彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『日米修好通商条約締結150年記念式典』その2

2008年07月29日 | 講演
【記念講演】
○ミシガン州立大学連合日本センター所長 ポール・レーガン
『アメリカから見た井伊直弼公について』
 アメリカ合衆国初代駐日大使タウンゼント・ハリスは、1857年11月30日月曜日の日記に次のように記しています。
「今日、私は江戸の入る。私の人生において非常に重大な出来事である。さらに日本の歴史において非常に重大な出来事である。
 私は江戸に入る事を許された最初の外交代表となるのだ。たとえ私の交渉が失敗に終わっても成功しても、これは長らく人々の記憶に残る偉大な事実となる。
 少なくともこの特異な日本の国民に“外交権”というものを知らしめるのであるから」
 有能なビジネスマンでもあり、またニューヨークの教育局長でもあったタウンゼント・ハリスはペリー提督が1853年から54年に開始した計画をやり遂げたのでした。
 公式の遠征記録によりますと、ペリー遠征の目的は「友好と通商に関する条約を締結し両国の交渉において相互に遵守すべき規則を定める事」でした。
 ペリー提督の来訪によって促進された出来事は、タウンゼント・ハリスが考えたように活気的な出来事であっただけではなく、日本のそれまでの社会的・政治的・文化的な慣行を大きく変えるものでありました。その影響は21世紀の今日になってもまだ残っています。
 1853年にペリー提督が日本の沖合いに現れたわけですが、それ以前にも食糧などの補給を得ようとする外国船は存在していました。しかし17世紀以降徳川幕府の下で厳格でそして選択的な鎖国政策が実施されてきました。唯一の例外としては、長崎出島においてオランダとの制限的な貿易が許されていました。
 もちろん中国や朝鮮から頻繁に使節団が来訪していました。中国も長崎での貿易を求めていたわけですが、しかしこれらの貿易は厳しく制限されまた形式的なものでした。
 18世紀後半から19世紀のかけて、ロシアの船乗りの冒険家やロシアンアメリカカンパニー(露米会社)の代表者ニコライ・レザノフとの出会いもありましたが、いずれの場合もこれら外国船は日本の沿岸から排除されています。
 数名の藩主が日本沿岸や蝦夷地(北海道)の警備に関する懸念を持ち、1825年、英国船が補給を目的に長崎を襲った事件(1808年のフェートン号事件)を受けて幕府(水野忠邦)は「必要な場合は躊躇せず外国船を追い払うべし」という法令を発布するにいたりました。史家はこれを『無二念打払令(異国船打払令)』と呼んでいます。
 アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンは対中貿易の開始を睨んで、1834年にイギリスに押し付けた条約による交易の利益を保護した後に、極力日本との交易を開始するように海軍司令官に指示を出しました。

 どうしてアジア、そして日本に感心が向けられたのでしょうか?
 貿易が非常に大きな要因であった事は間違いありません。またアメリカ合衆国は人口や領土を拡大しようとしていました。1858年にペンシルバニア州で石油が発見されましたが、それまでは捕鯨が産業に必要な富や源泉を生み出す資源でした。西部への領土拡大・太平洋側へのマニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)に導かれた進出は領土の拡大のために進められたのですが、それに伴って中国や太平洋のその他の地域を目指す船乗りや商人たちにとって、水や石炭そしてそれ以外の必需品の調達において日本が重要な存在になってきたのです。
 そして「日本政府との関係を樹立するための武力行使を行わない」という命令を受けて、1846年アメリカ海軍のジェームズ・ビドル提督が初めて江戸湾に来航しました。ビドル提督はしきたりに従って長崎に行くように説明を受け提督は立ち去りました。
 しかしアメリカ国内ではその後も努力が続けられ、1849年にニューヨークの実業家アーロン・ヘイト・パーマーは官民の双方からアジアとの交易促進に関する支持を得ようとしていました。ここでパーマーは日本との交易関係を持つ事の利益を具体的に次のように説明したのです。
「今こそ我々自身の対外貿易を賢明に推し進めねばならない。それは促進し拡大し保護されねばならない。そしてそんな対外貿易を有利に進めるためにアメリカの政治家は諸外国の生産・資源・地理的・政治的そして商業的な統計や事実に精通する必要がある」
 パーマー自身も日本の歴史や文化に精通していたと思われます。パーマーは日本について書いています。
「孤立して神秘的な国・日本は、1637年以来、中国とオランダを除く全ての諸外国との交流や交易を断ってきたが、今は止むを得ず通商の波に呑まれることになるであろう。そして日本列島は東洋においてのイギリスになるであろう。
 日本人は活力に溢れ活き活きとした国民である、そして忠義に基く名誉を重んじる国民である」
パーマーは(アメリカ政府は)滞りなく必要に応じて支援を提供できるように、将軍宛てに政府の書状を送るように提案をしているのです。将軍・幕府・天皇に対し「アメリカ人が望んでいるのは、平和的でお互いに利益になるような商業的な関係である」ということを強調したいと言っているのです。
「征服・植民地化の意図が無い事を明確にする様に」とも進言しているのです。

