2008年7月19日、『直弼考 リレー講座』第二回講演としてNPO法人日本政策フロンティア理事長で彦根出身の小田全宏先生の講演が行われました。
小田先生は松下塾の出身でもあられ、『陽転思考』などの脳のイメージにもお詳しい先生です。文章では書き表せないような表現も多くありました。機会があれば、生の話を聞きに行って下さい。
あれ?聞いていた時とイメージが違うなぁ、結構笑った講演だったのに・・・と思われる方も多いと思いますが、管理人の腕ではこの文章が限界ですお許しください。
・・・ではここより本文です。
グレート直弼『井伊直弼のリーダーシップ』
彦根は郷里ですので、郷里の英雄である井伊直弼公のお話をさせて頂くのは喜びでもあり緊張感や責任を感じます。
直弼は日本の国にとっては最大の恩人の筈なのですが世間では様々な評価がなされています。
私は郷里の英雄である直弼の事を次の世代に伝える責務があると思っています。歴史の人物の足跡を訪ねて様々な地域を巡るといろんな意味での歴史観が見えてきます。中には残念ながら「井伊直弼が安政の大獄をした」という言い方がされていたり「勅許を待たずに開国をした」などの直弼に対する独裁者のような表現を使っている事も少なくありません。
吉田松陰の松下村塾には何度も足を運んで講演もしています、松陰は歴史上は「安政の大獄で井伊直弼に殺された」とされています。しかし松陰が“正義”で松陰を殺した直弼を“悪”と見立てるのは大いなる間違いであると思っていて、私は松陰と直弼の間に大きな架け橋が架けられないものか?と思っておりました。今回のこのお話を頂いた時に非常に責任感を感じつつも「我が意を得たり」との思いで参りました。
私は高校まで彦根で学びました。小学校の道徳の時間には校長先生が井伊直弼の話をされたのです、その時は「井伊直弼公は文武両道に秀でそして日本を開国に導いた大変な偉人である」という一点を学びました。その時は埋木舎での15年間の長い下積み時代もあまり分らない状態で「井伊直弼を中心とした彦根城と彦根市はとっても素晴らしい町なのだ」というだけでした。しかし長じて歴史を知ると「全国的に直弼がきちっとした形で認識されていない」という事実がありました。
これを「しょうがない」という言い方も出来ると思います。でもそうではなく今生きている私たちが、直弼公の遺徳をちゃんとした形で、自分たちの住んでいる地域やあるいは子どもや孫に対しては伝えていく責任があると思います。
井伊直弼は日本にとっては偉人だったのですが、幾つかの点で問題がありました。
・違勅。勅許を待たずしての条約調印。
・安政の大獄で吉田松陰や橋本左内を含め何人かの志士を斬った。
・条約が不平等な条約だった。
・将軍継嗣問題。
将軍のお世継ぎ問題と開国は全く別の話なのですがこの2つが合体をして非常にややこしくなったのです。
ここで歴史のおさらいをします。
井伊家は、江戸幕府が開かれた時に徳川家康に対する4大功臣の一人である井伊直政からずっと続く由緒正しい家柄でした。江戸の300年の天下泰平の歴史が蒸気船によって破られました。しかしペリーの前にはビドルが来ていますしその前にも民間では結構来ていたようです。(アメリカは)初めから喧嘩腰に来たのではなく、太平洋から来た時に蒸気船に積む燃料の補給基地として平和的に交渉に来ている訳です。その時に幕府は「まぁいいか」との態度だったのです。
これは今でもそうですが、「まぁいいか」「まぁなんとかなるのちがうか」など適当にやっている訳です。今と昔を一緒にする訳にはいきませんが似た様な問題が起こっています。
日本は常に様子を見ます。常に常に様子を見ます。様子を見ると言うのはある種いい時もありますが物事をややこしくする最大の原因でもあるのです。
ビドルが来た時には、日本は「どうしようか?」とやっている、その内に「何だ日本は!」という事でペリーが来る時にはキツくなったのです。そして「どうしよう」と大騒ぎになりました。
その時に怒ったのが「そんなの関係ない打ち払ってしまえ」との“攘夷派”と、「もう鎖国はしていられない、だから開国しよう」との“開国派”なのです。この中で全体の流れは“攘夷派”でした。
それはなぜかと言えば、日本は(オランダとの付き合いがあるので自覚がなかったかも知れませんが)鎖国をして泰平に生活していたからです。泰平でゆるゆる暮らしているのに「国を開けろ!」と来たので、「何だ、お前らが勝手に来たのにそんなの許せるか!」というのが“攘夷”でした。
それに対して“開国”を唱えその最後の決断を下したのが井伊直弼です。不平等条約などの意味では非常に問題もあったのでしょう。けれども、当時の日本の国力や軍事力から見れば、ここで決断を下さなければアヘン戦争でイギリスやフランスに敗北した清国と同じになってしまうのです。
ここでややこしいのは“攘夷”“開国”だけではなく、政治の大政問題も含んでいたのです。これは「政治の権力の中枢を天皇に戻すべきだ」という考えです。
実際に天皇が政治の中枢を握ったのは大化の改新や後醍醐天皇の時に少しあったくらいで、昔から日本では天皇制とは別に権力構造を作っていたのです。権威(天皇)と権力(政治を動かす組織)を分けて別に作るのが日本の流れでした。ですから天皇が実際に政治をするのは珍しく明治天皇の時に久しぶりにそれが実現するのです。
日本の権力を天皇に戻す。という考え方は大きく2つに分類されました。
