安政5年(1858)7月16日、薩摩藩主島津斉彬が亡くなりました。享年50歳。
このブログは彦根に関わる事を中心に書いて居ますので、彦根藩主の立場から見るならば、この時の彦根藩主は3ヶ月ほど前に大老に就任した井伊直弼。
直弼にとって斉彬は将軍継嗣問題で対立した立場にあり、また斉彬は死の直前に将軍継嗣問題で南紀派(紀州慶福推進派)が勝利した事に講義するために薩摩藩兵5000人を率いて上洛する準備を進めていただけに、斉彬の死は直弼にとっては幸運とも言えるものだったのです。
そんな島津斉彬の生涯についてはいずれ書く機会を設けるとして、今回は死の状況について見ていきましょう。
7月8日、先ほども書きました上洛の為の兵の訓練が鹿児島城南の天保山調練場において行われていました。
この天保山は、斉彬の父である斉興の時代まで三代に渡って薩摩藩の財政改革を進めた家老・調所広郷が大坂の天保山を真似て創った場所で(反調所派によって広郷の娘が殺害されるという事件も起こった場所だったと記憶していますが・・・出典はどこだっただろう?)、後の薩英戦争の時には重要な砲台場の一つとなった場所でもありました。
そしてこの時には訓練の場所として使われたのです。
斉彬の側には家老の新納久仰が従っていて、この久仰が記した日記『新納久仰譜』にこの日の様子が克明に書かれています。
『新納久仰譜』を紐解くと、斉彬は城下諸隊の五番隊と六番隊の訓練の指導を午前10時頃から午後5時頃まで炎天下の下で陰に入る事も日傘を差す事も無く、馬に乗ったまま行っていました。
安政5年の7月8日は太陽暦で8月16日に当ります、まさに夏の真っ盛り、斉彬は馬を駆け何度も水を飲んでいたのです。
午後5時過ぎ、訓練を終えた斉彬は近くから船に乗って喜入沖に出て、趣味の釣りを楽しみました。
斉彬は多才な趣味を持っていたのですが、特に釣りは釣った魚を自ら調理して、少量の麹と塩を混ぜて蓋をして居間の棚に置き、熟れ鮨(鮒寿司の浅い感じ)になったところで食べるのを好んでいたのです。
この時も太刀魚が捕れたらしい記述を別の資料から見る事ができます。
その記述によれば「(斉彬公が)大好きな釣りをされていると、変な銀色の長大な魚を釣り上げられ、わしも先が長くはあるまいとこぼされて早々に引揚げられた」という事です。
しかし、この時に釣り上げた魚は斉彬自身の手で熟れ鮨にしているようなので、変な魚などでは無く、この時期に普通に捕れる太刀魚の姿に酷似していますから、斉彬の呟きは後から尾鰭が付いた物だったのでしょう。
『新納久仰譜』に戻ると、この釣りでは順調に魚が釣れたのですが斉彬の気分がすぐれなかった。と読み取れます。
翌9日、斉彬は朝から風邪気味だったようで午後2時からの訓練は腹痛によって不参加。
同日夜、高熱・腹痛・下痢などの症状を発し床から起きれなくなりました。ここで蘭方医・坪井芳洲や藩医・清水養正らが治療と投薬を行い坪井芳洲の細かい記録が残っています。
これを紹介するのは長くなるだけですので省略しますが、投薬の甲斐も無く段々弱っていく斉彬の様子を知る事ができるのです。
斉彬が床に臥せてから4日後の7月13日、医者たちは斉彬の病状を赤痢と診断しました。
15日になって死期を悟った斉彬は、家老たちを枕元に呼んで家督相続を弟・久光の息子の忠徳(忠義)に継がせる事などの三ヶ条の遺言を伝え、16日午前6時頃に帰らぬ人となったのでした。
こうして、「当代に並ぶ者の居ない名君」とまで評価された島津斉彬はあっけなくこの世を去ったのです。
その死には当時から様々な憶測が流れました。
まずは、コレラ説
この時の5月21日、アメリカの軍艦ミシシッピー号から長崎に持ち込まれたコレラは瞬く間に日本中を駆け巡り8月には江戸にまで広がって3万から5万の人が1ヶ月の間に亡くなったのですが、鹿児島にコレラが広がったのも8月の事でした。
この時には既に斉彬は亡くなっていて、7月18日に長崎から鹿児島に戻った蘭方医の寺島宗則(後の外務卿)も「流行の時期とは合わないのでコレラではない」と診断して居ます。
続いて、赤痢説
これは、斉彬の病状的にも医者の診断としてもそうだったという定説とも言える説です。
