佐和山城の石で作られたお地蔵様の数々
慶長5年9月17日~18日、佐和山城が徳川家康軍に攻められ落城します。
この話は昨年の9月18日の日記に書いていますので、今回はこの佐和山城攻防戦の時に佐和山城内に居た17歳の女の子“おあん(お庵?)”が、晩年に子どもたちを集めて語った話が語り継がれ、享保年間に『おあむ物語』として記録された文章をそのまま紹介しましょう。
文語体ですが読み易いので当時の様子を赤裸々に知る事ができますよ(一部漢字や読み方を直していますが殆ど原文通りです)
『おあむ物語』
子ども集まりて「おあん様、昔物語なされませ」と言へば。
おれが親父は。山田去暦と言うて。石田治部少輔殿に奉公し。近江の彦根に居られたが。その後。治部どの御謀反の時。美濃の国大垣の城へ籠もりて。我々皆々一所に。御城に居て。おじやつたが。不思議な事が。おじやつた。夜な夜な。九つ時分に。誰ともなく。男女三十人ほどの声にて。田中兵部殿。田中兵部殿と。おめきて。その後にて。わつというて泣く声が。夜な夜な。しておじやつた。おどましや/\。おそろしう。おじやつた。
その後。 家康様より。攻め衆。大勢城へ向かはれて。戦が。夜昼おじやつたの。その寄せ手の大将は。田中兵部殿と申すで。おじやつた。石火矢を撃つ時は。城の近所を触廻りて。おじやつた。
それは何故なりや。石火矢を撃てば。櫓も緩々動き。地も裂けるやうに。すさまじいさかいに。気のよわき婦人なぞは。即時に目を回して。難義した。その故に。前かたに触れておいた。其触れが有ば。光物がして。雷の鳴を待つやうな心しておじやつた。
はじめのほどは。生きた心地もなく。ただもの恐ろしや。怖やと計。
我も人も思うたが。後には。何ともおじやる物じやない。我々母人も。その他。家中の内儀。娘たちも。皆々。天守に居て。鉄鉋玉を鋳ました。
また味方へ。取った首を。天守へ集められて。それ/\に。札を付けて。覚えおき。さい/\。首にお歯黒を付て。おじやる。それは何故なりや。
昔は。お歯黒首は。よき人とて。賞翫した。それ故。白歯の首は。お歯黒付て給はれと。頼まれて。おじやつたが。首も怖い物では。あらない。
その首どもの血臭き中に。寝た事でおじやつた。
ある日。寄せ手より。鉄鉋撃ちかけ。最早今日は。城もおち候はんと申す。殊のほか。城の内騒いだ事で。おじやつた。その所へ。大人来て。敵かげなき。しさりました。最早。お騒ぎなされな。静まり給へ/\と言ふ所へ。鉄鉋玉来りて。われら弟。十四歳になりしものに。当りて。そのまゝ。ひり/\として。死でおじやつた。
扨々。むごい事を見て。おじやつたのう。
其日。わが親父のもち口へ。矢文来りて「去暦事は、家康様御手習いの御師匠申された。訳のある者じやほどに。城を逃れたくは。御助け有べし。何方へなりとも。落ち候へ。路次のわづらひも。候まじ。諸手へ。おほせ置た」との御事で。おじやつた。
城は。翌の日中。攻め落とさるるとて。皆々。力を落して。我等も明日は失はれ候はむと。心細くなつて。おじやつた。親父ひそかに。天守へ参られて。此方へ来いとて。母人我等をも連れて。北の塀脇より。梯子を掛けて。吊り縄にて。下へ釣下げ。さて。盥に乗て。堀を向こうへ渉りて。おじやつた。
その人数は。親たちふたり。わらわと。大人四人ばかり。其ほか家来は。そのまゝにておじやつた。
城を離れ。五六町ほど。北へ行し時。母人にはかに。腹痛みて。娘を産み給ひた。大人。其まゝ。田の水にて。産湯つかひ。引あげて。つまに包み。母人をば。親父。肩へ掛けて。青野ヶ原の方へ落て。おじやつた。
怖い事で。おしやつたのう。昔まつかふ。南無阿弥陀。/\。
又子ども。彦根の話。被成よと言へば。おれが親父は。知行三百石取りて居られたが。その時分は。軍か多くて何事も不自由な事で。おじやつた。
勿論。用意は。めん/\蓄えもあれども。多分。朝夕雑水を食べて。おじやつた。
おれが兄様は。折々山へ。鉄鉋撃ちに。参られた。其時に。朝菜飯をかしきて。昼飯にも。持れた。その時に。われ等も菜飯を貰うて。食べておじやつた故。兄様を。再々勧めて。鉄鉋撃ちに行くとあれば。嬉しうて。ならなんだ。
さて。衣類も無く。おれが十三の時。手作の花染めの帷子一ツあるより他には。なかりし。その一つの帷子を。十七の年まで着たるによりて。脛が出て。難義にあつた。せめて。脛の隠れるほどの帷子一つ欲しやと。思うた。此様に昔は。物事不自由な事でおじやつた。