 それから数年後の1853年に幕府がペリーを認めるにはどの様な変化があったのでしょうか? それは世界中で起こっていました。19世紀の世界秩序は「自由貿易」もしくは「自由貿易の帝国主義」と呼ばれる出来事によって変わってきていたのでした。

 幕府の権威の低下をもたらした原因をお話すると、不安定な状況をもたらした内外の要因です。日本語で言うと“内憂外患”というもので、国内の混乱と外国からの危険になります。興味深いことに中国の歴史では“内憂外患”は王朝の衰退をもらたすようなトラブルを意味しています。
 これらを考えると1853年のペリー提督来航に単を発する出来事の重大性が理解できるようになるでしょう。
 1830年代までに徳川幕府は、貨幣改定や服装・振舞いの贅沢禁止令など様々な改革を行いました。これらの政策を研究した歴史家は殆どの場合「これらは本当の原因を解決するのではなく対処療法的なものであった」と考えています。
ここには3つの要素がありました。
1.忠義の定義
 その者が仕える大名や将軍や天皇に対し忠実であるのか? という問題ですがこれは『水戸学』の焦点でもありました。天皇の支配を強調する立場でもあったのですが、この問題のユニークな回答が藤田幽谷によって提案されました。
 幽谷は「将軍が皇室を崇めれば、全ての大名は将軍を尊敬する。大名が将軍を尊敬すれば、幕府の重鎮や役人も大名を大切にするであろう。このようにして高位の者も低位の者もお互い擁護しあうようになり国も調和する」と考えたのでした。
2.権力の変化
 徳川時代の後期には社会的・経済的・政治的な権力の大きな再分配や変化がありました。これが最も多く見て取れたのは、侍や農民が貧困化したのに対し、都市商人の多くが繁栄を享受したという事。
 このような変化によって理想的と思われた身分間の伝統が大きな変化をしてきました。
3.経済の実態と経済政策
 農業社会であった日本が、徳川政策の自然の既決によって変化します。すなわち城下町の発展です。そして参勤交代による城下町の経済効果、つまり参勤交代の武士たちを相手にしたサービスが、非常に複雑で微妙な経済効果を城下町に誕生させたのです。

 この様な国内問題もあって1840年代になると日本は最早世界で起こっているような諸問題に無関心では居られなくなりました。中国では1838年にアヘン戦争が起こり、イギリスの軍事的な成功や新しい征服者の経済的利益を保証するような条約(1842年南京条約など)によって新しい国際交流の規則、交易の決まりが生まれたのです。
 これは不平等条約が基になっています。すなわち“治外法権”“関税自主権”それ以外の国家主権の損失に繋がるような要求を含む条項のシステムです。

