大正10年(1921)11月4日、現役の首相であった原敬が東京駅で刺殺されました。享年65歳。
原敬は、平民宰相として歴史に名前を留めていますが、実は生まれは盛岡藩の武士で、原敬の祖父の原直記は家老も務めた上級武士でした。
敬が次男であった為に、分家した時に戸籍上の平民となっただけなのです。
盛岡藩を始めとする東北の諸藩は、幕末維新の動乱の中で奥羽越列藩同盟を締結し、明治政府に抵抗したことから朝敵とされて薩長藩閥から軽視されたとの歴史が実しやかに囁かれています。
確かに、政府高官のほとんどは薩長土肥の出身者に牛耳られていましたが、丁寧に歴史を見てみると、特定の藩(会津など)以外は、それほどに差別を受けた感は見られません、逆説的に考えればそこまで政府の人材は充実してはいませんでした。
そんな中、盛岡藩出身で戸籍上は平民だった原敬の生い立ちだけを見ると司法省法学校を退学処分になったり大隈重信の関係者と意見が合わなかったなど、迫害されたようなイメージが付き纏う人生がありますが、最終的に陸奥宗光や西園寺公望に外交官としての才能が認められて実務を任されるほどになっているのです。
明治33年(1900)になうと、伊藤博文の立憲政友会に井上馨の薦めで入会しているので、長州藩閥との繋がりも持っていた事が伺えます。
その後、第2次西園寺公望内閣や第1次山本権兵衛内閣で内務大臣を務め、西園寺公望の後を受けて立憲政友会の三代目総裁に就任するのです。
こうして、政党の力を武器として大正7年(1918)には内閣総理大臣に任命されるのでした。これが日本最初の本格的な政党内閣となります。
政党内閣として、民衆から大いに期待された原内閣でしたが、財閥や政商優遇や普通選挙法に反対した事や、政治の動きが小刻み過ぎた事などが民衆の失望感を買いました。
そして大正10年11月4日午後7時25分頃、立憲政友会京都支部大会へ出席する為に京都行きの汽車に乗る予定で東京駅乗車口(現在・丸の内南口)へと向かっていた原敬に対して一人の青年が突っ込んできて敬にぶつかり、青年が持っていた短刀で右胸を刺されました。その場に倒れた原敬は、心臓にまで達した刺し傷のために即死だったのです。
原敬を刺した青年は、山手線大塚駅職員の中岡艮一という18歳の若者だったのです。
中岡は死刑求刑を受けましたが、無期懲役の判決を受け、13年後には釈放されています。裁判に関する記録もほとんど残っていない不思議な裁判として、原敬暗殺事件は政治的な陰謀説が囁かれているのです。
さて、この事件自体は彦根にも滋賀にもあまり関わりが無い事件です。
敢えて言うなら「原敬が向かっていた先が近くの京都だった…」との指摘があるくらいでしょうか?
しかし、原敬と言う人物に注目すると面白い関わりが見えてきます。
原敬の最初の妻である貞子の父親は、中井弘という元薩摩藩士でした。この中井弘は桜洲という号の方が知られているかもしれませんが、滋賀県にとっては三代目滋賀県令であり初代滋賀県知事として知られた人物です。
その業績の一番大きい物は琵琶湖疏水の完成を手掛け、明治天皇の琵琶湖行幸を実現させた事でした。
中井は、その後滋賀県知事を辞任しますが、平安遷都1100年の大祭のために京都府知事に任命され平安神宮建造や時代祭として今に残る大祭の準備に奔走している途中で病没します。その時代祭を開催にまで導いた人物の一人が、彦根藩士族で大阪府知事・沖縄県令などを歴任した西村捨三です。
原敬は、平民宰相として歴史に名前を留めていますが、実は生まれは盛岡藩の武士で、原敬の祖父の原直記は家老も務めた上級武士でした。
敬が次男であった為に、分家した時に戸籍上の平民となっただけなのです。
盛岡藩を始めとする東北の諸藩は、幕末維新の動乱の中で奥羽越列藩同盟を締結し、明治政府に抵抗したことから朝敵とされて薩長藩閥から軽視されたとの歴史が実しやかに囁かれています。
確かに、政府高官のほとんどは薩長土肥の出身者に牛耳られていましたが、丁寧に歴史を見てみると、特定の藩(会津など)以外は、それほどに差別を受けた感は見られません、逆説的に考えればそこまで政府の人材は充実してはいませんでした。
そんな中、盛岡藩出身で戸籍上は平民だった原敬の生い立ちだけを見ると司法省法学校を退学処分になったり大隈重信の関係者と意見が合わなかったなど、迫害されたようなイメージが付き纏う人生がありますが、最終的に陸奥宗光や西園寺公望に外交官としての才能が認められて実務を任されるほどになっているのです。
明治33年(1900)になうと、伊藤博文の立憲政友会に井上馨の薦めで入会しているので、長州藩閥との繋がりも持っていた事が伺えます。
その後、第2次西園寺公望内閣や第1次山本権兵衛内閣で内務大臣を務め、西園寺公望の後を受けて立憲政友会の三代目総裁に就任するのです。
こうして、政党の力を武器として大正7年(1918)には内閣総理大臣に任命されるのでした。これが日本最初の本格的な政党内閣となります。
政党内閣として、民衆から大いに期待された原内閣でしたが、財閥や政商優遇や普通選挙法に反対した事や、政治の動きが小刻み過ぎた事などが民衆の失望感を買いました。
そして大正10年11月4日午後7時25分頃、立憲政友会京都支部大会へ出席する為に京都行きの汽車に乗る予定で東京駅乗車口(現在・丸の内南口)へと向かっていた原敬に対して一人の青年が突っ込んできて敬にぶつかり、青年が持っていた短刀で右胸を刺されました。その場に倒れた原敬は、心臓にまで達した刺し傷のために即死だったのです。
原敬を刺した青年は、山手線大塚駅職員の中岡艮一という18歳の若者だったのです。
中岡は死刑求刑を受けましたが、無期懲役の判決を受け、13年後には釈放されています。裁判に関する記録もほとんど残っていない不思議な裁判として、原敬暗殺事件は政治的な陰謀説が囁かれているのです。
さて、この事件自体は彦根にも滋賀にもあまり関わりが無い事件です。
敢えて言うなら「原敬が向かっていた先が近くの京都だった…」との指摘があるくらいでしょうか?
しかし、原敬と言う人物に注目すると面白い関わりが見えてきます。
原敬の最初の妻である貞子の父親は、中井弘という元薩摩藩士でした。この中井弘は桜洲という号の方が知られているかもしれませんが、滋賀県にとっては三代目滋賀県令であり初代滋賀県知事として知られた人物です。
その業績の一番大きい物は琵琶湖疏水の完成を手掛け、明治天皇の琵琶湖行幸を実現させた事でした。
中井は、その後滋賀県知事を辞任しますが、平安遷都1100年の大祭のために京都府知事に任命され平安神宮建造や時代祭として今に残る大祭の準備に奔走している途中で病没します。その時代祭を開催にまで導いた人物の一人が、彦根藩士族で大阪府知事・沖縄県令などを歴任した西村捨三です。