萬延元年(1860)11月1日、将軍徳川家茂と皇女和宮の縁組が正式に発表されました。
同時に、酒井忠義が和宮下向の御用掛に任命されます。
二人の婚礼は井伊直弼が残した公武合体政策を基準として、井伊政権を引き継いだ安藤信正によって進められました。
一説には長野主膳が裏で動いていたとも言われています。
皇室から武家に正室を出す事は、身分が低い者へ嫁ぐ事になるので降嫁という言葉がよく使われます。
特に和宮には既に婚約者がいた事もあって、この話は簡単には進みませんでした。しかし結局は幕府や朝廷の政治の道具にされてしまった感が否めないのです。
また、婚約が決まってからも様々な準備等があり、和宮が江戸城大奥に入るのは翌年の12月まで一年以上の時間が掛ることとなります。
同時に、酒井忠義が和宮下向の御用掛に任命されます。
二人の婚礼は井伊直弼が残した公武合体政策を基準として、井伊政権を引き継いだ安藤信正によって進められました。
一説には長野主膳が裏で動いていたとも言われています。
皇室から武家に正室を出す事は、身分が低い者へ嫁ぐ事になるので降嫁という言葉がよく使われます。
特に和宮には既に婚約者がいた事もあって、この話は簡単には進みませんでした。しかし結局は幕府や朝廷の政治の道具にされてしまった感が否めないのです。
また、婚約が決まってからも様々な準備等があり、和宮が江戸城大奥に入るのは翌年の12月まで一年以上の時間が掛ることとなります。