7月26日~9月1日まで彦根城博物館では【テーマ展 シリーズ「直弼発見!」 巻の2『開国の時代と彦根藩』】の展示が行われています。
これに際して、博物館学芸員さんによるギャラリートークが行われましたので、その内容の一部をご紹介します。
7月29日には「井伊直弼と開国150年祭」のイベントとして日米修好通商条約締結150年記念式典が行われますが博物館でも『日米修好通商条約』に関係するものを展示しています。
しかしこの調印の時の大老はもちろん井伊直弼ですが、それ以外に彦根が深く関わる事は殆どありませんので、それ以外に彦根藩が開国に大きく関わった点がありそちらをメインに展示される事となりました。
今回の展示をはじめ彦根藩の黒船関連の資料でよく目にする物が『ペリー浦賀来航図』です。ここには彦根藩の侍が描かれていて、それも1人や2人ではありません。
ペリー来航時には彦根藩士は軍勢として約2000人(2168人とも・・・)が現地で警備をして居て、その様子が描かれているのです。
ではなぜ浦賀に彦根藩士が居たのか?という事ですが・・・
彦根藩は譜代の筆頭といわれますが、徳川家の中でも赤備えで言われる勇猛な軍勢を控えておいて、徳川の軍事を守る家だったからです。
例えば、京都に西国にと軍勢を派遣できるようになっていました。
幕末にはペリー来航前に既に何度も外国船が来航していて、ペリーがやって来る事も幕府は事前に知っていました。ですので幕府としては将軍に居る江戸を守る為に江戸湾の入り口となる三浦半島や房総半島に“軍事を守る家”である彦根藩に警備を命じたのでした。これは弘化4年(1847)の事でした。
時の彦根藩主は12代の井伊直亮。
この地域は相模国でこれを相州というので、この警備の事を“相州警備(相州警衛)”との言い方をしています。
彦根藩は人数的にも費用的に長期間の警備で様々な苦労をしたといえるのです。
特に現地で何をするかといえば・・・
異国船は大きな大砲を積んでやってきますので、日本としても大砲を準備して沿岸部の岬ごとに砲台を築きました。大砲はここに設置します。
東京に「お台場」が地名として残っていますが、これは元々「大砲を設置する場所」という意味で、お台場と呼ばれる物は神奈川県から千葉県の岬ごとにと言っていいほどあったのです。
当時、この警備を任された藩が彦根藩を含めて4藩が担当しました。彦根以外では会津藩・川越藩・忍藩、いずれも徳川の軍事を守る家としてこの地域の警備に就いたのです。
『ペリー浦賀来航図』は2方向から描かれた2枚の絵が存在しますが、いずれも井伊家の赤備えが細かく描かれています。赤備えといえば甲冑が有名ですがペリー来航の時に彦根藩士たちは甲冑は着ていませんでしたが陣羽織を着用していて、その陣羽織が茜色だったのです。またこの時の彦根藩の警備には2部隊が居て、この絵にも前列と後列の2部隊の存在が確認できます。
展示室の後半の展示では、大砲の技術を基に西洋流の大砲を作るために、西洋の学問や技術を江戸中期から徐々に学び始めていて、その関係の辞書は翻訳書、あるいは大砲を作る時の型紙なども見る事ができます。
こういった外国の学問をドンドン学ぶ事は、皮肉ですが日本の国の中として鎖国している状態では無くなります。そうした時に世の中としては開国の方向に向かっていく・・・
もちろんペリーが来航してかなり強引に開国を迫りましたが、時代の流れとして日本の国としては鎖国から開国に動いていたのではないか?と展示物から読み取る事ができると思います。
《展示物(全21点)の一部》
『江戸幕府老中奉書』
井伊直亮が老中より相模警備を命じられた書状
『三崎陣屋絵図』
現地で藩士が駐屯した拠点の図面。陣屋は“三崎”ともう一つ“上宮田”があり、それぞれ藩士数十人、足軽まで含むと2、300人近い人数が駐屯していました。
『千駄崎岬御台場図』『安房崎御台場図』
彦根藩だけで江戸湾に7ヶ所近い砲台場を築いていて、そんな砲台場の絵図
『風聞書写』
嘉永元年(1848)の彦根藩の警備の実態を紹介した資料
彦根藩は海が無く沿岸警備には慣れていないなどの警備での芳しくない様子の分析が書かれているが、幕府の大砲担当役人から技術を学ぶなどの努力を行う意欲も書かれている。
『直弼公相州御備場巡見私記』
今回は直弼関係の展示が少ないのですが、そんな数少ない直弼が関わる資料。
