彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:堀利煕、自害(11月6日)

2010年11月06日 | 何の日?
萬延元年(1860)11月6日、外国奉行の堀利煕(としひろ)が自害しました。
自害の原因は、老中の安藤信正に疑いをかけられた為の憤死だと伝わっています。

堀利煕は、安政5年に岩瀬忠震・水野忠徳・永井尚志・井上清直と共に新設された外国奉行に任命されるくらいですから、西洋通である事は伺えます。
しかし、他の外国奉行経験者に比べると、ネームバリューが少ないのは、この時に自害してしまったからなのです。
ただし、堀が居なければ幕末に台頭する人物もいます。その代表は後に五稜郭で蝦夷共和国を建国する榎本武揚です。榎本は堀の小姓として蝦夷探索調査に加わっていて、この調査があったからこそ蝦夷地の実態を知っていたのです。

また、堀は安政4年には箱館奉行も務めていて、日本人が手掛けた洋式帆船『箱館丸』の進水式に出席し、箱館丸で江戸までの海路を乗ってその技術が信頼できるものである事を示したのです。

このように幕府にとって有能な官僚であった堀利煕でしたが、プロイセン使節オイレンブルークら一行の応接掛として全権を委ねられ交渉しながら「プロセインと裏交渉を行ってい、それと同時にオーストリアとの裏交渉も行っている(これらはドイツ連邦に関わる国々)」との噂が幕府内で流れた為に、老中の安藤信正に追及され、何の弁明もしないままに自害したのです。享年43歳。

堀の交渉は外国奉行の同役にあった村垣範正が引き継ぎ『日普修好通商条約』締結にいたりますが、同じように修好通商条約を結んだ他国とのほぼ変わらない条約締結のために、江戸幕府の総理大臣クラスの閣僚が、毒を食らう覚悟もある行動的で将来性もある官僚を死に追いやる不手際を打つ事となったのです。

堀利煕は、幕末期における管理職官吏犠牲者の最初の事例とも言われています。


余談ですが、堀利煕の母方の身内として叔父が天保期に南町奉行を務めた鳥居耀蔵。従兄弟には同じく外国奉行を務め『日米修好通商条約』に調印した岩瀬忠震がいます。
また利煕の父は大塩平八郎の乱の時に大坂西町奉行だった堀利堅(としたか)という人物で、利煕は血筋から考えても官僚の典型のような人物だったのです。
コメント
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