先月、最後の遣隋使の話を書きましたので、今日は勢いに乗って一番有名な遣隋使の話を書いて太古の彦根人である犬上御田鍬の遺業を改めて偲びたいと思います。
607年7月3日、小野妹子らが隋に向けて出発します。
この時、小野妹子は聖徳太子から隋の煬帝(写真)に宛てての国書を託されていました。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々」という有名な一文が残っています。
これは、当時の世界の先進国であった隋に対し、発展途上国の日本が対等の立場をほのめかした文章でもあり、「日本はこれから日が昇るように発展しますが、あなたの国はこれから日が沈むように衰えていくでしょう」という挑戦状だったとも伝えられています。
どんな意味があるにしても、隋側から見るならば、無礼な話なんです。
怒った煬帝は小野妹子を捕えて処刑しようとしますが、その寸前に思いとどまって、返書と家臣を預けて妹子の帰国を許可します。
ところがこの返書を妹子が百済で盗まれたと言って無くしてしまったために、現代にいたるまでどのような内容であったかは正確に伝わっていません。
こんな失態を犯した妹子ですが、帰国後に罰せられた形跡もなく、逆に聖徳太子に信頼されて翌年に派遣された遣隋使にも加わっています。
さて、遣隋使は5回派遣さた事になっているのですが、その記録を見ていくととても興味深い記事を発見する事があります。
まずは、聖徳太子が皇位についた可能性がある事。遣隋使の時、日本の天皇は女帝・推古天皇でしたが、派遣された日本側の使者が隋の質問に答える場面で大王が男性である事を話しています。
また、現在では唯一、名字を持たない家が皇室なのですが、この時の受け答えでは大王の姓を「阿毎(アメ)」と答えているのです。
この「阿毎」は「天(アマ)」ではないだろうかと言う考え方が一般的になっていて、神話に登場する神様に天という字で始まるのが多いのもそのためではないかと考えられているんですよ。
・・・という事は、彦根の名前の由来でもある天津日子根命もここに含まれるのでしょうかね?
さて、小野妹子が派遣されたこの遣隋使は、迎えた側である隋の記録では二回目となっているのですが、送った側である日本の記録『日本書紀』では最初に登場する遣隋使となって居ます。
大国である隋に使者を送るのですから、大層なイベントだった筈なのに日本側に1回目の記録が残っていない事に大きな謎を感じませんか?
607年7月3日、小野妹子らが隋に向けて出発します。
この時、小野妹子は聖徳太子から隋の煬帝(写真)に宛てての国書を託されていました。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや云々」という有名な一文が残っています。
これは、当時の世界の先進国であった隋に対し、発展途上国の日本が対等の立場をほのめかした文章でもあり、「日本はこれから日が昇るように発展しますが、あなたの国はこれから日が沈むように衰えていくでしょう」という挑戦状だったとも伝えられています。
どんな意味があるにしても、隋側から見るならば、無礼な話なんです。
怒った煬帝は小野妹子を捕えて処刑しようとしますが、その寸前に思いとどまって、返書と家臣を預けて妹子の帰国を許可します。
ところがこの返書を妹子が百済で盗まれたと言って無くしてしまったために、現代にいたるまでどのような内容であったかは正確に伝わっていません。
こんな失態を犯した妹子ですが、帰国後に罰せられた形跡もなく、逆に聖徳太子に信頼されて翌年に派遣された遣隋使にも加わっています。
さて、遣隋使は5回派遣さた事になっているのですが、その記録を見ていくととても興味深い記事を発見する事があります。
まずは、聖徳太子が皇位についた可能性がある事。遣隋使の時、日本の天皇は女帝・推古天皇でしたが、派遣された日本側の使者が隋の質問に答える場面で大王が男性である事を話しています。
また、現在では唯一、名字を持たない家が皇室なのですが、この時の受け答えでは大王の姓を「阿毎(アメ)」と答えているのです。
この「阿毎」は「天(アマ)」ではないだろうかと言う考え方が一般的になっていて、神話に登場する神様に天という字で始まるのが多いのもそのためではないかと考えられているんですよ。
・・・という事は、彦根の名前の由来でもある天津日子根命もここに含まれるのでしょうかね?
さて、小野妹子が派遣されたこの遣隋使は、迎えた側である隋の記録では二回目となっているのですが、送った側である日本の記録『日本書紀』では最初に登場する遣隋使となって居ます。
大国である隋に使者を送るのですから、大層なイベントだった筈なのに日本側に1回目の記録が残っていない事に大きな謎を感じませんか?