一つは“幕府を倒せ(倒幕)”、もう一つは“天皇と幕府をくっ付けろ(公武合体)”の2つです。井伊直弼はどの立場に立っているのか?と言えば、“攘夷”“開国”では“開国”で天皇に対しては“公武合体”なのです。ですから直弼が進めた和宮と徳川家茂との結婚は、幕府と朝廷をくっ付けようとした考えでした。
違勅というと直弼が天皇を無視したように聞こえますが、これが多きな間違いなのです。直弼は国学・茶道・禅・居合道を極めるといった大変な文人であり武人でした。長野義言(主膳)はたんに直弼の師だっただけではなく孝明天皇に対しても国学を教えていたのです。
ある時(嘉永7年4月6日)、京都で火事が起こって(京都大火・御所焼け)大切な書物が全部焼けてしまった時に義言は直弼の命を受けて孝明天皇に多くの書物を進呈し天皇も大変喜ばれたのです。元々直弼は朝廷に対する深い尊崇の念があり「朝廷なんて関係ない」などという事を口にする筈が無いのです。
しかし、直弼の兄であり前藩主でもある井伊直亮が、あまり悪く言うのも何なのですが風評が良くない所があったらしく、井伊家の本来の職務である京都守護(朝廷を守る、警護ではない)の家格よりは落ちる相州警護の任を(どうやら)風評が悪い罰として命じられました。
その様なあまり願わしくない仕事だったのですが、この事によって彦根藩は海外の情勢を深く知ったのです。世界の情勢や文明の進みを知っていた直弼は「彼らが来た時に反対するのは大変な事態を生む、戦ったら日本は火の海になる」と思うのですが、ペリー来航時に水戸藩主の徳川斉昭は「開国はならん!」と『和すべからざる十箇条』を出したのです。水戸藩と彦根藩は因縁深い訳です。斉昭と直弼は最大の政敵になったのは間違いありません。もしこの時に斉昭が居なかったら全然変わっていたと思います。
この時の将軍である家定(13代)はあまり有能では無かった、その家定の継嗣として紀州慶福(後の徳川家茂)を直弼が推したのです。ところが最後の将軍である徳川慶喜は斉昭の子どもなのです、そうするともうお解かりのように斉昭が慶喜に対し「井伊の野郎は、俺が外国を打ち払えと言っても開国なんて馬鹿なことを言っとる、しかも俺の息子(慶喜)はあんなに優秀なのに小さい子どもの慶福に将軍職を継がそうとするなんて、(直弼は)酷い奴だ!」と「井伊直弼許すまじ」の思いが伝わり、これが孝明天皇に対してもどんどん伝わっていったのです。
ですから直弼にすれば「日本は開国しなければいけないのだ」との思いなのにも関わらず、そこに将軍継嗣問題が入って孝明天皇にはきっちりとした形で伝わっていないのです。そして何度も勅許を得ようとしました。直弼は何とか天皇から勅許を得ようと、老中の間部詮勝を孝明天皇の許に送りなぜ開国をしなければならないのかを説く訳です。
実は直弼は開国しなければならない事は分かっているのですが、ペリー来航時に幕府や将軍・諸大名に対して一旦「祖法(鎖国)を守らねばならない」と言っているのです、「それを守る為には相手を知らなければならないので、国を開いて相手の話を聞いて、日本からも相手の国に行って軍備を整えて、強くなったらもう一度鎖国をしよう」と話しているのです(大攘夷)。考えてみれば解りますがムチャな話なのです。ですが一応直弼の賢さはいきなり「開国だ!」と言っている訳ではなく、軍備を整える為の開国を行ってからもう一度鎖国しようと言っているのです。
しかし、情報は色んなレベルで入ってきます10段階あれば「1から10まで順番に入る人」「1の次に5が入る人」あるいは「1から次が入ってこない人」など。孝明天皇の許にも色々な情報が入り間部詮勝も伝えています、そして天皇は「わかった」と言っているのです。
ところがこの時に詮勝が「大攘夷のやり方でいいですよね?」と言っているのです、すると天皇は「日本がまた強くなったら鎖国するなら良い」と返してくるのです。
詮勝が持ち帰った情報を見た直弼は考え込みました。鎖国を前提とした開国の話などアメリカには見せられません、そこで直弼は「全ての責任は私が負う」と言って条約を結んだのです。
今日、お話したいリーダーシップの資質の一つが『無私の精神』という考え方です。
これは何か?と言いますと「私心が無い」という事です。人間は自分の事は可愛い訳です「美味しい物を食べたい」「お金持ちになりたい」「いい想いをしたい」というのは人間が全て思う事です、しかし直弼は私心が無かったのです。これは明治の志士たちにも多く見られるのですが、おそらく直弼の場合は埋木舎の時代に培われたものだったと思います。
直弼は藩主の子として生まれますが15人の男の子が居る訳です、藩主になるのは1人ですからみんなどこかに何かなって大した生活はしていない訳です。慎ましい生活をするしかありませんでした。
この当時の有名な歌「世の中を よそに見つつも埋もれ木の 埋れておらむ 心なき身は」を見ると当時の直弼の心情を思う訳です。今は埋木舎を観光しこんな名前のお菓子もありますが埋もれている訳なのです。
結果として直弼は藩主となり大老となって開国をするのですがそれは偶々です。普通は世間から評価される事も無く、人の上に立って指導する訳でも無く、そのまま自分と言う存在が埋もれていって終わる訳なのです。それを直弼は運命として覚悟していたのだと思います。ですから直弼はお茶・禅・和歌・武道をやる、これは全部人間の心身の鍛練なのです。
直弼は茶人として「一期一会」という言葉を広められたと言っても過言ではありません。この言葉の本当の主意はどんなモノであるかを直弼は“獨座観念”という文章で書いています。難しい言葉ですが、どういうものかといいますと、これはお茶会の話になります。
