慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原の戦いが行われます。
昨年の9月15日にも関ヶ原の話をし「小早川秀秋は裏切りではなくて英断だ」という事を書きましたが、この一年で新たに解った事がありますのでその辺りをご紹介しましょう。
○石田三成襲撃事件の経過。
豊臣秀吉の死後、前田利家と共に徳川家康に対抗しようとした三成でしたが、秀吉の死の半年後に利家が亡くなってしまいます(慶長4年閏3月3日)、この日の晩に豊臣武断派七将が大坂の三成屋敷を襲撃する計画を立てました。
この情報を掴んだ三成は、伏見の自分の屋敷に逃げ込んだのです。そしてこの屋敷を武断派七将が囲んだのです。
この時、徳川家康は伏見に居たので自分のすぐ近くで起こるこの事件を無視できる立場ではありませんでした。そこで仕方なく重臣・井伊直政を七将の元に派遣して兵を引かせ三成を保護したのです。
この結果、武断派の襲撃は収まりますが、三成は失脚して居城・佐和山城に引き篭もる事になったのです。
今までは三成は家康の屋敷に逃げ込んだという事になっていたのですが、家康の手紙からこの事が分かってきたのです。
○秀忠遅参の理由
上杉征伐の途中・小山で石田三成挙兵の報を聞いた家康は、豊臣武断派に三成を憎む気持ちを大きくさせて味方につけ大坂へ向かわせました、そして自分は江戸城に入って準備を整えたのです。
この時、家康の三男・秀忠に徳川家譜代の家臣を与えて別働隊として中山道から大坂に向かわせています、秀忠に従った家臣に家康の軍師・本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政と本多忠勝が居た事からこの軍が徳川本隊とする考え方もあります。
東海道を進む事になった豊臣武断派大名には井伊直政が軍監として付く予定でしたが、直政が江戸滞在中に病になった為に、急に本多忠勝が中山道から呼び戻されたのです。
このため、忠勝は500の兵しか連れて来れず、関ヶ原では家康の傍らを離れる事ができなかったのでした。
そして家康が江戸城に滞在する間に三成は大垣城を支配下に置いて軍事拠点とします。
この間に豊臣武断派は破竹の勢いで東海道を進み、そのまま岐阜城を落としてしまいました。
慌てたのはこの軍に居た井伊直政と本多忠勝です。
本来ならもっとゆっくり進んで中山道の本隊と合流する予定が、進軍の早さに本隊を待っていたら豊臣武断派達が勝手に戦を仕掛ける可能性も出てきたからです。
結局、秀忠は捨てて家康到着と同時に決戦する事が決定されました。
つまり、秀忠は予定通り進んでいたのに東海道軍のスピードが速すぎて関ヶ原に間に合わなかったのです。
関ヶ原にはまだまだ新しい謎が潜んでいます。常に注目していてもいい位に意外性がたくさんありますよね。
昨年の9月15日にも関ヶ原の話をし「小早川秀秋は裏切りではなくて英断だ」という事を書きましたが、この一年で新たに解った事がありますのでその辺りをご紹介しましょう。
○石田三成襲撃事件の経過。
豊臣秀吉の死後、前田利家と共に徳川家康に対抗しようとした三成でしたが、秀吉の死の半年後に利家が亡くなってしまいます(慶長4年閏3月3日)、この日の晩に豊臣武断派七将が大坂の三成屋敷を襲撃する計画を立てました。
この情報を掴んだ三成は、伏見の自分の屋敷に逃げ込んだのです。そしてこの屋敷を武断派七将が囲んだのです。
この時、徳川家康は伏見に居たので自分のすぐ近くで起こるこの事件を無視できる立場ではありませんでした。そこで仕方なく重臣・井伊直政を七将の元に派遣して兵を引かせ三成を保護したのです。
この結果、武断派の襲撃は収まりますが、三成は失脚して居城・佐和山城に引き篭もる事になったのです。
今までは三成は家康の屋敷に逃げ込んだという事になっていたのですが、家康の手紙からこの事が分かってきたのです。
○秀忠遅参の理由
上杉征伐の途中・小山で石田三成挙兵の報を聞いた家康は、豊臣武断派に三成を憎む気持ちを大きくさせて味方につけ大坂へ向かわせました、そして自分は江戸城に入って準備を整えたのです。
この時、家康の三男・秀忠に徳川家譜代の家臣を与えて別働隊として中山道から大坂に向かわせています、秀忠に従った家臣に家康の軍師・本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政と本多忠勝が居た事からこの軍が徳川本隊とする考え方もあります。
東海道を進む事になった豊臣武断派大名には井伊直政が軍監として付く予定でしたが、直政が江戸滞在中に病になった為に、急に本多忠勝が中山道から呼び戻されたのです。
このため、忠勝は500の兵しか連れて来れず、関ヶ原では家康の傍らを離れる事ができなかったのでした。
そして家康が江戸城に滞在する間に三成は大垣城を支配下に置いて軍事拠点とします。
この間に豊臣武断派は破竹の勢いで東海道を進み、そのまま岐阜城を落としてしまいました。
慌てたのはこの軍に居た井伊直政と本多忠勝です。
本来ならもっとゆっくり進んで中山道の本隊と合流する予定が、進軍の早さに本隊を待っていたら豊臣武断派達が勝手に戦を仕掛ける可能性も出てきたからです。
結局、秀忠は捨てて家康到着と同時に決戦する事が決定されました。
つまり、秀忠は予定通り進んでいたのに東海道軍のスピードが速すぎて関ヶ原に間に合わなかったのです。
関ヶ原にはまだまだ新しい謎が潜んでいます。常に注目していてもいい位に意外性がたくさんありますよね。