そして、食中毒説
釣った魚に麹と塩を加えて居間の棚に、夏の暑い時期に置く・・・
こうなると腸炎ビブリオ食中毒を起こすのではないか?という説を打ち立てた方も居られます。
腸炎ビブリオ食中毒は、夏の海でコレラ菌に似た細菌が魚介類に繁殖し赤痢に似た症状を起こすそうなのです。この説は納得できるところもあるのですが、唯一の欠点は「何故この年の夏に?」という事なのです。
斉彬が夏に釣りをして熟れ鮨を作ったのはこの時だけでは無いでしょうから、逆にもっと前に発病して危機感を持っている可能性の方が高いのです。でも、万が一この年が初感染もしくは訓練疲れによる身体疲労からの発病の可能性は否めません(ちなみに管理人はこの説を支持して居ます)。
そして最後に、暗殺説
斉彬の熟れ鮨は居間の棚に置かれていました。
ではここに毒(砒素)を盛る事は可能だったのではないでしょうか?というのが海音寺潮五郎さんの説です。
発表当時は信憑性も高かった筈ですし、時期も納得できる物です。
そして毒を盛るとすれば、斉彬の藩主就任前からその就任を嫌って「お由羅騒動」というお家騒動まで起こした斉彬の父・島津斉興やその側室・お由羅そして二人の子である島津久光とその一派という事になります。
ただ、薩摩藩ではこのお由羅騒動の余波から斉彬の物や周囲には必要以上の警備が敷かれていたと予想できますので、果たして毒を盛るチャンスが一瞬でもあったのかが疑問です。
万が一藩医の誰かが斉興派で、疲れと風邪で体調不良を起こした斉彬に毒を処方したというなら有り得ない話でも無いでしょうが・・・
余談ですが、島津斉興は翌年9月12日に69歳で亡くなっています、これを偶然の産物と捉えるか?斉彬派の報復と捉えるかも面白いかも知れませんね。
先日の井沢元彦さんの講演で、井沢さんは「島津斉彬は暗殺されたと考えて居ます」と仰って居られました。
これからも多くの説が飛び交うであろう島津斉彬急死事件の真相が解かれる日が来るのでしょうか?
井伊直弼や幕府的にはこのタイミングで斉彬が亡くなった事に一番の恩恵を受けている筈なのですが、幕府黒幕説みたいな説もあるんでしょうかね?
このブログは彦根に関わる事を中心に書いて居ますので、彦根藩主の立場から見るならば、この時の彦根藩主は3ヶ月ほど前に大老に就任した井伊直弼。
直弼にとって斉彬は将軍継嗣問題で対立した立場にあり、また斉彬は死の直前に将軍継嗣問題で南紀派(紀州慶福推進派)が勝利した事に講義するために薩摩藩兵5000人を率いて上洛する準備を進めていただけに、斉彬の死は直弼にとっては幸運とも言えるものだったのです。
そんな島津斉彬の生涯についてはいずれ書く機会を設けるとして、今回は死の状況について見ていきましょう。
7月8日、先ほども書きました上洛の為の兵の訓練が鹿児島城南の天保山調練場において行われていました。
この天保山は、斉彬の父である斉興の時代まで三代に渡って薩摩藩の財政改革を進めた家老・調所広郷が大坂の天保山を真似て創った場所で(反調所派によって広郷の娘が殺害されるという事件も起こった場所だったと記憶していますが・・・出典はどこだっただろう?)、後の薩英戦争の時には重要な砲台場の一つとなった場所でもありました。
そしてこの時には訓練の場所として使われたのです。
斉彬の側には家老の新納久仰が従っていて、この久仰が記した日記『新納久仰譜』にこの日の様子が克明に書かれています。
『新納久仰譜』を紐解くと、斉彬は城下諸隊の五番隊と六番隊の訓練の指導を午前10時頃から午後5時頃まで炎天下の下で陰に入る事も日傘を差す事も無く、馬に乗ったまま行っていました。
安政5年の7月8日は太陽暦で8月16日に当ります、まさに夏の真っ盛り、斉彬は馬を駆け何度も水を飲んでいたのです。
午後5時過ぎ、訓練を終えた斉彬は近くから船に乗って喜入沖に出て、趣味の釣りを楽しみました。
斉彬は多才な趣味を持っていたのですが、特に釣りは釣った魚を自ら調理して、少量の麹と塩を混ぜて蓋をして居間の棚に置き、熟れ鮨(鮒寿司の浅い感じ)になったところで食べるのを好んでいたのです。
この時も太刀魚が捕れたらしい記述を別の資料から見る事ができます。