 1844年、オランダのウィリアム二世から将軍宛てに書簡が届きました。
 この中でウィリアム二世は日本を脅かす危険を理解する事の必要性に言及し「遠く離れていても蒸気船はやって来る。この様な動向に無関心でいると他国から敵意を向けられる恐れがあります。日本の天皇が定めた法律により外国人との交易が厳しく制限されている事は承知しています。
 しかし老子が言っています『賢者が王位に着けば平和が守られるが、古い法律が厳しく平和を損なう恐れがあるなら賢者はそれを緩和せねばならない』と」
 このウィリアムの助言を読むと、井伊直弼の役割はどのようなものであったのでしょうか? またペリー提督の来航に伴って井伊直弼がどの様な解釈を行ったか?について考えずにはいられません。
 1857年ペリーはアメリカ大統領から日本開国の為に「どの国も皆、他の国との交流の度合いを自国で定める権利を有している。しかしこの権利の行使の根拠となる法律は同時にその国に対してしかるべき義務をも課すことになる、海難に遭った者を救助し上陸させる。その事はどの国にとっても責務である。この様な不幸な者たちを残虐な犯罪者の如く扱い、しかもそれを習慣的・組織的に漂難者の命を無視するような事があればその国には人類共通の敵とみなさざるを得ない」という命令を受けていました。
 日本の鎖国令に対するアメリカや西洋諸国の立場は明確に解釈することができます。日本は世界的に孤立はしていましたが、世界で起こったことに無関心であった訳ではありません。蘭学という形で世界を学ぼうとする活発な計画が存在いました。
 出島のオランダ人が西洋諸国の学問を伝える窓口となっていました。宗教に触れない限り武器・生物・化学・天文学やその他の化学的な発見や情報を習得することは幕府によっては強く奨励されていました。有名な言葉ですが「西洋の芸、東洋の道徳」とも言われました。
 各藩でも薩摩藩や水戸藩では大砲や他の武器を製造する為の工場が建設されています。幕府と大名の間には沿岸防衛システムの改善や、若い侍への新しい武器や戦術の提供に関して協力関係も存在していました。備え・技術・軍備の必要性はペリー来航と共に大きな高まりを見せることとなりました。
 日本の指導者の大きな関心は、諸外国に対抗できるのはいつなのか?何年後なのか?ということでした。2.3年で開発できるだろう。という誤った認識を持ちました。実際にはそんな余裕は殆ど残されていなかったのです。
 ペリーの流儀もユニークなものでした。ペリーはビドル提督とは違って武力を誇示する事を最初から決めていました。彼は日記に「文明国が、文明国に対して示すべき儀礼をお願い事として要請するのではなく、当然の権利として強く要求する」と決意を記しています。更に「私が断固強固に主張すればするほど、彼らは私に対してより深い敬意を払う事になるだろう」とも記しています。
 ペリーはこの使命を成功させる決意を持っていました、そして天皇前で横柄な態度を示すことのリスクも知っていました。そしてアメリカと日本におけるこの条約が結ばれれば、これは他の列強に対して最初の洗礼を提供しえるものであることも知っていたのです。進歩的な通商条約に向けた出発点になる事も充分知っていました。
 ペリーは旧来の制限政策を打破する目的を達成しました。通商条約の締結はタウンゼント・ハリスの重大な仕事となりましたが、日本の指導者の欠如により日本は危機的状況にありました。
 ハリスは2年以内に日本人が、ハリス自身が考えた通商条約を提供するつもりでいました。1857年にハリスは既に条約の条件をまとめていました。ハリスの考えは主にペリーと同じ様なものでしたが、ハリスのほうが有利な点が幾つかありました。ハリスは平和的な条約調印をモットーとしていたのです。
 関係者や幕府の努力を尊重しながら、幕府内の緊張を緩和することも可能と考えたのです。
 幕府に外交要求をするとついに「実は天皇の容認が必要である」と聞かされてハリスは愕然とします。そのような案件は将軍と指導者で充分と考えていたハリスは、交渉相手は老中でよいと考えていたのですが、その老中が次々と辞職に追い込まれていきました。
 1858年、そのような情勢の中で井伊直弼が大老に就任しました。国家の危機の意味付けの大老です。幕府の威信と権威を守り日本人の品位を守る為に必要な処置を敢えて断行することを井伊直弼は決定しました。そして直ちに『日米修好通商条約』締結を承認したのです。
 井伊家は徳川家の譜代大名の筆頭格として幕府に仕えてきました。井伊家は強力な外様大名や水戸家の圧力に常に対抗してきました。この圧力は利害の衝突という観点から政治的・思想的に解釈を行う事が可能でしょう。
 井伊家の関心は、中央政府の権威と支配を保護することであったと考えます。外様大名は事ある毎に中央政府の権力を弱め、反対に自分たちの力を高めて自分たちの利益を促進しようとしました。これが原因で徳川家定が1858年に世を去って以来争いが頻発したのです。この不幸な出来事によって事態は困窮を極めました。そんな中で井伊直弼は条約調印を進めることとなったのです。
 井伊直弼はこの争いをどの様に考えどの様な処置を執ったのでしょう? 海外との戦争を要求した水戸藩主の徳川斉昭とは対照的に、井伊直弼は1853年の建白書に「現在の状況においてはこれまでのように単に鎖国を主張するだけで国家の安全と平和は維持できない。我々は17世紀初頭に存在した公認の交易船制度を復活させる必要があると考える。我々はもはや祖国を鎖国に留める祖法だけを主張する時代ではない。新たな蒸気船を建造し、国民は直ちに西洋風の訓練を開始すれば西洋人に引けを取るものではない」と主張しています。
 またこの前文を読むと、外国人に対して国の防衛を向上させる必要があることを力説させる直弼の雄弁を見て取れます。しかし井伊直弼は攘夷派が訴えるような感情的な要素は持ち合わせていませんでした。直弼は文化人であり深い学者でありました。日本が引き込まれた政治の世界に関する現実主義を冷静に持ち続けていたのです。
更に「この様な国情において、恒久的な問題を生じさせる事なく我が国の沿岸を守ろうとすれば、それが例え祖法を全面的または部分的に変更することを必要とするのであってもそれは祖先の意思に反するものではないと考える。したがって幕府が早急に行わなければならない事は、国民の不安をしかるべき順序で取り除き、秩序を回復する事である」と書き、国内における意見の相違・派閥主義などよりも、国家としての外交・相互理解そして協力が重要であり、日本の保護と敢然性が大切であると強く訴えたのです。
 直弼はこの先の2年間と人生の最後の数年において大きな責任を担うわけですが、国内国外双方の危機的状況をますます深く理解する様になっていくのです。それが、より大きなものに身を投じ、自身を犠牲をする事の信実を生きたいという現実的な理解であろうと考えます。
 したがって今こそ、井伊直弼の人生・学問・政治における業績を見直す時は他にはありません。個人的野望で国家権力に就いたのではありません。この業績と日本の重大な時期と外交史を更に研究する事で我々は人間の美徳を高めて具現した“井伊直弼”という人物を更に知ることができるのではないでしょうか?