大茶会ではなく小さな四畳半くらいの部屋でお客さんにお茶を一服と差し出した時、そんな一人のお客さんを招くのも茶会で、獨座観念はそんな茶会に対する主人の心構えを書いています。
現代風に訳して紹介しますと“主人のもてなしが終わり、お客さんを送り出す時は「はい、さよなら!」などではなく「ぜひ、また・・・」と余韻を残すようにしましょう。するとお客さんも余韻を持ち上手くいきます。そして茶室から去るお客さんを見送りますが、その時も「じゃあまたね~!」などと大きな声を出すのではなく厳かに姿を見送り、茶室に戻ったらお客さんが居られた痕跡(使用済みの茶碗など)をさっさと片付けるのではなく、一度座り徐に一人でお茶を点てて、その茶を飲みながらお客さんがいらっしゃった時の対話をしみじみと思い返す、そして片付けに入りなさい。その余韻を心の中に留めるのです。なぜならば、その時間は人生の中において後にも先にも一回しかないからです”
今日、この場は後にも先にも1回です、この講演が終わった後に私は控え室に帰ってしみじみと「今日の客は良かった」と言うかどうかは知りませんが(笑)、しみじみとお茶を頂きながら思い出す訳です。皆さんも帰ってから暫し「今日の井伊直弼はこうだったな」としみじみと味わって下さい。
・・・と、いう事なのです。
この言葉から見ると、おそらく直弼は、例えば春夏秋冬折々の季節があり桜が咲くと「また咲いてる」ではなく「あぁ今桜が咲いている」。雪が降ると「あぁ雪が降っている」。食事をすると「あぁ今このご飯が食べれる」とその一瞬をもの凄く大切にされていた筈です。
人生のその時間を1回しかない、埋木舎の中でどこにも行かない毎日変わらない一日一日の中に直弼はその一日の命の輝きを深く感じて生きておられたに違いないと思います。
今という瞬間との出会いが「一期一会」であるという事を強く思え。それがお茶をやる事の真理を自得するという境界なのだと直弼は言っているのです。
茶は武士の嗜みとして行われていた物ですが、直弼は一つの哲学にまで昇華させ「今という瞬間に自分の人生と会う、この瞬間に出会う、全ての時間を今初めて会った瞬間だと観念せよ」という事なのです。
直弼はお茶と同時に禅もやっていました。禅は達磨大師が“面壁九年”と言って壁に向かって9年座って悟を啓く事から始まります。禅の中の悟には解らない部分も有りますが「随所作主」という言葉があります。「所に随って主となれ」。
つまり人生の主人公は自分なのです、「どんな所に居ても自分が主人公として立つ」というのは禅の極意なのです。あの当時世間では「攘夷!」と叫ばれていましたが、直弼の信念は開国であり何を言われても構わないという事なのです。
もし今この場に直弼公が居られて名誉復活の活動をしているのをご覧になられたらどう感じられるか?と思った時に2つの可能性があると思います。
一つは「ありがとう」と思って居られ、もう一つは「でもね、いいんだよ」と思っておられるかもしれません。
直弼は自分の死後に悪評が付いて回る可能性がある事を知っておられた感があります。「でも、それも仕方ない」とも思っておられた節があります。“私心を無く”して“自分の立っている所に主となって立っている”そこまで自分の腹を決められるのはおそらく直弼が禅を積んでいるからでしょう、そうではない人だったら途中で「もういいや、もう知らん後は好きにして、日本はどうなっても知らんで」そして後になって「ほれ、言うた通りやろ」となったでしょう。皆さんでもあるでしょ?
でも今は開国している日本で「開国は井伊直弼のお陰だ」と言って感謝される事は殆どありません、そう言った意味で直弼は歴史の評そう的な名誉に関して非常に不足な状態であるのは間違いありませんが、これは運命です。
もしあの時に徳川斉昭が居なければ全く違っていました。斉昭が居てその息子の慶喜を将軍にするような話が無ければもっと順調だったでしょう。しかし斉昭は居たのです。
「あの時、吉田松陰を殺さなかったら・・・」先日、井沢元彦先生のお話でこの話がありました。これは一理ありますが吉田松陰も常識ではない人物ですので殺されますよ。
ペリーが来た時、松陰は「アメリカを倒す為にはアメリカを知らねばならん」と嵐の中を金子重輔と共に小船で黒船まで行って登っていったのです。そしてアメリカに連れて行って欲しいと懇願したのですが叶いませんでした。ペリーはこの様子を物陰から見ていて、後に『ペリー航海記』という著書の中で「私は、こういう若者の居る国は必ず発展するであろうと確信している」と記しているのです。そしてペリーは松陰と金子の助命を嘆願しました。
ペリーの嘆願もあり死罪を間逃れた松陰は故郷の萩に2年間投獄され、その後に約2年ほど松下村塾で教鞭を執ったのです。この時の塾生の中から高杉晋作・久坂玄瑞・山県有朋・伊藤博文などが育つのです。
そして塾生に向かって「幕府を倒せ!」「老中(間部詮勝)を斬れ!」と言うのです、あの高杉晋作にすら「お前は腰抜けだ!」とやるんです吉田松陰は・・・
「老中を斬れ!」ってそりゃ捕まりますよね・・・、そして小伝馬(牢屋敷)に送られてそこでも「私は老中を斬るんだ!」と言っている訳なんです。そりゃ殺されますね。
松陰は殺されるのが当たり前でありながらも、「至誠天を動かす(誠が通じれば天が動くのだ)」と一方では自分は死なないと思っているのです。
