文化の歴史は治水の歴史と言っても過言ではありません。四大文明は全て大河流域で誕生し、水の恵みが土壌を豊にして作物を育て、富を得た者が文化を構築するからです。
領民の財産を守る事が権力者の仕事であるならば、川の水を富の生産だけに利用して破壊活動を抑える治水は権力者の大きな責任でもあり力の象徴でもあったのでした。
日本でも古墳時代には治水を含む大規模な土木工事を行っていたのです。古墳を作るだけの大規模な土木技術が治水にも利用されたのでした。特に日本の河川は、別のページで登場する明治時代のオランダ人河川技術者ヨハネス・デ・レーケが「これは川ではない滝である」と言ったくらいに急な流れ(これは特に流れの激しい常願寺川の話)もあるような土地柄だった為に、大きな権力を持ってしても安全な土地を確保するのは難しかったのです。
江戸時代後期、そんな日本の河川の中でも特に厳しい地域の治水工事に取り組んだのが薩摩藩でした。
海抜0メートル地域であり、その中を木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)とその支流が網の目のように絡み合う濃尾平野。木曽三川はそれぞれに川底の高さが違った為に一番高い木曽川が溢れると他の2川も連鎖的に氾濫して大きな被害をもたらすので“暴れ川”とも呼ばれていました。水害の回数は江戸時代の記録で145年の間に111回残されています。
美濃国(岐阜県)に住む木曽三川流域の民は、助命檀という高い土盛りを作りその上に寺社を建立して食料を貯蔵し、洪水が起こった時にはその上に人々が集まって水が引くのを待ったのです。
現存する決して広いともいえない助命檀の上に立つと、2~3メートル以上はあるであろう高さに驚かされます。いつ引くとも知れない水に怯え体力や精神力の弱い者から脱落する、端から土が崩れてくる、そんな極限の状態の中ふっと川向うに目を移すと養老山地が間近に見えるのです。「あの山まで行けたならば…」「せめてもう少し丈夫な堤防ができたなら」との怨嗟の声が聞こえてきそうになります。
雨が降る度に洪水に怯えて暮らしていた美濃の人々は、幕府に何度も治水工事の願いを出しました。この願いが受理され、木曽三川治水工事の御手伝普請命令書が宝暦3年(1753)12月25日付で薩摩藩に渡されたのです。
幕府は工事の見積もりを15万両(約150億円)と算出されていて、これは薩摩藩の負担となるのでした。薩摩藩では幕府に謀叛を起こす強硬的な議論まで出るほどにこの命令に反発しましたが、家老の平田靱負が「武士として民を守るのに薩摩も美濃も分け隔てはある筈がない」と説いて翌年2月27日より治水工事に取り掛かったのです。
しかし、宝暦治水は純粋な作業ではなく江戸幕府による薩摩藩潰しが本来の目的でした。幕府による無理難題や常識外れの締め付けが日常茶飯事に行われ、場合によっては完成した堤防を幕府の役人が壊すような横暴も行われたのです。
これに耐えられずに薩摩藩士の中には切腹する者が続出します。この切腹が幕府への諫言と解釈されないように、平田靱負は腹を切った藩士全てを怪我による死として届け出たのです。工事期間中の薩摩藩の犠牲者は約100名。この内切腹者は約60名と言われていますが、新しい資料の発掘があればまだ増える可能性も示唆されています。
耐えに耐え抜いた治水工事は、木曽川と揖斐川が合流する油島に背割堤(川分堤・締切堤)を築く事で完成となり薩摩藩士が造った堤防には藩領から運ばれた日向松の苗が植えられました。現在油島にある治水神社から川沿いを下流に向けて続く千本松原は「この地に深く根を据えて、美濃の民を守るように」との250年以上前の強い想いを伝えてくれています。
宝暦5年3月28日に全ての工事が竣工。5月22日までに幕府の検分役が見回りその出来栄えに感嘆の声を上げたのです。1年以上に及ぶ工事はここに終了し、薩摩藩士は薩摩への帰路に着いたのです。治水工事に使われた費用は予算を大きく超える40万両(約400億円)になり、薩摩藩が後に金策の為に行った藩政改革が倒幕の動力源と資金源になるのです。
宝暦治水を扱った物語ではこの先の場面を殆ど同じ切り口で描いています。
“薩摩に向かう藩士たちは頭を垂れ、ただ黙々と荷支度をして美濃の地を離れて行った。これを見送る民は、藩士たちの姿が見えなくなるまで深々と土下座をして感謝の意をしめした。しかし精魂を使い果たした薩摩藩士たちは、そんな美濃の民にも何の感情も示さずに、重い脚を引きずって歩いて行ったのだった。
その道中で藩士たちは最後の犠牲者の報に接す。5月25日、平田靱負切腹…
彼らは辺りを気にせずに叫びながら男泣きに泣いた。これが薩摩藩士らの宝暦治水後最初の感情であったかもしれない”
平田靱負が腹を切ることで宝暦治水の工事責任を個人の罪としたのです。薩摩藩は犠牲者の家名を残す代わりに家族に口止めをし、記録から抹消された宝暦治水は薩摩藩内で忘れられた物語となりました。この犠牲者の中には明治立役者の一人でもある黒田清隆の先祖も含まれています。
約110年後に明治維新が起こり、恩を受けた美濃の民が子孫に語り継いでいた事で公の出来事となり地元資料から再検証が行われて“薩摩義士”として称されるようになったのです。
昭和30年代に発刊された『彦根市史』に平田靱負の先祖が、彦根市平田町に在った平田城(福祉保健センターより北東に50mほどの地域)の城主・平田宗左衛門高慶だったとの説が掲載されています。薩摩平田氏の出自については他にも数説あり彦根平田氏の末裔である確実性は低いかもしれませんが、興味深い説ではないでしょうか?
