彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

比叡山延暦寺『怨親平等』

2011年05月01日 | 史跡
『怨親平等』とは、敵味方の区別を問わず一切の犠牲者を平等に供養して救済しようとする仏様の教えだそうです。
この考えのもとで、比叡山延暦寺では様々な催しが行われていますが、4月30日に『戦国名将大甲冑展&黒澤明展』見学と、特別講演『井伊家千年物語~彦根藩井伊家の歴史~』聴講のためのツアーがありましたので、これに参加しました。

朝、彦根駅に集合して比叡山行きのマイクロバスに乗り込みました。
途中の休憩場所の近くには、紫式部の歌碑がありましたのでちょっと覗いてみました。

目の前を通過することはあるのですが、寄って見るのは初めてです。琵琶湖を背景にした良い景観ですよね。

そして琵琶湖大橋を越えます、比叡山の麓の辺りは仰木の棚田という景観地があります。



標高が高いので、まだ桜も咲いています。

秋になるともみじがきれいに色付きそうな道を走り

琵琶湖が見える絶景も、比叡山を通る楽しみのようです




そして延暦寺に到着。
ただし、比叡山には延暦寺という建物はありません。一山すべての総称が延暦寺と言うそうです。

まずは西塔から…
常行堂は、親鸞の修業の地です

法華堂と繋がっていて、これを弁慶が担いだという伝承から、弁慶にない堂とも言われています

釈迦堂は、秀吉が移築させたといわれている古い建物です



また、聖徳太子が植えた椿が大きく育った地に建てられた椿堂

伝導太師(最澄)廟の敷地に建つ浄土院などが見どころです。



西塔では東日本大震災の復興と祈りをテーマにした萌桜会(ぼうおうえ)が行われていて、そのイベントでの抽選でくず湯が当たりました。

自分では絶対に注文しない物ですから、こんな形で味わえるなんて、嬉しいラッキーでもあり、美味しいおもてなしでした。


これらを楽しんでから、東塔に移動…
大書院で、『戦国名将大甲冑展&黒澤明展』が行われていたのです。

大書院は、当時は1000円で豪邸が建ったという時代に35万円かけて建築された昭憲皇太后(明治天皇の皇后)に関わる建物で、たばこで財をなした人物によってこの地に移築され、皇室の方の宿泊に使われる場所なのだそうです。この為に普段は非公開となっている場所です。

建物の中は、わざとらしくないのに使っている木材の木目から飾りに至るまでシャンとした高級感があります。





これを見るだけでも入場料500円の価値は充分ありますが、そこに黒澤明展や甲冑展が行われているのです。
まずは、島田紳助さん着用の甲冑がお出迎え

この先も名将の甲冑を再現した物が多くあります。

武田信玄

石田三成

豊臣秀吉は床の間に栄えています

真田信繫と徳川家康をこう並べることで関係が見えますね。

黒澤明展でもありますから『乱』や『影武者』に関わる甲冑もありました
  
『乱』の衣装
  
黒澤作品の小道具なども展示

そして注目されるべきは、ここに織田信長の甲冑も並んでいることです。

後ろには「怨親平等」の文字が…
寺を焼討ちにした人物まで平等に供養する。叡山の想いがここに籠っているのですね。
ここで紹介したのは一部ですが、こんな形で普段見れない場所で興味深い展示が行われていました。

大書院での『戦国名将甲冑展&黒澤明展』の見学が終わったあと、少し時間があったので東塔エリアを見学して回りました。
東塔には延暦寺の中心部に当たる根本中堂があります。