最後亡くなる時に『留魂録』を残します。この時30歳。ここで松陰は「自分は殺されるが泣くな。人生には春夏秋冬がある、人間から見れば蝉の命は短い、しかし天から見れば人間の命もあっという間だ。私は30歳で死ぬがこの人生の間に春夏秋冬が詰っている。私の人生が籾殻であるのか、ちゃんと詰った粟であるのか、それは分らない。同志諸君、私の意志を継いでくれるなら私はこれほど嬉しい事は無い」そして辞世の句が「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂」なのです。
もう一つ「親思う親思う心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」という自分の刑死を聞いた後に親がどう思うか?との句も残しているのです。
つまり安政の大獄を思想的な目で見ると、吉田松陰という“善人なる教育者”を“独裁者”である井伊直弼が殺したような言い方をしますが、そうではないのです。これだけの事をすれば殺すしかなかったのです。直弼は安政の大獄で人が処刑される事は必ず自分に返ってくると知っておられたのです。
水戸と彦根、徳川斉昭と井伊直弼は大変な因縁があったのです。結局、将軍継嗣問題・条約問題共に直弼が勝ち水戸の浪士たちが「井伊許すまじ」となり、安政の大獄で志士たちがドンドン殺される状況の中で水戸が立ち上がるのは歴史の必然です。
しかし、直弼は水戸浪士に殺されるのははっきり知っていました。3月3日の襲撃の報せも来ているのです。でも直弼は「私を殺そうとするのであるなら、どんなに警護を堅くしてもその意思は必ず遂げられる時には遂げられてしまうだろう」と言っているのです。その日の朝襲撃があるのを分っているのに桜田門外で斬り殺されたのです。
直弼は、自分が踏み台になって死ぬ事を良しとしたのです。明治の志士たちは先ほどの吉田松陰も含めて皆それぞれのレベルでの『無私の精神』を持っている、そして人々の為に国の為にやったのです。
直弼はその中でも特にその精神が強かったと思います。直弼は安政の大獄や勅許の話があっても藩主の時は語られません。直弼が藩主になった最初に何をやったか?と言いますと15万両を藩内みんなに配り、そして彦根藩内の人々がちゃんと生活できているかを藩主自らが9回に渡って確かめたのです。彦根藩の藩主の中にも領内を周られた人は居ましたが多くて3回くらいです。それは直弼の意識の中に「政治家というのは何であるか?」がちゃんと入っているからです。それは一言で言えば“抜苦与楽”です。
全ての政治家の目的は「人々の苦労を取り除く事、そして人生の楽しさを与える事」なのです。これが政治の役割です。ですから直弼は「本当に人々は苦しんでいないか?その苦労は取り除けるか?」と考えてそして農村に対しての信任が厚かったのです。ですから人がついて来ました。
そして井伊直弼のリーダーシップの大きなものが“決断力”です、自分でやると決めたものに対し決断する。そしてもう一つ情勢を見る力“洞察力”です。
情勢は、勝海舟が一番見えていました。
海舟は幕臣なのに、西郷隆盛が江戸に攻めてくる時に、自分の親玉の徳川慶喜を追い出すので攻め上らないでくれと懇願し、西郷も承認するのです。
その後も武士の常識なら、海舟は慶喜に生涯仕えるのが普通なのですが、海舟は慶喜の下を離れて明治新政府の高官となったのです。これを見て怒ったのは福沢諭吉でした。
諭吉は海舟の批判を書いて、海舟に「こんな物を発表するのですが」と見せに行きます。海舟はこれに対し「行蔵は我に存す。毀誉は人に存す」つまり「自分がどう思ってどう行動するかは自分にあり、人がどう思いどう評価するかは人の事」との意味。そして福沢諭吉に自由にしてくれと言ったのです。そして最後には勝海舟は慶喜の名誉を回復したのです。
そんな勝を斬りに行こうとして逆に感化されたのが坂本龍馬でした。龍馬は海舟の一番弟子となり、海舟は龍馬を使って維新を進めたのです。これらの人間模様が重なりますがその全員に共通するのが『無私の精神』です。
そしてその中でも井伊直弼公は「自分のやっている事が後で悪評となろうとも仕方ない」と思って死んだのです。これは直弼以外にはありませんでした。江戸開幕以来300年の膿を自分一人が背負って逝くという覚悟でした。
桜田門外で自分が倒れても日本という国が列強の草刈場にならなければそれでいいのだ!と直弼は思って逝かれたのではないだろうかと思います。
もしかしたら今の平成の時代に、90%が「右だ」と言っているのに実は左が正しかったと後になって評価される事があるかもしれません。今の日本は民主主義ですが、この民主主義というのはその国の精神のレベルは民衆のレベル以上には上がらないという事です。
ですから、私たちが「自分たちの国を支えているのは自分たちであるのだ」という事です。本当に歴史を変えている人間は暗殺されている可能性が高いです。ケネディは就任演説で「国家があたなに何をしてくれるだろう?ではなく、あなたが国家に何ができるかを問え」という有名な言葉があります。私たちはここに立ち帰るべきできではなかろうかと思います。
歴史に対する無知は先人に対する冒涜です。国を愛すると言う言葉があります、国を愛すると言うのは日本の為に一生懸命働いた人々を理解し、その気持ちを称えていく事が国を愛する事の一つだと思います。
どの地方でも、郷土の英傑はその郷土で称えています。しかし彦根では直弼を称える時間はあるでしょうか?