また昼飯など喰うと言う事は。夢にも無い事。夜に入り。夜食と言う事も。無かつた。
今時の若衆は。衣類の物好き。心を尽くし。金を費やし。食物に色々の好み事めされる。沙汰の限な事とて。
又しても。彦根の事を言うて。叱り給ふ故。後々には。子ども。しこ名を。彦根婆と言ひし。今も老人の昔の事を引て。当世に示すをば。彦根を言うと。俗説に言うは。この人より始まりし事なり。それ故。他国の者には通ぜず。御国郷談なり。
右去暦。土州親類方へ下り浪人土佐・山田喜助。後に蛹也と号す。
おあんは。雨森儀右衛門へ嫁す。儀右衛門死して後。山田喜助養育せり。喜助の為には。叔母なり。寛文年中。齢八十余にして卒す。予その頃。八・九歳にして。右の物語を。折々聞き覚えたり。誠に。光陰は矢の如しとかや。正徳の頃は。予すでに。孫どもを集めて。此物語して。昔の事ども。取り集め。世中の費を示せば。小ざかしき孫ども。昔のおあんは彦根婆。今の爺様は。彦根じぃよ。何をおじやるぞ。
世は時々じやものをとて。鼻であしらう故。腹も立てども。後世恐るべし。又後世いかならむ。孫どもゝ。また己が孫どもに。さみせられんと。是をせめての勝手に言うて。後はたゞなまいだ/\。より外に言うべき事なかりし。
右一通。事実殊勝の筆取なり。誰人の録せるや。未詳。疑らくは。山田氏の覚書なるへし。田中文左衛門 直の所持をかり出しといふ事しかり。
享保十五年庚戌三月廿七日 谷垣守
どうですか?
弟の死、首にお歯黒を塗った話、鉄砲の弾を作った話・・・
家族の脱出から母の出産まで色んな事が語られていますよね。
そして、昔を引き合いに当世の愚痴を言う事を「彦根」とこの地方では言うというのも面白い話ですね。
歴史は有名な人物だけではなくこう言った無名の一個人によって作られていくのだと考えさせられた一文でした。
ちなみに写真のお地蔵様は、佐和山の攻防戦で生き延びた人々がお城の石で彫った物が置かれているとの伝説があります。
写真以外にもこの近くにたくさん置いているんですよ。
慶長5年9月17日~18日、佐和山城が徳川家康軍に攻められ落城します。
この話は昨年の9月18日の日記に書いていますので、今回はこの佐和山城攻防戦の時に佐和山城内に居た17歳の女の子“おあん(お庵?)”が、晩年に子どもたちを集めて語った話が語り継がれ、享保年間に『おあむ物語』として記録された文章をそのまま紹介しましょう。
文語体ですが読み易いので当時の様子を赤裸々に知る事ができますよ(一部漢字や読み方を直していますが殆ど原文通りです)
『おあむ物語』
子ども集まりて「おあん様、昔物語なされませ」と言へば。
おれが親父は。山田去暦と言うて。石田治部少輔殿に奉公し。近江の彦根に居られたが。その後。治部どの御謀反の時。美濃の国大垣の城へ籠もりて。我々皆々一所に。御城に居て。おじやつたが。不思議な事が。おじやつた。夜な夜な。九つ時分に。誰ともなく。男女三十人ほどの声にて。田中兵部殿。田中兵部殿と。おめきて。その後にて。わつというて泣く声が。夜な夜な。しておじやつた。おどましや/\。おそろしう。おじやつた。
その後。 家康様より。攻め衆。大勢城へ向かはれて。戦が。夜昼おじやつたの。その寄せ手の大将は。田中兵部殿と申すで。おじやつた。石火矢を撃つ時は。城の近所を触廻りて。おじやつた。
それは何故なりや。石火矢を撃てば。櫓も緩々動き。地も裂けるやうに。すさまじいさかいに。気のよわき婦人なぞは。即時に目を回して。難義した。その故に。前かたに触れておいた。其触れが有ば。光物がして。雷の鳴を待つやうな心しておじやつた。
はじめのほどは。生きた心地もなく。ただもの恐ろしや。怖やと計。
我も人も思うたが。後には。何ともおじやる物じやない。我々母人も。その他。家中の内儀。娘たちも。皆々。天守に居て。鉄鉋玉を鋳ました。
また味方へ。取った首を。天守へ集められて。それ/\に。札を付けて。覚えおき。さい/\。首にお歯黒を付て。おじやる。それは何故なりや。
昔は。お歯黒首は。よき人とて。賞翫した。それ故。白歯の首は。お歯黒付て給はれと。頼まれて。おじやつたが。首も怖い物では。あらない。