【記念品贈呈】
 彦根市長より駐日米国大使館に記念品を贈呈されました。
 彦根仏壇の伝統工芸師による蒔絵(おしどりと撫子の花)の額(写真参照)

【開催市長お礼の言葉】
○彦根市長 獅山 向洋さん
 この『井伊直弼と開国150年祭』につきましては、彦根市民としても色々な思いを込めて開催しております。それは、まず過去は過去としてやはりこれからの50年100年150年の未来に向けてアメリカ合衆国及びオランダ・ロシア・イギリス・フランスの開国5カ国や全世界の皆さんとより一層平和で仲良く暮らしていきたい。というのが第一の念願です。
 また、やはり150年前の井伊直弼公の念願でもあったと思います。直弼公の念願を150年経った今、さらに広げていくのが私たちの責務ではないかと思うのです。
 それと、井伊直弼公の本当に正しい業績を日本のみならず全世界の方々に知っていただきたい。これが私の念願です。本日の記念式典でその念願が一歩でも進んだのではないかと嬉しく思っている次第です。
 話は変わりますが、只今HNKの大河ドラマにおきまして『篤姫』が放映中です。正直申しますと毎週日曜日の8時になると彦根市民は「今日はどの様な井伊直弼公が描かれるのか?という期待と不安に満ちています」これはあくまでドラマと思いながらも、地元としてはハラハラしてこの日を待っている訳です。偶然か、あるいはNHKの意図か?ちょうど『日米修好通商条約』締結150年目にこの井伊直弼が出てくるようなドラマが放映されているということも、彦根市民にとっては一つの追い風ではないかと思っている次第です。
 今年、また来年も『井伊直弼と開国150年祭』を続けさせていただきまして、井伊直弼公が正しく評価されるように頑張って参りたいと思っています。
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『日米修好通商条約締結150年記念式典』その1

