安政6(1859)年9月8日、京で小浜藩士・梅田雲浜が捕縛され安政の大獄が始まりました。
国内に対する杞憂や海外対策についてこの段階で井伊直弼と一番近い思想を抱いていたのは、側近の長野主膳や宇津木六之丞ではなく、ましてや幕閣の開国派でもありませんでした。
直弼と思想が似ていたのは実は吉田松陰だったのです。
しかし、直弼と松蔭の違いは身分でした。
「日本の国営は幕府に任せればいい、幕権強化こそがこの国を救う道」
と考えていた直弼は、江戸城内での政敵を失脚に追い込みましたが、在野の事は全く分らないので長野主膳に全てを任せてしまったのです。
こうして、長野主膳にとって都合が悪いだけの人物も多く処罰されてしまったのでした。
安政の大獄は、梅田雲浜を始め吉田松陰・橋本佐内など多くの有能な人材を失うきっかけになってしまった残念な幕末史でもあります。
もしもの話ですが、埋木舎時代の直弼に松蔭が会っていたら(この頃の松蔭は全国を旅していたので可能性が無かった訳ではない)。
はたまた、松蔭が海外密航に成功して堂々と日本に帰ってきていたら・・・
幕末史は違った側面を見せていたかも知れませんよ。
国内に対する杞憂や海外対策についてこの段階で井伊直弼と一番近い思想を抱いていたのは、側近の長野主膳や宇津木六之丞ではなく、ましてや幕閣の開国派でもありませんでした。
直弼と思想が似ていたのは実は吉田松陰だったのです。
しかし、直弼と松蔭の違いは身分でした。
「日本の国営は幕府に任せればいい、幕権強化こそがこの国を救う道」
と考えていた直弼は、江戸城内での政敵を失脚に追い込みましたが、在野の事は全く分らないので長野主膳に全てを任せてしまったのです。
こうして、長野主膳にとって都合が悪いだけの人物も多く処罰されてしまったのでした。
安政の大獄は、梅田雲浜を始め吉田松陰・橋本佐内など多くの有能な人材を失うきっかけになってしまった残念な幕末史でもあります。
もしもの話ですが、埋木舎時代の直弼に松蔭が会っていたら(この頃の松蔭は全国を旅していたので可能性が無かった訳ではない)。
はたまた、松蔭が海外密航に成功して堂々と日本に帰ってきていたら・・・
幕末史は違った側面を見せていたかも知れませんよ。