国際化という言葉があります。これは英語がしゃべれる事ではありません「私って何?」が言えるかどうかです。私は何? 日本人は何? 私の郷里って何? そこにはどんな歴史があってどんな人が居るの?その事を私たちがはっきり知って人に対して言える・・・
そういう意味で皆さんの中で井伊直弼公に対してもっと理解を持って頂き、自分に情報が無ければ他所で説明もできません。もちろん喧嘩腰になってはいけませんが、相手の話を受け止めて静かに語れば相手にも響きます。
彦根の偉人である井伊直弼公に関心を持って頂いて、それを次の世代に語り継いで頂ければと思う次第です。
小田先生は松下塾の出身でもあられ、『陽転思考』などの脳のイメージにもお詳しい先生です。文章では書き表せないような表現も多くありました。機会があれば、生の話を聞きに行って下さい。
あれ?聞いていた時とイメージが違うなぁ、結構笑った講演だったのに・・・と思われる方も多いと思いますが、管理人の腕ではこの文章が限界ですお許しください。
・・・ではここより本文です。
グレート直弼『井伊直弼のリーダーシップ』
彦根は郷里ですので、郷里の英雄である井伊直弼公のお話をさせて頂くのは喜びでもあり緊張感や責任を感じます。
直弼は日本の国にとっては最大の恩人の筈なのですが世間では様々な評価がなされています。
私は郷里の英雄である直弼の事を次の世代に伝える責務があると思っています。歴史の人物の足跡を訪ねて様々な地域を巡るといろんな意味での歴史観が見えてきます。中には残念ながら「井伊直弼が安政の大獄をした」という言い方がされていたり「勅許を待たずに開国をした」などの直弼に対する独裁者のような表現を使っている事も少なくありません。
吉田松陰の松下村塾には何度も足を運んで講演もしています、松陰は歴史上は「安政の大獄で井伊直弼に殺された」とされています。しかし松陰が“正義”で松陰を殺した直弼を“悪”と見立てるのは大いなる間違いであると思っていて、私は松陰と直弼の間に大きな架け橋が架けられないものか?と思っておりました。今回のこのお話を頂いた時に非常に責任感を感じつつも「我が意を得たり」との思いで参りました。
私は高校まで彦根で学びました。小学校の道徳の時間には校長先生が井伊直弼の話をされたのです、その時は「井伊直弼公は文武両道に秀でそして日本を開国に導いた大変な偉人である」という一点を学びました。その時は埋木舎での15年間の長い下積み時代もあまり分らない状態で「井伊直弼を中心とした彦根城と彦根市はとっても素晴らしい町なのだ」というだけでした。しかし長じて歴史を知ると「全国的に直弼がきちっとした形で認識されていない」という事実がありました。
これを「しょうがない」という言い方も出来ると思います。でもそうではなく今生きている私たちが、直弼公の遺徳をちゃんとした形で、自分たちの住んでいる地域やあるいは子どもや孫に対しては伝えていく責任があると思います。
井伊直弼は日本にとっては偉人だったのですが、幾つかの点で問題がありました。
・違勅。勅許を待たずしての条約調印。
・安政の大獄で吉田松陰や橋本左内を含め何人かの志士を斬った。
・条約が不平等な条約だった。
・将軍継嗣問題。
将軍のお世継ぎ問題と開国は全く別の話なのですがこの2つが合体をして非常にややこしくなったのです。
ここで歴史のおさらいをします。
井伊家は、江戸幕府が開かれた時に徳川家康に対する4大功臣の一人である井伊直政からずっと続く由緒正しい家柄でした。江戸の300年の天下泰平の歴史が蒸気船によって破られました。しかしペリーの前にはビドルが来ていますしその前にも民間では結構来ていたようです。(アメリカは)初めから喧嘩腰に来たのではなく、太平洋から来た時に蒸気船に積む燃料の補給基地として平和的に交渉に来ている訳です。その時に幕府は「まぁいいか」との態度だったのです。
これは今でもそうですが、「まぁいいか」「まぁなんとかなるのちがうか」など適当にやっている訳です。今と昔を一緒にする訳にはいきませんが似た様な問題が起こっています。
日本は常に様子を見ます。常に常に様子を見ます。様子を見ると言うのはある種いい時もありますが物事をややこしくする最大の原因でもあるのです。
ビドルが来た時には、日本は「どうしようか?」とやっている、その内に「何だ日本は!」という事でペリーが来る時にはキツくなったのです。そして「どうしよう」と大騒ぎになりました。
その時に怒ったのが「そんなの関係ない打ち払ってしまえ」との“攘夷派”と、「もう鎖国はしていられない、だから開国しよう」との“開国派”なのです。この中で全体の流れは“攘夷派”でした。
それはなぜかと言えば、日本は(オランダとの付き合いがあるので自覚がなかったかも知れませんが)鎖国をして泰平に生活していたからです。泰平でゆるゆる暮らしているのに「国を開けろ!」と来たので、「何だ、お前らが勝手に来たのにそんなの許せるか!」というのが“攘夷”でした。
それに対して“開国”を唱えその最後の決断を下したのが井伊直弼です。不平等条約などの意味では非常に問題もあったのでしょう。けれども、当時の日本の国力や軍事力から見れば、ここで決断を下さなければアヘン戦争でイギリスやフランスに敗北した清国と同じになってしまうのです。
ここでややこしいのは“攘夷”“開国”だけではなく、政治の大政問題も含んでいたのです。これは「政治の権力の中枢を天皇に戻すべきだ」という考えです。
実際に天皇が政治の中枢を握ったのは大化の改新や後醍醐天皇の時に少しあったくらいで、昔から日本では天皇制とは別に権力構造を作っていたのです。権威(天皇)と権力(政治を動かす組織)を分けて別に作るのが日本の流れでした。ですから天皇が実際に政治をするのは珍しく明治天皇の時に久しぶりにそれが実現するのです。