2008年07月29日 | 講演
写真は彦根宣言調印式


平成20年7月29日
日米修好通商条約が締結された安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)から150年目の日にちなんで、『日米修好通商条約締結150年記念式典』が開催されました。
 彦根では前日の大雨を再び予感させるかのような厚い雲が空を覆う中、彦根港には琵琶湖遊覧船「ビアンカ」が、150年前に日米修好通商条約がアメリカ軍艦ポーハタン号船上で締結された故事に習い式典の舞台となるべく停泊していたのです。

午前9時半頃
 関係者から極度の緊張が走ります。
 この式典に際し、高円宮久子妃殿下ならびに承子王女殿下がお乗りになられたお車がビアンカ横に到着。両殿下はにこやかに船中へと歩んでいかれました。

 懸念されていた雨は一時期船の窓を濡らしましたがやがて止み、午前10時よりビアンカ船内において式典が始まったのです。


【実行委員会あいさつ】
○井伊直弼と開国150年祭実行委員会会長 北村昌造さん
 今から150年前の1858年7月29日、アメリカ合衆国側のタウンゼント・ハリス駐日総領事と日本側の下田奉行井上清直ならびに海防掛目付岩瀬忠震の間で日米修好通商条約が締結されています。
 こういった事から本日の式典を船上で挙行致しました。皆様にはポーハタン号での船上の調印の思いを馳せ、調印の責任者であった直弼公を、また条約調印からの150年を振り返る機会としていただきたいと思います。
 日本の混乱を極めた幕末にあって開国へと導き、また偉大な政治家であり文化人でもあった直弼公。私たちはその遺業を継承し、それを契機としてその成果を正しく次世代へ承継する為に、直弼公が大老に就任され150年を迎えた本年6月4日から桜田門外で受難された150年となる2010年3月までを期間とし『井伊直弼と開国150年祭』を開催致しております。
 開国150年祭を直弼公の国造りへの想いを引き継ぎ、彦根市が一掃活力溢れる町へと飛躍する事に繋がるものと確信しております。皆様におかれましてはどうか150年祭の成功に向けご支援・ご協力を賜りますように重ねてお礼申し上げます。
 日米両国の更なる友好関係の発展に努めることを誓い開会の挨拶と致します。

【井伊家あいさつ】
○井伊家第18代当主 井伊 直岳さん
 本日はまさに日米修好通商条約締結より150年目にあたる訳ですが、日米修好通商条約14ヶ条が調印されたのは午後3時の事とみられています。幕府全権である井上清直と岩瀬忠震の両名は前日の夜にもハリスと対談をしておりました、そして当日の午前中にはハリスとの対談を踏まえて、生みの苦しみと申しますか・・・大老井伊直弼を始めとする幕府首脳がギリギリの判断を迫られていました。そして方針が決められ幕府全権の両名(井上・岩瀬)は午後に再びハリスの許へ行き、ついにポーハタン号の船上で調印する事になったのです。
 しかし「7月29日の午後3時に調印を致しましょう」という段取りがあったわけではなく、ギリギリまで対策を練り、相手と交渉した結果、午後3時という時間になったのでしょう。
 この条約の調印は日本が開国へと大きな梶を切る歴史の分岐点へとなる大きな出来事です。未来の私たちから見れば「画期的な」あるいは「そうすべきであった」という評価もできる訳ですが、同時代を生きる人々にとっては先の見えない航海に向かうようなものであったと思います。それに対して必死になって最善策を皆が考えた。そんな時代だったのだと思います。
 無事条約が調印された時、ポーハタン号の船上では日米両国の国旗が掲げられ21発の祝砲が鳴り響いたという事です。なお『日米修好通商条約』の原本は歴史の証人として今なお外務省の外交資料館に保管され平成9年6月に国の重要文化財に指定されています。
 本日このような式典を挙行する事ができ、日本とアメリカ合衆国が今後益々友好関係を発展させ日米両国の枠だけではなく地球規模の貢献ができる事を願うばかりであります。

