彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『信長に挑んだ武将たち』講演聴講報告

2010年11月10日 | 講演
『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』
セミナー4「天下人と近江の戦国武将」
第1回目の講座として『信長に挑んだ武将たち』が開かれました。

講師は、静岡大学名誉教授 小和田哲男 先生


まずは、戦国・織豊期の近江の歴史的な位置付けについてのお話があり、近江は北国街道・北国脇往還・中山道・東海道・八風街道などの多くの陸路が通っていただけではなく、海路を通って敦賀や小浜から陸揚げされた物が塩津・大浦・海津・今津から坂本・堅田・大津に琵琶湖の舟運を使って流れる事で流通経済が活発化していた事。
また、六角氏や朽木氏が足利将軍の隠れ家になっていた事。そして戦国期有数の穀倉地帯だった事が話されました。
慶長三年検地目録には、近江は77万石と書かれているそうで、これは駿河17万石や越後30万石に比べるとはるかに多いそうです。
尾張・美濃・伊勢は50万国クラスの国だった為に、尾張で生まれた信長の活躍も頷けるとのことでした。

そして信長以前に近江で勢力を持っていた六角氏や京極氏のお話があり、京極氏は江北三郡(伊香・浅井・坂田)の守護職権を持っていたくらいであり、六角氏の方が上の立場であったとの事でした。

そんな中で、京極氏被官の国人一揆の中から浅井亮政が台頭してきます。
浅井氏は小谷城という大きな城を築城した事で、他の国人一揆が真似できないと思わせたとの事でした。
同じくらいの国人たちの中から一歩抜きんでる事で戦国大名化した国人一揆の代表は西の毛利氏と中央の浅井氏だったそうです。


織田信長の時代になると、浅井長政といつ頃同盟を結んだのかが問題になってきます。
小和田先生は信長が美濃の稲葉山城を落とした後の永禄10年から11年ごろとされていて、足利義昭を上洛させるために近江の六角・浅井両氏を敵に回さないようにするために浅井長政に妹を嫁がせた近国同盟ではないか。との説でした。
この後、金ヶ崎退き口を経て、姉川の戦いに至るのですが、姉川の戦いで信長が小谷城を落とさずに途中で軍を引いたために、三好三人衆が浅井方の勝利と勘違いして四国から大坂に軍を進め、城(寺)を囲まれたと勘違いした石山本願寺が怒ったという事でした。
その為に10年続く石山戦争が起こると考えると、何がどう影響するのか解らないものですね。


最後に、浅井家臣団の結束力について質問しました。
すると、当時は江戸時代のような「二君に仕えず」の精神はなく、強い方につく時代だったので結束力は低かったとの事でしたが、その例外として、三河徳川家は結束力が強かったそうです。そうであるからこそ天下人となり、その精神が江戸時代の二君に仕えない武士道に繋がっていったとのことでした。


次回は11月17日、『秀吉を支えた武将たち』の講座が開かれます。
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