彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

9月19日、助作騒動

2007年09月19日 | 何の日?
万治元(1658)年9月19日、彦根藩奉行所は本庄助作騒動の判決を出しました。


・・・と言っても、彦根の人でも「本庄助作って誰やねん!」と言いたくなるのではないでしょうか?

本庄助作は小早川隆景の一族が彦根の本庄に移り住んだ一族の当主でした。
彦根藩が2代藩主井伊直孝だった頃の万治元年、助作は近くの新村・阿弥陀堂村・乙浜村(すべて今の東近江市)の人々を相手に訴訟を起こします。

訴訟に内容は愛知川左岸川尻に自生する葦の所有権を巡るものだったのです。
当時、葦は使い道が多くとても重宝される植物で高値で取引されていました。そしてこの土地の葦は助作の母方の祖父が権利を有していて助作の母が本庄家に嫁ぐ時に口約束で譲られたものでした。

しかし、この祖父が亡くなると新村を始めとする三村の人々が勝手に葦を刈りはじめたので助作が所有権を主張して注意を促しますが、三村の人々は無視し続けたのです。


こうして訴訟が行われ、助作も何度も彦根藩の奉行所に出頭しました。
この時にあった不思議な話は「八坂地蔵尊」のところで書いているので参考にしてくださいね。

さて、9月19日にこの訴訟に判決が出ました。
この日、助作は証拠不十分(口約束だったので)で敗訴となりました。
しかし納得できない助作は、武士として潔く死んで正義を示そうと、奉行所で十文字に腹を切り果てたのです。そして介添え人が助作の内臓を三宝に乗せて奉行所に提出しました。
助作の意気込みと誠意を知った奉行所は、先の判決を取り下げて助作勝訴としたのでした。

本庄村の人々はこの助作の正義を褒め称え、明治までは屋敷も残っていました。

江戸時代はこういった訴訟事が結構多かったそうですよ。
コメント
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