日本の権力を天皇に戻す。という考え方は大きく2つに分類されました。
一つは“幕府を倒せ(倒幕)”、もう一つは“天皇と幕府をくっ付けろ(公武合体)”の2つです。井伊直弼はどの立場に立っているのか?と言えば、“攘夷”“開国”では“開国”で天皇に対しては“公武合体”なのです。ですから直弼が進めた和宮と徳川家茂との結婚は、幕府と朝廷をくっ付けようとした考えでした。
違勅というと直弼が天皇を無視したように聞こえますが、これが多きな間違いなのです。直弼は国学・茶道・禅・居合道を極めるといった大変な文人であり武人でした。長野義言(主膳)はたんに直弼の師だっただけではなく孝明天皇に対しても国学を教えていたのです。
ある時(嘉永7年4月6日)、京都で火事が起こって(京都大火・御所焼け)大切な書物が全部焼けてしまった時に義言は直弼の命を受けて孝明天皇に多くの書物を進呈し天皇も大変喜ばれたのです。元々直弼は朝廷に対する深い尊崇の念があり「朝廷なんて関係ない」などという事を口にする筈が無いのです。
しかし、直弼の兄であり前藩主でもある井伊直亮が、あまり悪く言うのも何なのですが風評が良くない所があったらしく、井伊家の本来の職務である京都守護(朝廷を守る、警護ではない)の家格よりは落ちる相州警護の任を(どうやら)風評が悪い罰として命じられました。
その様なあまり願わしくない仕事だったのですが、この事によって彦根藩は海外の情勢を深く知ったのです。世界の情勢や文明の進みを知っていた直弼は「彼らが来た時に反対するのは大変な事態を生む、戦ったら日本は火の海になる」と思うのですが、ペリー来航時に水戸藩主の徳川斉昭は「開国はならん!」と『和すべからざる十箇条』を出したのです。水戸藩と彦根藩は因縁深い訳です。斉昭と直弼は最大の政敵になったのは間違いありません。もしこの時に斉昭が居なかったら全然変わっていたと思います。
この時の将軍である家定(13代)はあまり有能では無かった、その家定の継嗣として紀州慶福(後の徳川家茂)を直弼が推したのです。ところが最後の将軍である徳川慶喜は斉昭の子どもなのです、そうするともうお解かりのように斉昭が慶喜に対し「井伊の野郎は、俺が外国を打ち払えと言っても開国なんて馬鹿なことを言っとる、しかも俺の息子(慶喜)はあんなに優秀なのに小さい子どもの慶福に将軍職を継がそうとするなんて、(直弼は)酷い奴だ!」と「井伊直弼許すまじ」の思いが伝わり、これが孝明天皇に対してもどんどん伝わっていったのです。
ですから直弼にすれば「日本は開国しなければいけないのだ」との思いなのにも関わらず、そこに将軍継嗣問題が入って孝明天皇にはきっちりとした形で伝わっていないのです。そして何度も勅許を得ようとしました。直弼は何とか天皇から勅許を得ようと、老中の間部詮勝を孝明天皇の許に送りなぜ開国をしなければならないのかを説く訳です。
実は直弼は開国しなければならない事は分かっているのですが、ペリー来航時に幕府や将軍・諸大名に対して一旦「祖法(鎖国)を守らねばならない」と言っているのです、「それを守る為には相手を知らなければならないので、国を開いて相手の話を聞いて、日本からも相手の国に行って軍備を整えて、強くなったらもう一度鎖国をしよう」と話しているのです(大攘夷)。考えてみれば解りますがムチャな話なのです。ですが一応直弼の賢さはいきなり「開国だ!」と言っている訳ではなく、軍備を整える為の開国を行ってからもう一度鎖国しようと言っているのです。
しかし、情報は色んなレベルで入ってきます10段階あれば「1から10まで順番に入る人」「1の次に5が入る人」あるいは「1から次が入ってこない人」など。孝明天皇の許にも色々な情報が入り間部詮勝も伝えています、そして天皇は「わかった」と言っているのです。
ところがこの時に詮勝が「大攘夷のやり方でいいですよね?」と言っているのです、すると天皇は「日本がまた強くなったら鎖国するなら良い」と返してくるのです。
詮勝が持ち帰った情報を見た直弼は考え込みました。鎖国を前提とした開国の話などアメリカには見せられません、そこで直弼は「全ての責任は私が負う」と言って条約を結んだのです。
今日、お話したいリーダーシップの資質の一つが『無私の精神』という考え方です。
これは何か?と言いますと「私心が無い」という事です。人間は自分の事は可愛い訳です「美味しい物を食べたい」「お金持ちになりたい」「いい想いをしたい」というのは人間が全て思う事です、しかし直弼は私心が無かったのです。これは明治の志士たちにも多く見られるのですが、おそらく直弼の場合は埋木舎の時代に培われたものだったと思います。
直弼は藩主の子として生まれますが15人の男の子が居る訳です、藩主になるのは1人ですからみんなどこかに何かなって大した生活はしていない訳です。慎ましい生活をするしかありませんでした。
この当時の有名な歌「世の中を よそに見つつも埋もれ木の 埋れておらむ 心なき身は」を見ると当時の直弼の心情を思う訳です。今は埋木舎を観光しこんな名前のお菓子もありますが埋もれている訳なのです。
結果として直弼は藩主となり大老となって開国をするのですがそれは偶々です。普通は世間から評価される事も無く、人の上に立って指導する訳でも無く、そのまま自分と言う存在が埋もれていって終わる訳なのです。それを直弼は運命として覚悟していたのだと思います。ですから直弼はお茶・禅・和歌・武道をやる、これは全部人間の心身の鍛練なのです。
直弼は茶人として「一期一会」という言葉を広められたと言っても過言ではありません。この言葉の本当の主意はどんなモノであるかを直弼は“獨座観念”という文章で書いています。難しい言葉ですが、どういうものかといいますと、これはお茶会の話になります。