【高円宮妃殿下 おことば】
○高円宮久子妃殿下
 本日ここに日米修好通商条約締結150年の記念式典が挙行され、駐日アメリカ合衆国大使館公使をはじめ多数の関係の出席を得て開催され、私どもも出席できます事を大変嬉しく思います。
 今から150年前のこの日にポーハタン号船上で彦根藩の藩主であり徳川幕府の大老であった井伊直弼の責任の下、我が国が諸外国との交易・交流の門戸を開く契機となった日米修好通商条約が調印されました。郷土の生んだ先人を偲びながらその業績を検証し、併せてこれを縁として次代への飛躍を試みる事は地域の発展を図る上で意義深い事と存します。
 日本とアメリカ合衆国との関係は、近年ますます緊密になって参りました。ここ彦根にミシガン州立大学連合の日本センターが設けられているように、両国国民の交流が地方自治体段階でも活発になってきています。本日の式典をはじめ『井伊直弼と開国150年祭』が彦根市そして地域の発展に繋がる事を心より期待しております。
 日米修好通商条約締結150年となる本年、彦根市において行われている様々な行事が両国国民の相互理解と友好関係の増進に資するものとなる事を心より願って式典に寄せる私の言葉と致します。

【来賓あいさつ】
○駐日米国大使館公使 ロナルド・J・ポストさん
 まず日本人とアメリカ人が最初に出会った事を想像して下さい。日本人はアメリカの艦隊の偉大さにうたれました。そしてまた西洋諸国が中国に侵入している事も知っておりました。アメリカ人は逆に、日本人がどういう人たちなのかを知りません。
 身体的な違いもありました服装も違いました。また振舞いや言葉も違ったわけです。
 しかしながら両者の関係は続きました。タウンゼント・ハリスそして井伊直弼が修好通商条約に署名を到るまでになったのです。それが今日より150年前のことでした。
 日本人がアメリカの艦隊を見た時、それを恐れた事は間違いないと思います。そしてまた日本人は「アメリカ人が野蛮で非文明的だ」と感じたに違いありません。また逆にアメリカ人は「自分たちの方が技術もあるし、そして様々な国での経験もあるので日本人より優れている」と感じたに違いありません。しかしながら日本における未知の物はアメリカ人にとっては恐ろしい物であったと思います。
 今日我々は違う人に会った時にどういう風に思うでしょうか? 自分たちの定義や基準に合わない人たち、あるいは自分たちの言語を話さない人に会ったら、どういう反応をするでしょうか?
 用心深くなると思いますし、疑いを持って見る事もあると思います。そこでこの2つの国民が最初に遭遇した所を想像していただきたいと思います。
 それにも関わらず1860年代までにタウンゼント・ハリスは日本の相手を「友人」と呼んでいました。最初に出会ってから僅か数年後の事です。
 ハリスと井伊直弼が達成した事は、今の我々にとっても大きな意味のある事です。日米修好通商条約の署名により我々2国の将来の道が定められたと言っても良いと思います。
 その条約を「不平等条約だ」と言う人も居るかもしれません。しかしこれは現実に沿った条約であったと思います。今でも我々は違った国民ですが我々は「友人」で同盟関係は強みです。そしてお互いが貢献しています。
 アメリカと日本は民主主義大国であり2大経済大国であります。双方が協力し合ってグローバルに民主主義、そして世界の繁栄を推し進めています。両国はお互いに学び合い、お互いの文化を吸収しあっています。関係は強く深いものがあります。
 そして我々は次の世代の人々に対し(井伊直弼とタウンゼント・ハリスが行ったような)同じ様な努力をしていただきたいと思っています。それは“両国の関係の歴史を学びお互いの歴史を学習する事である”と思います。
 そのようにする事によって「色々な困難があったけれどもお互いの利益、双方の関心事項を追求し、自分たち自身の利害と一致させてきた歴史」を理解できると思います。協力する事によってたくさんの事が達成できると思います。
 21世紀には多くの課題があります、気候変動・環境劣化・不平等・疾病の蔓延・資源の枯渇といった問題が山積しています。この問題は1国で解決できるものではなくお互いに協力する必要があります。
 日本とアメリカは協力して世界に「両国が協力すればこうした問題が解決できるのだ」との見本を見せるべきです。150年前に井伊直弼とタウンゼント・ハリスが築いた関係をさらに進展させていきたいと思います。
 我々は両国の利害だけではなくて人類全体の共通の利益を追求していく事ができると思います。私は自信を持ってそれができると思っています。
 私の書いたノートには無かったのですが、琵琶湖を見ますと私の故郷(ミシガン州)を思い出します。そしてこの地域が私のミシガン州と良い関係を持っている事を誇りに思います。
 琵琶湖は世界でも偉大な湖の一つです。ミシガンもやはり五大湖の地域であります。今回私をお招きいただきありがとうございました。

