彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

9月5日、卑弥呼殺害

2007年09月05日 | 何の日?
(写真は比婆神社)


西暦248年9月5日、日本で皆既日食が起こりました。この日卑弥呼が殺害されたという説があります。

太陰暦では皆既日食が起きるのは必ず1日(新月の日)になります。逆に皆既月食は16日(望月の日)しか起きません、ですので先日の皆既月食も旧暦では16日になっているはずです。
でも、卑弥呼の頃の暦はよく分かりませんので現在の暦でお話します。


神話の中に『天岩戸』というお話があります。
「弟のスサノオの乱暴に怒ったアマテラスが岩戸に隠れます。すると(アマテラスは太陽神なので)世の中が真っ暗になり困った神々が相談をして岩戸の前で宴会を開いてアマテラスを岩戸から引っ張り出したのです。すると世の中が明るくなった」という概要の話でしたね。

この事件(?)が起こった日が確定しているのです。この日を確定する要素は何の日か? と言うと日本全体で皆既日食が観測出来た日という事になります。
天文学を歴史と重ねてみると面白い事が見える時があります。
その中の一つがこれでした。
ちなみに本能寺の変がなぜ6月2日未明に起きたのか? という疑問も天文学で考えると簡単なのです。6月1日の夜は新月で真っ暗だったから兵が隠しやすかったからなんですよね 。


話を戻して、昼間なのに太陽が隠れそしてまた現れる。これこそ天岩戸の原点なのです。
そしてこの248年にはもう一つ大きな出来事が起きています。それが卑弥呼の死亡でした。


皆既日食と卑弥呼が死亡した年が重なったのは、ただの偶然なのでしょうか?
世界でも少数の太陽信仰をしている民族が皆既日食に何の恐怖も抱かないと言う方が難しいですよね。

では何か起こったか?の事実はどこにも伝わっていません。『逆説の日本史』の著者・井沢元彦さんはこの日に太陽を失った卑弥呼は民衆に殺されたのだ。と解釈しています。

太陽の巫女(日巫女)である卑弥呼が、太陽が消えて民衆が恐れおののいた混乱で殺されてしまうというのです。

もしそれが事実とするなら天岩戸は埋葬の瞬間と次の女王(壱与)が立つまでを記録した話となるのです。
(岩戸)隠れる→宴会(騒ぐ)→出てくる
(歴史)卑弥呼死亡→倭国騒乱→壱与登場



では、この話は彦根とどういった関係があるのでしょうか?
まずは、男鬼町にある比婆神社。ここはアマテラスの母であるイザナミが祭られている神社でイザナミが入山(亡くなるという意味らしいです)した場所だといわれています。

ここの比婆神社のある山の岩場を天岩戸だと考える説もあります。
ちなみに河内の風穴もこの批准地になる場合があります。
もっともこういう説は全国にあるのですが、管理人は神話の出来事はある特定の小さな地域で起こった出来事が日本の知識人の視界が広がるたびに全国に散って行ったと思っています。

そういう意味では、多賀大社や金亀伝説、金鶏伝説を始め『イナバの白うさぎ』伝説が残る彦根周辺に天岩戸があってもおかしくは無いですよね。


ちなみに、卑弥呼の邪馬台国が大和にあったという説があります。
この邪馬台国大和説は近江には無関係ではありませんこの説は孝元天皇の娘を卑弥呼と考え、卑弥呼の補佐をしていた弟を開化天皇と考えられています。

開化天皇では倭国大乱を招いてしまうので、別系統である壱与が登場し、その後を崇神天皇が継いでゆきます。


では開化天皇の系統はどうなったのでしょうか?
この一族は南山城(京都市周辺)から近江に逃れ近江王朝を築いたのです。
そして琵琶湖の水運を基に淀川・瀬戸内にまでの交通を管理し、渡来人の受け入れから政治・鉄文化を吸収し応神天皇の時に大和へ返り咲きました。

この近江王朝説は今でも奇説の域を出ない扱いを受けていますが(天皇家は万世一系が基本とされているので・・・)、古墳時代の出土品の中に大津と奈良を結ぶ物も発見されていてありえない説ではないのですよ。



余談
ここまで書きましたが、実は管理人は邪馬台国は秋田県八幡平説を推しています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする