安政5年(1858)7月6日、江戸幕府十三代将軍の徳川家定が病死しました。享年35歳。
十二代将軍徳川家慶の四男として生まれた家定は、多くの兄弟が早死にして唯一生き残っていたために十三代将軍に就任した人物でした。
当時は、権力争いの為に将軍や君主自身、もしくはその子たちに何らかの毒が盛られていた可能性は少なからず考えられており、管理人は確証は見つからない物の井伊家でも5代から10代までの藩主やその子の殆どは毒の害に遭っていたと考えて居ます。
これはもしかしたら当時の常識に近いものだったのでしょうか?
家定は子どもの時に西ノ丸に住んでいた大御所(十一代将軍)の徳川家斉を訪ねて、そこで食事を出された時には一切箸を付けなかったと言われています。
また、家定の趣味としてお菓子作りが知られていますが、これも自分で作った物なら安心して食べられるという安堵感から生まれた趣味だったのではないでしょうか?
しかし、家定は自分で作ったお菓子を幕臣に分け与える事も多かったのでした。
本来なら将軍が家臣に下げ渡すお手製の菓子は名誉の品だったのですが、家定の作る菓子は失敗が多かったようで、幕臣から井伊直弼に対して「将軍さまの菓子作りを控えるように進言してください」との依頼があったとも言われて居ます。ちなみにこの時の菓子は生焼けのカステラだったとか(未確認ですが・・・)
そして福井藩主の松平慶永からはこの趣味を酷評され「イモ公方」と渾名されたうえに「凡庸の中でも最も下等」とも言われたのです。
ちなみに家定の父である家慶が十二代将軍に就任する時に、世継ぎを家定にする事に不安を覚えた人々が一橋慶喜を世継ぎにしようとして運動した事があり、これを阿部正弘が阻止したという事件が起こった事がありました。
家定が自分の後継ぎを決める時に慶喜を嫌ったのには、こう言った背景も隠されているのかも知れませんね。
さて、そんな家定のうつけぶりは脳性麻痺であった為とも言われて居ますが、これまでの将軍でしたらそのような病でもゆっくり養生しながら生きていける時代でした。
しかし家定は黒船来航直後に将軍に就任し、時代の波に翻弄されたのでした。若くして亡くなった事もそんな時代に原因が無かったとは言えなくも無いのです。
大河ドラマ『篤姫』ではうつけ者のフリをする英邁な将軍として描かれている家定ですが、記録に残る限りでは残念ながらうつけ者ぶりばかりが目立ってしまうことに儚さも感じますが、明治になって幕臣だった朝比奈昌広は「(家定は)凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(松平慶永)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と発言してるのです。
十二代将軍徳川家慶の四男として生まれた家定は、多くの兄弟が早死にして唯一生き残っていたために十三代将軍に就任した人物でした。
当時は、権力争いの為に将軍や君主自身、もしくはその子たちに何らかの毒が盛られていた可能性は少なからず考えられており、管理人は確証は見つからない物の井伊家でも5代から10代までの藩主やその子の殆どは毒の害に遭っていたと考えて居ます。
これはもしかしたら当時の常識に近いものだったのでしょうか?
家定は子どもの時に西ノ丸に住んでいた大御所(十一代将軍)の徳川家斉を訪ねて、そこで食事を出された時には一切箸を付けなかったと言われています。
また、家定の趣味としてお菓子作りが知られていますが、これも自分で作った物なら安心して食べられるという安堵感から生まれた趣味だったのではないでしょうか?
しかし、家定は自分で作ったお菓子を幕臣に分け与える事も多かったのでした。
本来なら将軍が家臣に下げ渡すお手製の菓子は名誉の品だったのですが、家定の作る菓子は失敗が多かったようで、幕臣から井伊直弼に対して「将軍さまの菓子作りを控えるように進言してください」との依頼があったとも言われて居ます。ちなみにこの時の菓子は生焼けのカステラだったとか(未確認ですが・・・)
そして福井藩主の松平慶永からはこの趣味を酷評され「イモ公方」と渾名されたうえに「凡庸の中でも最も下等」とも言われたのです。
ちなみに家定の父である家慶が十二代将軍に就任する時に、世継ぎを家定にする事に不安を覚えた人々が一橋慶喜を世継ぎにしようとして運動した事があり、これを阿部正弘が阻止したという事件が起こった事がありました。
家定が自分の後継ぎを決める時に慶喜を嫌ったのには、こう言った背景も隠されているのかも知れませんね。
さて、そんな家定のうつけぶりは脳性麻痺であった為とも言われて居ますが、これまでの将軍でしたらそのような病でもゆっくり養生しながら生きていける時代でした。
しかし家定は黒船来航直後に将軍に就任し、時代の波に翻弄されたのでした。若くして亡くなった事もそんな時代に原因が無かったとは言えなくも無いのです。
大河ドラマ『篤姫』ではうつけ者のフリをする英邁な将軍として描かれている家定ですが、記録に残る限りでは残念ながらうつけ者ぶりばかりが目立ってしまうことに儚さも感じますが、明治になって幕臣だった朝比奈昌広は「(家定は)凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(松平慶永)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と発言してるのです。