その記述によれば「(斉彬公が)大好きな釣りをされていると、変な銀色の長大な魚を釣り上げられ、わしも先が長くはあるまいとこぼされて早々に引揚げられた」という事です。
しかし、この時に釣り上げた魚は斉彬自身の手で熟れ鮨にしているようなので、変な魚などでは無く、この時期に普通に捕れる太刀魚の姿に酷似していますから、斉彬の呟きは後から尾鰭が付いた物だったのでしょう。
『新納久仰譜』に戻ると、この釣りでは順調に魚が釣れたのですが斉彬の気分がすぐれなかった。と読み取れます。
翌9日、斉彬は朝から風邪気味だったようで午後2時からの訓練は腹痛によって不参加。
同日夜、高熱・腹痛・下痢などの症状を発し床から起きれなくなりました。ここで蘭方医・坪井芳洲や藩医・清水養正らが治療と投薬を行い坪井芳洲の細かい記録が残っています。
これを紹介するのは長くなるだけですので省略しますが、投薬の甲斐も無く段々弱っていく斉彬の様子を知る事ができるのです。
斉彬が床に臥せてから4日後の7月13日、医者たちは斉彬の病状を赤痢と診断しました。
15日になって死期を悟った斉彬は、家老たちを枕元に呼んで家督相続を弟・久光の息子の忠徳(忠義)に継がせる事などの三ヶ条の遺言を伝え、16日午前6時頃に帰らぬ人となったのでした。
こうして、「当代に並ぶ者の居ない名君」とまで評価された島津斉彬はあっけなくこの世を去ったのです。
その死には当時から様々な憶測が流れました。
まずは、コレラ説
この時の5月21日、アメリカの軍艦ミシシッピー号から長崎に持ち込まれたコレラは瞬く間に日本中を駆け巡り8月には江戸にまで広がって3万から5万の人が1ヶ月の間に亡くなったのですが、鹿児島にコレラが広がったのも8月の事でした。
この時には既に斉彬は亡くなっていて、7月18日に長崎から鹿児島に戻った蘭方医の寺島宗則(後の外務卿)も「流行の時期とは合わないのでコレラではない」と診断して居ます。
続いて、赤痢説
これは、斉彬の病状的にも医者の診断としてもそうだったという定説とも言える説です。
そして、食中毒説
釣った魚に麹と塩を加えて居間の棚に、夏の暑い時期に置く・・・
こうなると腸炎ビブリオ食中毒を起こすのではないか?という説を打ち立てた方も居られます。
腸炎ビブリオ食中毒は、夏の海でコレラ菌に似た細菌が魚介類に繁殖し赤痢に似た症状を起こすそうなのです。この説は納得できるところもあるのですが、唯一の欠点は「何故この年の夏に?」という事なのです。
斉彬が夏に釣りをして熟れ鮨を作ったのはこの時だけでは無いでしょうから、逆にもっと前に発病して危機感を持っている可能性の方が高いのです。でも、万が一この年が初感染もしくは訓練疲れによる身体疲労からの発病の可能性は否めません(ちなみに管理人はこの説を支持して居ます)。
そして最後に、暗殺説
斉彬の熟れ鮨は居間の棚に置かれていました。
ではここに毒(砒素)を盛る事は可能だったのではないでしょうか?というのが海音寺潮五郎さんの説です。
発表当時は信憑性も高かった筈ですし、時期も納得できる物です。
そして毒を盛るとすれば、斉彬の藩主就任前からその就任を嫌って「お由羅騒動」というお家騒動まで起こした斉彬の父・島津斉興やその側室・お由羅そして二人の子である島津久光とその一派という事になります。
ただ、薩摩藩ではこのお由羅騒動の余波から斉彬の物や周囲には必要以上の警備が敷かれていたと予想できますので、果たして毒を盛るチャンスが一瞬でもあったのかが疑問です。
万が一藩医の誰かが斉興派で、疲れと風邪で体調不良を起こした斉彬に毒を処方したというなら有り得ない話でも無いでしょうが・・・
余談ですが、島津斉興は翌年9月12日に69歳で亡くなっています、これを偶然の産物と捉えるか?斉彬派の報復と捉えるかも面白いかも知れませんね。
先日の井沢元彦さんの講演で、井沢さんは「島津斉彬は暗殺されたと考えて居ます」と仰って居られました。
これからも多くの説が飛び交うであろう島津斉彬急死事件の真相が解かれる日が来るのでしょうか?
井伊直弼や幕府的にはこのタイミングで斉彬が亡くなった事に一番の恩恵を受けている筈なのですが、幕府黒幕説みたいな説もあるんでしょうかね?