その首どもの血臭き中に。寝た事でおじやつた。
ある日。寄せ手より。鉄鉋撃ちかけ。最早今日は。城もおち候はんと申す。殊のほか。城の内騒いだ事で。おじやつた。その所へ。大人来て。敵かげなき。しさりました。最早。お騒ぎなされな。静まり給へ/\と言ふ所へ。鉄鉋玉来りて。われら弟。十四歳になりしものに。当りて。そのまゝ。ひり/\として。死でおじやつた。
扨々。むごい事を見て。おじやつたのう。
其日。わが親父のもち口へ。矢文来りて「去暦事は、家康様御手習いの御師匠申された。訳のある者じやほどに。城を逃れたくは。御助け有べし。何方へなりとも。落ち候へ。路次のわづらひも。候まじ。諸手へ。おほせ置た」との御事で。おじやつた。
城は。翌の日中。攻め落とさるるとて。皆々。力を落して。我等も明日は失はれ候はむと。心細くなつて。おじやつた。親父ひそかに。天守へ参られて。此方へ来いとて。母人我等をも連れて。北の塀脇より。梯子を掛けて。吊り縄にて。下へ釣下げ。さて。盥に乗て。堀を向こうへ渉りて。おじやつた。
その人数は。親たちふたり。わらわと。大人四人ばかり。其ほか家来は。そのまゝにておじやつた。
城を離れ。五六町ほど。北へ行し時。母人にはかに。腹痛みて。娘を産み給ひた。大人。其まゝ。田の水にて。産湯つかひ。引あげて。つまに包み。母人をば。親父。肩へ掛けて。青野ヶ原の方へ落て。おじやつた。
怖い事で。おしやつたのう。昔まつかふ。南無阿弥陀。/\。
又子ども。彦根の話。被成よと言へば。おれが親父は。知行三百石取りて居られたが。その時分は。軍か多くて何事も不自由な事で。おじやつた。
勿論。用意は。めん/\蓄えもあれども。多分。朝夕雑水を食べて。おじやつた。
おれが兄様は。折々山へ。鉄鉋撃ちに。参られた。其時に。朝菜飯をかしきて。昼飯にも。持れた。その時に。われ等も菜飯を貰うて。食べておじやつた故。兄様を。再々勧めて。鉄鉋撃ちに行くとあれば。嬉しうて。ならなんだ。
さて。衣類も無く。おれが十三の時。手作の花染めの帷子一ツあるより他には。なかりし。その一つの帷子を。十七の年まで着たるによりて。脛が出て。難義にあつた。せめて。脛の隠れるほどの帷子一つ欲しやと。思うた。此様に昔は。物事不自由な事でおじやつた。
また昼飯など喰うと言う事は。夢にも無い事。夜に入り。夜食と言う事も。無かつた。
今時の若衆は。衣類の物好き。心を尽くし。金を費やし。食物に色々の好み事めされる。沙汰の限な事とて。
又しても。彦根の事を言うて。叱り給ふ故。後々には。子ども。しこ名を。彦根婆と言ひし。今も老人の昔の事を引て。当世に示すをば。彦根を言うと。俗説に言うは。この人より始まりし事なり。それ故。他国の者には通ぜず。御国郷談なり。
右去暦。土州親類方へ下り浪人土佐・山田喜助。後に蛹也と号す。
おあんは。雨森儀右衛門へ嫁す。儀右衛門死して後。山田喜助養育せり。喜助の為には。叔母なり。寛文年中。齢八十余にして卒す。予その頃。八・九歳にして。右の物語を。折々聞き覚えたり。誠に。光陰は矢の如しとかや。正徳の頃は。予すでに。孫どもを集めて。此物語して。昔の事ども。取り集め。世中の費を示せば。小ざかしき孫ども。昔のおあんは彦根婆。今の爺様は。彦根じぃよ。何をおじやるぞ。
世は時々じやものをとて。鼻であしらう故。腹も立てども。後世恐るべし。又後世いかならむ。孫どもゝ。また己が孫どもに。さみせられんと。是をせめての勝手に言うて。後はたゞなまいだ/\。より外に言うべき事なかりし。
右一通。事実殊勝の筆取なり。誰人の録せるや。未詳。疑らくは。山田氏の覚書なるへし。田中文左衛門 直の所持をかり出しといふ事しかり。
享保十五年庚戌三月廿七日 谷垣守
どうですか?
弟の死、首にお歯黒を塗った話、鉄砲の弾を作った話・・・
家族の脱出から母の出産まで色んな事が語られていますよね。
そして、昔を引き合いに当世の愚痴を言う事を「彦根」とこの地方では言うというのも面白い話ですね。
歴史は有名な人物だけではなくこう言った無名の一個人によって作られていくのだと考えさせられた一文でした。
ちなみに写真のお地蔵様は、佐和山の攻防戦で生き延びた人々がお城の石で彫った物が置かれているとの伝説があります。
写真以外にもこの近くにたくさん置いているんですよ。