直弼が藩主になった翌年である嘉永4年3月に現地を巡見した記録。
『ペリー浦賀来航図』
彦根での黒船関係の資料ではよく目にするので大きな物だと思われがちですが、実は小さい絵です。別の方向から描かれた2枚の絵に彦根藩士が描かれています。
この時の現地での交渉役は宇津木六之丞で、宇津木は部隊の先頭に描かれ交渉役の仕事をしていた事実が確認できます。
ペリーの記録を紐解くと軍艦から望遠鏡で海岸を見ると、赤い服を着て警備をしていた部隊の事が記されているので、ペリーが彦根藩士を見ていた事がわかります。
『異船渡来につき明細書』
宇津木が記した記録で、ペリー来航や久里浜上陸の様子が書かれていて。展示ではこの久里浜上陸があった6月9日の記述が見れます。
同じページの後ろの方に、ペリーが上陸した時に引き連れた楽奏隊の音を聴き「はなはだ卑しい」と記されている事が面白いです。
『安政の5か国条約写』
アメリカが有名ですが、同時期にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約が締結されていてイギリス以外の4冊の調印した物の写しが展示されています。
『ハルマ和解』
蘭日辞典。オランダ語を日本語に翻訳する辞典。
『海上砲術全書』
オランダから日本に伝わった書籍を幕府が日本語に訳したもので、海の上での大砲を使うための本。
こういう砲術の本を学んだ上で警備の任に当ったのかもしれません。
『反射望遠鏡』
西洋の技術を学んだ上でとの意味で展示されています。
長浜の国友村で鉄砲が作られていて、そこから技術を発展させ国友藤兵衛が作った物。
『西洋大砲器械図』
砲台を作るのに参考にしたと思われる資料で全8巻
西洋の書物を見て写してあるが、中には「何かよくわからないけど描いてあるので取り合えず写す」と意味もわからず写してある物もあります。
『スループ形帆船図』
幕末に外国の技術を学んで幕府が作ろうとした船の見取り図。横からと上からの2種類があります。
大きさは長さ55尺(約16.7m)幅13尺(約4m)
帆が3本あると外国船に見えるからダメとの指摘もあったために1本マストになっています。この船はおそらく幕府によって作られて浦賀で活躍したと思われます。
これに際して、博物館学芸員さんによるギャラリートークが行われましたので、その内容の一部をご紹介します。
7月29日には「井伊直弼と開国150年祭」のイベントとして日米修好通商条約締結150年記念式典が行われますが博物館でも『日米修好通商条約』に関係するものを展示しています。
しかしこの調印の時の大老はもちろん井伊直弼ですが、それ以外に彦根が深く関わる事は殆どありませんので、それ以外に彦根藩が開国に大きく関わった点がありそちらをメインに展示される事となりました。
今回の展示をはじめ彦根藩の黒船関連の資料でよく目にする物が『ペリー浦賀来航図』です。ここには彦根藩の侍が描かれていて、それも1人や2人ではありません。
ペリー来航時には彦根藩士は軍勢として約2000人(2168人とも・・・)が現地で警備をして居て、その様子が描かれているのです。
ではなぜ浦賀に彦根藩士が居たのか?という事ですが・・・
彦根藩は譜代の筆頭といわれますが、徳川家の中でも赤備えで言われる勇猛な軍勢を控えておいて、徳川の軍事を守る家だったからです。
例えば、京都に西国にと軍勢を派遣できるようになっていました。
幕末にはペリー来航前に既に何度も外国船が来航していて、ペリーがやって来る事も幕府は事前に知っていました。ですので幕府としては将軍に居る江戸を守る為に江戸湾の入り口となる三浦半島や房総半島に“軍事を守る家”である彦根藩に警備を命じたのでした。これは弘化4年(1847)の事でした。
時の彦根藩主は12代の井伊直亮。
この地域は相模国でこれを相州というので、この警備の事を“相州警備(相州警衛)”との言い方をしています。
彦根藩は人数的にも費用的に長期間の警備で様々な苦労をしたといえるのです。
特に現地で何をするかといえば・・・
異国船は大きな大砲を積んでやってきますので、日本としても大砲を準備して沿岸部の岬ごとに砲台を築きました。大砲はここに設置します。
東京に「お台場」が地名として残っていますが、これは元々「大砲を設置する場所」という意味で、お台場と呼ばれる物は神奈川県から千葉県の岬ごとにと言っていいほどあったのです。