○外務大臣政務官 宇野 治さん
 私は滋賀県選出の国会議員としてまた外務大臣政務官としてこの場でご挨拶ができて嬉しく思っています。
 本日は高村正彦外務大臣から預りましたメッセージを代読いたします。
「今からちょうど150年前の今日、日米修好通商条約が調印されました。これにより両国の外交・通商関係が正式に樹立され、日米関係の歴史の幕が切って落とされたわけであります。
 彦根藩主でありました江戸幕府の大老井伊直弼の多大な尽力により成し遂げられました日米修好通商条約締結は、日本が鎖国体制に終止符を打ち、世界に外交デビューしたという点で外交上重要な出来事の一つであったと言えます。
 その後、様々な分野での交流を基礎として発展してきた日米関係は現在我が国にとって最も重要な関係であります。両国の良好な関係は人と人との繋がりの上に成り立っております。
 条約の成果を検証し、井伊直弼の生涯とその功績を称える事を目的とした今回の式典は日米両国が150年かけてどの様にして交流を深めてきたかを振り返り今後の日米間の交流を考える上でよい機会であると考えております」

○滋賀県副知事 田口 宇一郎さん
 嘉田由紀子滋賀県知事から預りましたメッセージを代読させていただきます。
「1853年のペリー提督の来航は、日本の歴史上“黒船来航”としてよく知られ、また日本の開国への大きな契機となった事は申し上げるまでもありません。
 翌年横浜で日米和親条約が締結され、さらに1858年、今から150年前の本日7月29日に日米修好通商条約が締結され、5つの港の開港と通商について調印がなされました。
 時の大老は第13代藩主井伊直弼でありました。井伊大老の当時の心中に思いを巡らせますとき、時代は幕末の激動期にあり日本の将来を憂い当時欧米諸国との外交に心を砕いたご苦労は並大抵のものではなかったであろうと推察せずにはおられません。これが桜田門外の変という悲劇に繋がりましたが、ここから日本は近代国家への道を歩み続ける事になりました。
 本日ここに開国に関わりのある日米関係者の方々が一堂に会され、これまでの150年を振り返り日米の交易・交流が開始されることとなった歴史的出発点とその後の足取りを確かめあうことは世界が地球規模の環境問題・食糧問題など共通の課題を前に、各々利害を超えて協力していかなければならない時代にあって、大変有意義なものと考えます。
 滋賀県といたしましても今年はミシガン州と姉妹友好提携をして40年という記念すべき年であり、さらにミシガン州立連合日本センターが設立されて20年という年でもあります。
ミシガンセンターの方々もこの事業に参画され一緒に活動していただいている事を、大変嬉しく思っております。このような地元の皆様とミシガンセンターとの連携した取り組みは貴重なネットワークであり今後とも一層の発展を期待しております」

