彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

佐和山一夜城復元プロジェクト

2007年09月01日 | イベント
20007年9月1日から16日まで、佐和山一夜城復元プロジェクトが佐和山麓の東山運動公園で行われています。

メインは、ベニヤ板100枚で作った18m×13mの石田三成・井伊直政が関わったとされる天守を描いたモノで、期間中は東山運動公園に立てられていて夜はライトアップもされます。

期間中は3回の佐和山歴史講座や土・日ごとにイベントが行われるんですよ。


そんな佐和山城は、鎌倉時代に六角氏から出た佐保時綱が館を建てたのが最初とされています。
佐和山は元々“佐保山”という地名で、これは藤原不比等が父を葬った明日香の佐保山に見立てて命名したそうです。

佐保時綱の後も何人かの所有者がでますが基本的には有事の時にだけ入る臨時のお城のような役割でした。


しかし、戦国時代になって近江国は北の京極氏(没落後は浅井氏)と南の六角氏との戦いが激しくなり双方の勢力がぶつかる佐和山城は境目の城として重要視されるようになったのです。


浅井長政が野良田表の戦いで六角義賢に勝利を収めて戦国大名として名乗りを揚げた翌年には重臣・磯野員昌を城主として住まわせます。
姉川の戦い後に織田信長に攻められて8ヶ月の篭城の末に磯野員昌は降伏しますが、城の価値が下がる事はなく、信長は重臣・丹羽長秀を城主として安土城が築城されるまで近江国内の居城として利用したのでした。


本能寺の変の後は堀秀久・堀尾吉晴と領主か代わり、石田三成が領主の時には天下無双の城の一つとなり「三成に過ぎたる物が二つあり 嶋の左近に佐和山の城」と呼ばれるまでになったのです。
関ヶ原の戦いの後に井伊直政が城主となり直政は佐和山城内で亡くなりました。


そして直政の息子・直継と直孝が彦根城築城を行い佐和山の資材を殆ど持っていってしまった為に現在では殆ど遺構を残していないのです。


ちなみに写真では5層の天守となっていますが、これは佐和山落城から約100年が過ぎた頃に西明寺に奉納された絵馬や当時の古老の言い伝えから5層とされているもので、実際は3層の天守ではなかったか?という説もあり管理人は3層説をとっています。
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