大茶会ではなく小さな四畳半くらいの部屋でお客さんにお茶を一服と差し出した時、そんな一人のお客さんを招くのも茶会で、獨座観念はそんな茶会に対する主人の心構えを書いています。
現代風に訳して紹介しますと“主人のもてなしが終わり、お客さんを送り出す時は「はい、さよなら!」などではなく「ぜひ、また・・・」と余韻を残すようにしましょう。するとお客さんも余韻を持ち上手くいきます。そして茶室から去るお客さんを見送りますが、その時も「じゃあまたね~!」などと大きな声を出すのではなく厳かに姿を見送り、茶室に戻ったらお客さんが居られた痕跡(使用済みの茶碗など)をさっさと片付けるのではなく、一度座り徐に一人でお茶を点てて、その茶を飲みながらお客さんがいらっしゃった時の対話をしみじみと思い返す、そして片付けに入りなさい。その余韻を心の中に留めるのです。なぜならば、その時間は人生の中において後にも先にも一回しかないからです”
今日、この場は後にも先にも1回です、この講演が終わった後に私は控え室に帰ってしみじみと「今日の客は良かった」と言うかどうかは知りませんが(笑)、しみじみとお茶を頂きながら思い出す訳です。皆さんも帰ってから暫し「今日の井伊直弼はこうだったな」としみじみと味わって下さい。
・・・と、いう事なのです。
この言葉から見ると、おそらく直弼は、例えば春夏秋冬折々の季節があり桜が咲くと「また咲いてる」ではなく「あぁ今桜が咲いている」。雪が降ると「あぁ雪が降っている」。食事をすると「あぁ今このご飯が食べれる」とその一瞬をもの凄く大切にされていた筈です。
人生のその時間を1回しかない、埋木舎の中でどこにも行かない毎日変わらない一日一日の中に直弼はその一日の命の輝きを深く感じて生きておられたに違いないと思います。
今という瞬間との出会いが「一期一会」であるという事を強く思え。それがお茶をやる事の真理を自得するという境界なのだと直弼は言っているのです。
茶は武士の嗜みとして行われていた物ですが、直弼は一つの哲学にまで昇華させ「今という瞬間に自分の人生と会う、この瞬間に出会う、全ての時間を今初めて会った瞬間だと観念せよ」という事なのです。
直弼はお茶と同時に禅もやっていました。禅は達磨大師が“面壁九年”と言って壁に向かって9年座って悟を啓く事から始まります。禅の中の悟には解らない部分も有りますが「随所作主」という言葉があります。「所に随って主となれ」。
つまり人生の主人公は自分なのです、「どんな所に居ても自分が主人公として立つ」というのは禅の極意なのです。あの当時世間では「攘夷!」と叫ばれていましたが、直弼の信念は開国であり何を言われても構わないという事なのです。
もし今この場に直弼公が居られて名誉復活の活動をしているのをご覧になられたらどう感じられるか?と思った時に2つの可能性があると思います。
一つは「ありがとう」と思って居られ、もう一つは「でもね、いいんだよ」と思っておられるかもしれません。
直弼は自分の死後に悪評が付いて回る可能性がある事を知っておられた感があります。「でも、それも仕方ない」とも思っておられた節があります。“私心を無く”して“自分の立っている所に主となって立っている”そこまで自分の腹を決められるのはおそらく直弼が禅を積んでいるからでしょう、そうではない人だったら途中で「もういいや、もう知らん後は好きにして、日本はどうなっても知らんで」そして後になって「ほれ、言うた通りやろ」となったでしょう。皆さんでもあるでしょ?
でも今は開国している日本で「開国は井伊直弼のお陰だ」と言って感謝される事は殆どありません、そう言った意味で直弼は歴史の評そう的な名誉に関して非常に不足な状態であるのは間違いありませんが、これは運命です。
もしあの時に徳川斉昭が居なければ全く違っていました。斉昭が居てその息子の慶喜を将軍にするような話が無ければもっと順調だったでしょう。しかし斉昭は居たのです。
「あの時、吉田松陰を殺さなかったら・・・」先日、井沢元彦先生のお話でこの話がありました。これは一理ありますが吉田松陰も常識ではない人物ですので殺されますよ。
ペリーが来た時、松陰は「アメリカを倒す為にはアメリカを知らねばならん」と嵐の中を金子重輔と共に小船で黒船まで行って登っていったのです。そしてアメリカに連れて行って欲しいと懇願したのですが叶いませんでした。ペリーはこの様子を物陰から見ていて、後に『ペリー航海記』という著書の中で「私は、こういう若者の居る国は必ず発展するであろうと確信している」と記しているのです。そしてペリーは松陰と金子の助命を嘆願しました。
ペリーの嘆願もあり死罪を間逃れた松陰は故郷の萩に2年間投獄され、その後に約2年ほど松下村塾で教鞭を執ったのです。この時の塾生の中から高杉晋作・久坂玄瑞・山県有朋・伊藤博文などが育つのです。
そして塾生に向かって「幕府を倒せ!」「老中(間部詮勝)を斬れ!」と言うのです、あの高杉晋作にすら「お前は腰抜けだ!」とやるんです吉田松陰は・・・
「老中を斬れ!」ってそりゃ捕まりますよね・・・、そして小伝馬(牢屋敷)に送られてそこでも「私は老中を斬るんだ!」と言っている訳なんです。そりゃ殺されますね。
松陰は殺されるのが当たり前でありながらも、「至誠天を動かす(誠が通じれば天が動くのだ)」と一方では自分は死なないと思っているのです。
最後亡くなる時に『留魂録』を残します。この時30歳。ここで松陰は「自分は殺されるが泣くな。人生には春夏秋冬がある、人間から見れば蝉の命は短い、しかし天から見れば人間の命もあっという間だ。私は30歳で死ぬがこの人生の間に春夏秋冬が詰っている。私の人生が籾殻であるのか、ちゃんと詰った粟であるのか、それは分らない。同志諸君、私の意志を継いでくれるなら私はこれほど嬉しい事は無い」そして辞世の句が「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂」なのです。