桜の季節ですので、とてもいい景色が見れました。

中は撮影禁止ですから、ここがギリギリ、この向こうがパワースポットにもなっていて、日本の中心と言われる中庭があります。

そして、大講堂に移動。

すぐ近くには、葵の紋が入った燈篭がありました。


この次に僕がどうしても見たかったのは戒壇院

最澄が比叡山に建てたかったのになかなか許可が下りず、死後7日目に建立の許可が下りたという、いわば最澄の執念の施設です。

ここ以外にも阿弥陀堂

東塔

出世大黒天と願を掛ける摩尼車



などがありました。

またこんな面白い絵を飾っている場所も…

比叡山七不思議のひとつである一眼一足の僧なのだそうです。

この近くの御社に寄って見ると、管理人好みの葉桜でした。



その近くに建つ石燈篭に刻まれた年号は

元文2年(1737)、八代将軍吉宗の治世の物です。

そして、やはり比叡山と言えば多くの僧が修行する地です。西塔に引き続き東塔にも

蓮如などの名前が見られました。

法然所縁の地は、きつい坂道を下った場所にあるのですが…

管理人が訪れた時は、小学生くらいの女の子が二人階段の掃除をしてくれていて、気持ちいい挨拶をしてくれました。

中を観させてもらって帰る時、お茶をいただく時間が無かったので戻ろうとすると、わざわざ後ろから追いかけてきてくれて「ここでしかないお菓子ですから」と、持ってきてくれました。

浄土宗の開祖としてしか、日本史の中では語られない法然ですが、こういった心配りが今にまで伝わる教えを残された方だったのかもしれませんね。


そして、特別講演『井伊家千年物語~彦根藩井伊家の歴史~』聴講の時間がやってきました。
講師は井伊家18代当主井伊直岳さん。
まずは、井伊家千年の歴史を、初代共保の誕生から、直政・歴代彦根藩主・井伊直弼の流れでお話して行かれました。

その後、井伊家当主と比叡山の大僧正の対談となったのです。

滋賀県障害者協会を立ちあげられた故井伊文子さんから、理事長の後任を任されたのが小林隆彰大僧正だったそうです。また比叡山焼き討ち辺りのごたごたで比叡山から紛失していた嵯峨天皇の真筆(今は勅封になっているそうです)を藩政時代に井伊家から譲られたこともあり、比叡山と井伊家は多少の関わりもあるそうです。

また、今回比叡山で信長の甲冑を展示したり甲冑能『信長』を演じることがあるなどの比叡山を焼いた信長のことをなぜ比叡山でするのか?という話には、「当時は僧兵が比叡山で大きな顔をして武力を持っていた時代ですから、信長が比叡山を焼かなければ、今の比叡山はなかった」との考えで、比叡山が焼かれたあと、秀吉や家康が「根本中堂の中庭は日本の中心でありその場所を安定させないと国は落ち着かない」と考えて秀吉は1500石家康は3500石出して鎮護国家の山岳修行の場として比叡山を復興させた。とのことでした。
“鎮”の字は荒れている人の心を鎮める。また非業の死を遂げて苦しんでいる先祖を鎮めるとのことで、苦しんでいる死者が世の中を乱しているとのことで比叡山の僧が秀吉や家康に頼み、山岳で修業し、武力を廃し、学問を尊び、人を育てる場としたのだから、やはり今の比叡山があるのは信長のおかげともいえるそうです。
小林大僧正がこの意見を発表し、周囲が納得していらい比叡山は信長を恨まなくなったそうです。
もともと恨みを持つことも親しく付き合うことも、根は一緒で恨み合っていても同じ利害があれば仲良くなり、仲が良くてもちょっと裏切れば争ってみる。本来はひとつである怨親平等(不二)を言いだしましたが、すべてのものには原因と結果があり、よく調べてみると納得することもある。とおっしゃっておられました。

比叡山では、焼き討ちの時の犠牲者を敵味方関係なく法要したことがあり、それがだんだん大きくなって世界での犠牲者を供養する形になったそうです。
その時の土盛りと供養塔もあります。

このように比叡山の中でしか聞けないような話も聞けて、充実した訪問でした。

帰り道、琵琶湖大橋麓のお米プラザに寄りましたが…

こんなお土産売ってました。


  今年の滋賀は、浅井三姉妹と戦国がメインですね。
琵琶湖の空はずっと曇りでしたが、過ごし易い一日でした。
コメント
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