5月12日に、
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー7『幕末を駆け抜けた志士たち!』
1回目の講演として「幕末長州人物伝」と題されたお話がありました。
講師は萩博物館主任研究員の道迫真吾さん。
主に吉田松陰の人生形成期の旅や、吉田松陰がどのように高杉晋作に接し、晋作は松陰の精神を反映させていったかが話されました。
松下村塾は長くても2年10カ月の期間しか開かれておらず、塾舎で抗議が行われた期間は1年2ヶ月しかないそうです。この間に92名の塾生が学んだそうです。
その後の影響も考えると日本史の中でも地域限定で特に濃い月日だったのですね。
さて、今回も面白いかった質疑応答。
(質問者)
伊藤博文が桜田門外の変の後に、多賀大社の前の車戸屋敷に来て情勢を探っていたと訊きますが、その時の伊藤の状況を教えていただけますか?
(道迫氏)
長州藩は尊王攘夷派といいますが、元々は公武合体でした。残念ながら長州の主導権は文久二年の島津久光の状況で薩摩に奪われます。その関係で伊藤博文の考えも変わりますので影響はあるとは思いますが、基本的には萬延や文久の頃は公武合体が長州の考え方です。
(質問者)
高杉晋作について教えていただきたいのですが、高杉晋作はテレビや小説などでは英雄扱いされていますが、一部の出世した人を除いて、既得権益を奪われた萩の人たちには不人気と聞きますがどうなのでしょうか?
(道迫氏)
当時、晋作には二人の妹がいたのですが、萩では嫁に行けなかったという話が残っています。明治初年頃は晋作に対する批判的な考えは強かった筈です。明治9年に前原一誠が起した萩の乱はまさしくそれです。士族の大リストラでバッサリ家禄が没収された関係で、高杉晋作もそうですが、伊藤に関する批判もありました。
(管理人)
少し的外れな質問になりますが、吉田松陰の人生の中でユーモアセンスがあるように感じます。自分の吉田の姓を分けて二十一という数字に拘り、佐久間象山の甥に向けて送った手紙の中にナポレオンを書いているのは、象山が「ナポレオンは自分と同等の人物だ」と言ったことを受けてのことと思えたり、品川弥二郎に泥を塗られて「師に泥を塗った」と言った逸話など、私は吉田松陰にユーモアを感じるのですが、そういう人物像を萩ではどのように見ておられますか?
(道迫氏)
今の内容については、あまり話題に上らないようなところがあります。時代が後になればなるほど「松陰先生」と奉る傾向がありますので、これからテコ入れはしていきたいと思います。
松陰の理想は中国の聖人です。『論語』『孟子』の世界です。聖人たちは師匠と門下生の垣根はなるべくとっぱらって、和気藹々と冗談も言う雰囲気があったと、史料から伺えます。
(管理人)
井伊直弼には、どのようなイメージをお持ちですか?
(道迫氏)
最初の頃は強権的なイメージがありましたが、松陰の書いている物を見ると、直弼を仁政の君主であると評価しています。ですので、作られたイメージが強く、真実としては幕府の大老という立場がさせてしまったものもありますが、客観的に見ていかなければいけないかな?とは思っています。
彦根だから批判することを避けているわけではありません。
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー7『幕末を駆け抜けた志士たち!』
1回目の講演として「幕末長州人物伝」と題されたお話がありました。
講師は萩博物館主任研究員の道迫真吾さん。
主に吉田松陰の人生形成期の旅や、吉田松陰がどのように高杉晋作に接し、晋作は松陰の精神を反映させていったかが話されました。
松下村塾は長くても2年10カ月の期間しか開かれておらず、塾舎で抗議が行われた期間は1年2ヶ月しかないそうです。この間に92名の塾生が学んだそうです。
その後の影響も考えると日本史の中でも地域限定で特に濃い月日だったのですね。
さて、今回も面白いかった質疑応答。
(質問者)
伊藤博文が桜田門外の変の後に、多賀大社の前の車戸屋敷に来て情勢を探っていたと訊きますが、その時の伊藤の状況を教えていただけますか?
(道迫氏)
長州藩は尊王攘夷派といいますが、元々は公武合体でした。残念ながら長州の主導権は文久二年の島津久光の状況で薩摩に奪われます。その関係で伊藤博文の考えも変わりますので影響はあるとは思いますが、基本的には萬延や文久の頃は公武合体が長州の考え方です。
(質問者)
高杉晋作について教えていただきたいのですが、高杉晋作はテレビや小説などでは英雄扱いされていますが、一部の出世した人を除いて、既得権益を奪われた萩の人たちには不人気と聞きますがどうなのでしょうか?
(道迫氏)
当時、晋作には二人の妹がいたのですが、萩では嫁に行けなかったという話が残っています。明治初年頃は晋作に対する批判的な考えは強かった筈です。明治9年に前原一誠が起した萩の乱はまさしくそれです。士族の大リストラでバッサリ家禄が没収された関係で、高杉晋作もそうですが、伊藤に関する批判もありました。
(管理人)
少し的外れな質問になりますが、吉田松陰の人生の中でユーモアセンスがあるように感じます。自分の吉田の姓を分けて二十一という数字に拘り、佐久間象山の甥に向けて送った手紙の中にナポレオンを書いているのは、象山が「ナポレオンは自分と同等の人物だ」と言ったことを受けてのことと思えたり、品川弥二郎に泥を塗られて「師に泥を塗った」と言った逸話など、私は吉田松陰にユーモアを感じるのですが、そういう人物像を萩ではどのように見ておられますか?
(道迫氏)
今の内容については、あまり話題に上らないようなところがあります。時代が後になればなるほど「松陰先生」と奉る傾向がありますので、これからテコ入れはしていきたいと思います。
松陰の理想は中国の聖人です。『論語』『孟子』の世界です。聖人たちは師匠と門下生の垣根はなるべくとっぱらって、和気藹々と冗談も言う雰囲気があったと、史料から伺えます。
(管理人)
井伊直弼には、どのようなイメージをお持ちですか?
(道迫氏)
最初の頃は強権的なイメージがありましたが、松陰の書いている物を見ると、直弼を仁政の君主であると評価しています。ですので、作られたイメージが強く、真実としては幕府の大老という立場がさせてしまったものもありますが、客観的に見ていかなければいけないかな?とは思っています。
彦根だから批判することを避けているわけではありません。