○ペリー提督の遠戚 ドナルド・E・ソフ・ディヴェイニーさん
 本日は私にとりましてこの上なく光栄な一日です。
 井伊直弼大老についてのお話ですが、私は昨日18代当主の井伊直岳様にお会いさせていただきました。彦根に来訪させていただき実は直弼様もそこにいらした訳です。
 昨日の嵐を覚えていらっしゃいますでしょうか? 嵐の風と共に直弼大老の魂が私の所に立ち戻って来られました。
 大津駅からのこと。そこには座っている小さな男の子が居て、その子はすぐに立ち上がりご老人に席を譲った姿を目にしたのです。私はまた深い感銘を覚えました。私はその男の子の頭を撫でました、そして「君こそここへお座り」と言いました。
 するとその男の子に「いえ、いいです。どうぞお座りください」と英語で言われてしまいました。なんとこの可愛い日本の男の子は英語を私にしゃべってくれてしかも私に席を譲ってくれたのです。
 そこで「何才ですか?」と尋ねると「13才です」との答えが返ってきました。「どこに住んでいるのですか?」と尋ねると「長浜です」と。そこで「どこへ行ってきたのですか?」と尋ねると「大阪へ行ってきました、サマースクールからの帰りです」との会話もできました。私は感動を受けました。
 彦根に到着しました。私は荷物を持っていました。
 私は高齢ですので重い荷物を引きずっていますと、その男の子が手伝ってエレベーターまで運んでくれました。私を迎えてくれた方にその男の子を紹介しようと思った途端にもう消えていました。本当はもっと褒めてあげたかったのに、黙って去って行ったのです。
 これは“一期一会”を信仰なさった井伊直弼公のスピリットそのものであります。
 “一期一会”とは人として何を行動すべきか? それは昨日の男の子がしてくれました。それはなぜか? 井伊直弼公が嵐と共にその空間にいらして下さったからです。
 私はロードアイランドから参りました。そしてもう一度井伊家に敬意を表したいと思います。
 ロードアイランド、これはミシガン州と同じ様に美しい州であります。そちらで私が育ちました。50州あるアメリカの中で最も小さな州です。ペリー提督もロードアイランドで産まれていらっしゃいます。
 ペリー提督は私の曽祖父の従兄弟です、曽祖父は植民地時代にロードアイランドの総督でした。ですから私の家系を辿りますと、アメリカ独立戦争前まで遡る事ができます。
 日本に黒船が来航してから現在まで交流があります、しかし井伊直弼公の事を今の海軍の人たちでは知らない人が居ります。ですから私はロードアイランドで「ペリー提督が貢献したように、井伊直弼がいかに貢献したか」を啓蒙活動しています。
 アメリカはこの時期、奴隷制度に終止符を打つべく南北戦争へと進む混乱の時期でありました。当時の大統領がエイブラハム・リンカーンであり多くの人がリンカーンを憎んでいました。現代ではリンカーンというのは最も愛されている大統領ですので、これは我々の驚きでした。
 しかし、南北戦争という内戦に入り結果としてリンカーン大統領は憎しみのあまり暗殺されてしまうのです、井伊直弼もそうでした。リンカーンも直弼もビジョンをお持ちでした。国のことを考え、国が第一義でした。
 アメリカ合衆国は若い国で「将来にとって最も大きなチャンスを持つのは若い国である」と自負していました。フランス・イギリスなどの列強の中で新しい国が更にビジョンを進めるには大胆な決断が必要でした。井伊直弼も同じだったのです。
 軍事力のみならず通商による力、しかしここで打ち払う事にしても軍事力(国防力)が必要であるということに考察を馳せたのが井伊直弼です。ですから現在でも日本が超大国の一国となり経済大国にもなられたのは井伊直弼のビジョンがあってのことです。
 例えば、日清戦争・日露戦争でも日本が勝利を収めた背景には井伊直弼の国防力を高めたビジョンのなせる所以です。
 私は陸軍に所属していますが、その初めの地が大津です。54年前(1954)です。かなりの高齢となりましたが今でもまだ陸軍に身を置く事ができます。アメリカの一兵卒として本日は光栄の極みです。
 重要な事が起こった場合、井伊直弼は静かに座して瞑想しそして茶を点てる。盆栽の剪定にも専心する。それらの事から我々は人間の洗練の範を学ぶことができる。と伺いました。
お盆の時期が近付いて参りました。様々な先祖の霊がこの地に戻ってくるといいます。現当主の井伊直岳さまにも申し上げたのですが、2058年には200周年になります200周年にはぜひ私の魂を呼んで頂きたいと思います。

【彦根宣言署名】
 ドナルド・E・ソフ・ディヴェイニーさんと井伊直岳さんによる彦根宣言の署名が行われました。
○彦根宣言の内容
今日2008年7月29日は、日米修好通商条約の締結から150年となります
混迷を極めた幕末にあって、日本の将来を見据えて開国へと導いた井伊直弼
偉大な政治家であり、優れた文化人であった井伊直弼
直弼の国造りへの思いは、今も私たちの心の中に引き継がれています
私たちは本日の式典の出席者を代表し、直弼が求め続けた一期一会の心を大切にしながら、新たな視点で直弼像をこの彦根から発信する事
そして直弼の遺業を時代に語り継ぐ事
更に日米両国の友好関係の発展に努めていく事を誓い
本日この場の宣言と致します


(その2へ続く)
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