当時、この警備を任された藩が彦根藩を含めて4藩が担当しました。彦根以外では会津藩・川越藩・忍藩、いずれも徳川の軍事を守る家としてこの地域の警備に就いたのです。
『ペリー浦賀来航図』は2方向から描かれた2枚の絵が存在しますが、いずれも井伊家の赤備えが細かく描かれています。赤備えといえば甲冑が有名ですがペリー来航の時に彦根藩士たちは甲冑は着ていませんでしたが陣羽織を着用していて、その陣羽織が茜色だったのです。またこの時の彦根藩の警備には2部隊が居て、この絵にも前列と後列の2部隊の存在が確認できます。
展示室の後半の展示では、大砲の技術を基に西洋流の大砲を作るために、西洋の学問や技術を江戸中期から徐々に学び始めていて、その関係の辞書は翻訳書、あるいは大砲を作る時の型紙なども見る事ができます。
こういった外国の学問をドンドン学ぶ事は、皮肉ですが日本の国の中として鎖国している状態では無くなります。そうした時に世の中としては開国の方向に向かっていく・・・
もちろんペリーが来航してかなり強引に開国を迫りましたが、時代の流れとして日本の国としては鎖国から開国に動いていたのではないか?と展示物から読み取る事ができると思います。
《展示物(全21点)の一部》
『江戸幕府老中奉書』
井伊直亮が老中より相模警備を命じられた書状
『三崎陣屋絵図』
現地で藩士が駐屯した拠点の図面。陣屋は“三崎”ともう一つ“上宮田”があり、それぞれ藩士数十人、足軽まで含むと2、300人近い人数が駐屯していました。
『千駄崎岬御台場図』『安房崎御台場図』
彦根藩だけで江戸湾に7ヶ所近い砲台場を築いていて、そんな砲台場の絵図
『風聞書写』
嘉永元年(1848)の彦根藩の警備の実態を紹介した資料
彦根藩は海が無く沿岸警備には慣れていないなどの警備での芳しくない様子の分析が書かれているが、幕府の大砲担当役人から技術を学ぶなどの努力を行う意欲も書かれている。
『直弼公相州御備場巡見私記』
今回は直弼関係の展示が少ないのですが、そんな数少ない直弼が関わる資料。
直弼が藩主になった翌年である嘉永4年3月に現地を巡見した記録。
『ペリー浦賀来航図』
彦根での黒船関係の資料ではよく目にするので大きな物だと思われがちですが、実は小さい絵です。別の方向から描かれた2枚の絵に彦根藩士が描かれています。
この時の現地での交渉役は宇津木六之丞で、宇津木は部隊の先頭に描かれ交渉役の仕事をしていた事実が確認できます。
ペリーの記録を紐解くと軍艦から望遠鏡で海岸を見ると、赤い服を着て警備をしていた部隊の事が記されているので、ペリーが彦根藩士を見ていた事がわかります。
『異船渡来につき明細書』
宇津木が記した記録で、ペリー来航や久里浜上陸の様子が書かれていて。展示ではこの久里浜上陸があった6月9日の記述が見れます。
同じページの後ろの方に、ペリーが上陸した時に引き連れた楽奏隊の音を聴き「はなはだ卑しい」と記されている事が面白いです。
『安政の5か国条約写』
アメリカが有名ですが、同時期にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約が締結されていてイギリス以外の4冊の調印した物の写しが展示されています。
『ハルマ和解』
蘭日辞典。オランダ語を日本語に翻訳する辞典。
『海上砲術全書』
オランダから日本に伝わった書籍を幕府が日本語に訳したもので、海の上での大砲を使うための本。
こういう砲術の本を学んだ上で警備の任に当ったのかもしれません。
『反射望遠鏡』
西洋の技術を学んだ上でとの意味で展示されています。
長浜の国友村で鉄砲が作られていて、そこから技術を発展させ国友藤兵衛が作った物。
『西洋大砲器械図』
砲台を作るのに参考にしたと思われる資料で全8巻
西洋の書物を見て写してあるが、中には「何かよくわからないけど描いてあるので取り合えず写す」と意味もわからず写してある物もあります。
『スループ形帆船図』
幕末に外国の技術を学んで幕府が作ろうとした船の見取り図。横からと上からの2種類があります。
大きさは長さ55尺(約16.7m)幅13尺(約4m)
帆が3本あると外国船に見えるからダメとの指摘もあったために1本マストになっています。この船はおそらく幕府によって作られて浦賀で活躍したと思われます。