もう一つ「親思う親思う心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」という自分の刑死を聞いた後に親がどう思うか?との句も残しているのです。
つまり安政の大獄を思想的な目で見ると、吉田松陰という“善人なる教育者”を“独裁者”である井伊直弼が殺したような言い方をしますが、そうではないのです。これだけの事をすれば殺すしかなかったのです。直弼は安政の大獄で人が処刑される事は必ず自分に返ってくると知っておられたのです。
水戸と彦根、徳川斉昭と井伊直弼は大変な因縁があったのです。結局、将軍継嗣問題・条約問題共に直弼が勝ち水戸の浪士たちが「井伊許すまじ」となり、安政の大獄で志士たちがドンドン殺される状況の中で水戸が立ち上がるのは歴史の必然です。
しかし、直弼は水戸浪士に殺されるのははっきり知っていました。3月3日の襲撃の報せも来ているのです。でも直弼は「私を殺そうとするのであるなら、どんなに警護を堅くしてもその意思は必ず遂げられる時には遂げられてしまうだろう」と言っているのです。その日の朝襲撃があるのを分っているのに桜田門外で斬り殺されたのです。
直弼は、自分が踏み台になって死ぬ事を良しとしたのです。明治の志士たちは先ほどの吉田松陰も含めて皆それぞれのレベルでの『無私の精神』を持っている、そして人々の為に国の為にやったのです。
直弼はその中でも特にその精神が強かったと思います。直弼は安政の大獄や勅許の話があっても藩主の時は語られません。直弼が藩主になった最初に何をやったか?と言いますと15万両を藩内みんなに配り、そして彦根藩内の人々がちゃんと生活できているかを藩主自らが9回に渡って確かめたのです。彦根藩の藩主の中にも領内を周られた人は居ましたが多くて3回くらいです。それは直弼の意識の中に「政治家というのは何であるか?」がちゃんと入っているからです。それは一言で言えば“抜苦与楽”です。
全ての政治家の目的は「人々の苦労を取り除く事、そして人生の楽しさを与える事」なのです。これが政治の役割です。ですから直弼は「本当に人々は苦しんでいないか?その苦労は取り除けるか?」と考えてそして農村に対しての信任が厚かったのです。ですから人がついて来ました。
そして井伊直弼のリーダーシップの大きなものが“決断力”です、自分でやると決めたものに対し決断する。そしてもう一つ情勢を見る力“洞察力”です。
情勢は、勝海舟が一番見えていました。
海舟は幕臣なのに、西郷隆盛が江戸に攻めてくる時に、自分の親玉の徳川慶喜を追い出すので攻め上らないでくれと懇願し、西郷も承認するのです。
その後も武士の常識なら、海舟は慶喜に生涯仕えるのが普通なのですが、海舟は慶喜の下を離れて明治新政府の高官となったのです。これを見て怒ったのは福沢諭吉でした。
諭吉は海舟の批判を書いて、海舟に「こんな物を発表するのですが」と見せに行きます。海舟はこれに対し「行蔵は我に存す。毀誉は人に存す」つまり「自分がどう思ってどう行動するかは自分にあり、人がどう思いどう評価するかは人の事」との意味。そして福沢諭吉に自由にしてくれと言ったのです。そして最後には勝海舟は慶喜の名誉を回復したのです。
そんな勝を斬りに行こうとして逆に感化されたのが坂本龍馬でした。龍馬は海舟の一番弟子となり、海舟は龍馬を使って維新を進めたのです。これらの人間模様が重なりますがその全員に共通するのが『無私の精神』です。
そしてその中でも井伊直弼公は「自分のやっている事が後で悪評となろうとも仕方ない」と思って死んだのです。これは直弼以外にはありませんでした。江戸開幕以来300年の膿を自分一人が背負って逝くという覚悟でした。
桜田門外で自分が倒れても日本という国が列強の草刈場にならなければそれでいいのだ!と直弼は思って逝かれたのではないだろうかと思います。
もしかしたら今の平成の時代に、90%が「右だ」と言っているのに実は左が正しかったと後になって評価される事があるかもしれません。今の日本は民主主義ですが、この民主主義というのはその国の精神のレベルは民衆のレベル以上には上がらないという事です。
ですから、私たちが「自分たちの国を支えているのは自分たちであるのだ」という事です。本当に歴史を変えている人間は暗殺されている可能性が高いです。ケネディは就任演説で「国家があたなに何をしてくれるだろう?ではなく、あなたが国家に何ができるかを問え」という有名な言葉があります。私たちはここに立ち帰るべきできではなかろうかと思います。
歴史に対する無知は先人に対する冒涜です。国を愛すると言う言葉があります、国を愛すると言うのは日本の為に一生懸命働いた人々を理解し、その気持ちを称えていく事が国を愛する事の一つだと思います。
どの地方でも、郷土の英傑はその郷土で称えています。しかし彦根では直弼を称える時間はあるでしょうか?
国際化という言葉があります。これは英語がしゃべれる事ではありません「私って何?」が言えるかどうかです。私は何? 日本人は何? 私の郷里って何? そこにはどんな歴史があってどんな人が居るの?その事を私たちがはっきり知って人に対して言える・・・
そういう意味で皆さんの中で井伊直弼公に対してもっと理解を持って頂き、自分に情報が無ければ他所で説明もできません。もちろん喧嘩腰になってはいけませんが、相手の話を受け止めて静かに語れば相手にも響きます。
彦根の偉人である井伊直弼公に関心を持って頂いて、それを次の世代に語り継いで頂ければと思う次第です。