこから逃げ出したヤツが犬のココに襲われて死んだ。
まだまだ卵を産む若い鳥だったが、仕方がない。
卵を産まなくなった古い鳥も絞めて埋めた。
以前は羽根をむしってさばいて食べていたが、苦労のわりに身が少なく、なおかつ噛み切れないぐらいに硬い。
なので最近は絞めたら埋めて土に還す。
古いのを絞めたら、若いのを3羽買ってきて、まず羽根を切る。
これをやらないと飛んでフェンスを越えてココの餌食となってしまう。
そして毎日暗くなってから止まり木に移してあげる。
慣れれば自分から止まり木に止まって寝るのだが、それまでは地面にしゃがんで寝てしまう。
餌も食べやすいように細かく切ってあげたり、子供は何かと世話がやけるのだ。
だいたい生後3ヶ月ぐらいのを買って、それが卵を産むのは2ヶ月ぐらい先だ。
卵を産み始めたら毎日1個産み、2年ぐらいは産み続け、パタリと産まなくなる。
産まなくなったら絞めて、また若いのを買い足してというのが、我が家のサイクルである。
健康的に育った鶏の卵は感動的に美味く、どこへあげても喜ばれる。
物でもなんでも奪い合えば足りなくなり、分け合えば余るのだ。

秋といえば収穫の秋。
コンニャク芋、長芋、キク芋の収穫も秋。
夏の間にお日さんの光をたっぷり浴びて、地中で育った芋が日の目を浴びる。
長芋は文字通り長く育つが簡単に折れる。
育てるより収穫が大変だ。
今年は鉄の波板を地中に斜めに埋め、それに沿って芋を育てた。
結果は見事に成功。
立派なのが何本もできた。
山芋はすりおろしてトロロ汁も良し、細く刻んで海苔をまぶし醤油で食うも良し、焼いても揚げても良し。
そしてまた、あのネバネバは健康にも良い、と良いことづくめである。
コンニャク芋も相変わらず絶好調で大ぶりなものがいくつも取れたし、小さいものはこれでもかというぐらいにできた。
コンニャク芋は簡単に増えていくので、庭の空いた場所がどんどんコンニャク畑になっていく。
独特の葉っぱの形をしていて栽培が簡単だからだろうか、最近では園芸屋で観葉植物のように売っているのを見た。
自家製コンニャクがこれまた美味い。
いつも思うのだが、この美味さは文では表現できない。
コンニャク自体には味も栄養も無いのだが、排毒作用がありこれまた体に良い。
コンニャクを食わなくても生きていけるが、美味い物を食うという意味において生活を豊かにする。
たかがコンニャクされどコンニャク。
コンニャクを笑う者はコンニャクに泣く。
泣かねーよ、誰も。

なんかしっとりと秋の話を書こうと思ったのだが、やっぱりグダグダと食い物の話になってしまった。
それに毎年同じような話を書いているな。
やはり食欲の秋なのだろうかね。



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