領民の財産を守る事が権力者の仕事であるならば、川の水を富の生産だけに利用して破壊活動を抑える治水は権力者の大きな責任でもあり力の象徴でもあったのでした。
日本でも古墳時代には治水を含む大規模な土木工事を行っていたのです。古墳を作るだけの大規模な土木技術が治水にも利用されたのでした。特に日本の河川は、別のページで登場する明治時代のオランダ人河川技術者ヨハネス・デ・レーケが「これは川ではない滝である」と言ったくらいに急な流れ(これは特に流れの激しい常願寺川の話)もあるような土地柄だった為に、大きな権力を持ってしても安全な土地を確保するのは難しかったのです。
江戸時代後期、そんな日本の河川の中でも特に厳しい地域の治水工事に取り組んだのが薩摩藩でした。
海抜0メートル地域であり、その中を木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)とその支流が網の目のように絡み合う濃尾平野。木曽三川はそれぞれに川底の高さが違った為に一番高い木曽川が溢れると他の2川も連鎖的に氾濫して大きな被害をもたらすので“暴れ川”とも呼ばれていました。水害の回数は江戸時代の記録で145年の間に111回残されています。
美濃国(岐阜県)に住む木曽三川流域の民は、助命檀という高い土盛りを作りその上に寺社を建立して食料を貯蔵し、洪水が起こった時にはその上に人々が集まって水が引くのを待ったのです。
現存する決して広いともいえない助命檀の上に立つと、2~3メートル以上はあるであろう高さに驚かされます。いつ引くとも知れない水に怯え体力や精神力の弱い者から脱落する、端から土が崩れてくる、そんな極限の状態の中ふっと川向うに目を移すと養老山地が間近に見えるのです。「あの山まで行けたならば…」「せめてもう少し丈夫な堤防ができたなら」との怨嗟の声が聞こえてきそうになります。
雨が降る度に洪水に怯えて暮らしていた美濃の人々は、幕府に何度も治水工事の願いを出しました。この願いが受理され、木曽三川治水工事の御手伝普請命令書が宝暦3年(1753)12月25日付で薩摩藩に渡されたのです。
幕府は工事の見積もりを15万両(約150億円)と算出されていて、これは薩摩藩の負担となるのでした。薩摩藩では幕府に謀叛を起こす強硬的な議論まで出るほどにこの命令に反発しましたが、家老の平田靱負が「武士として民を守るのに薩摩も美濃も分け隔てはある筈がない」と説いて翌年2月27日より治水工事に取り掛かったのです。
しかし、宝暦治水は純粋な作業ではなく江戸幕府による薩摩藩潰しが本来の目的でした。幕府による無理難題や常識外れの締め付けが日常茶飯事に行われ、場合によっては完成した堤防を幕府の役人が壊すような横暴も行われたのです。
これに耐えられずに薩摩藩士の中には切腹する者が続出します。この切腹が幕府への諫言と解釈されないように、平田靱負は腹を切った藩士全てを怪我による死として届け出たのです。工事期間中の薩摩藩の犠牲者は約100名。この内切腹者は約60名と言われていますが、新しい資料の発掘があればまだ増える可能性も示唆されています。
耐えに耐え抜いた治水工事は、木曽川と揖斐川が合流する油島に背割堤(川分堤・締切堤)を築く事で完成となり薩摩藩士が造った堤防には藩領から運ばれた日向松の苗が植えられました。現在油島にある治水神社から川沿いを下流に向けて続く千本松原は「この地に深く根を据えて、美濃の民を守るように」との250年以上前の強い想いを伝えてくれています。
宝暦5年3月28日に全ての工事が竣工。5月22日までに幕府の検分役が見回りその出来栄えに感嘆の声を上げたのです。1年以上に及ぶ工事はここに終了し、薩摩藩士は薩摩への帰路に着いたのです。治水工事に使われた費用は予算を大きく超える40万両(約400億円)になり、薩摩藩が後に金策の為に行った藩政改革が倒幕の動力源と資金源になるのです。
宝暦治水を扱った物語ではこの先の場面を殆ど同じ切り口で描いています。
“薩摩に向かう藩士たちは頭を垂れ、ただ黙々と荷支度をして美濃の地を離れて行った。これを見送る民は、藩士たちの姿が見えなくなるまで深々と土下座をして感謝の意をしめした。しかし精魂を使い果たした薩摩藩士たちは、そんな美濃の民にも何の感情も示さずに、重い脚を引きずって歩いて行ったのだった。
その道中で藩士たちは最後の犠牲者の報に接す。5月25日、平田靱負切腹…
彼らは辺りを気にせずに叫びながら男泣きに泣いた。これが薩摩藩士らの宝暦治水後最初の感情であったかもしれない”
平田靱負が腹を切ることで宝暦治水の工事責任を個人の罪としたのです。薩摩藩は犠牲者の家名を残す代わりに家族に口止めをし、記録から抹消された宝暦治水は薩摩藩内で忘れられた物語となりました。この犠牲者の中には明治立役者の一人でもある黒田清隆の先祖も含まれています。
約110年後に明治維新が起こり、恩を受けた美濃の民が子孫に語り継いでいた事で公の出来事となり地元資料から再検証が行われて“薩摩義士”として称されるようになったのです。
昭和30年代に発刊された『彦根市史』に平田靱負の先祖が、彦根市平田町に在った平田城(福祉保健センターより北東に50mほどの地域)の城主・平田宗左衛門高慶だったとの説が掲載されています。薩摩平田氏の出自については他にも数説あり彦根平田氏の末裔である確実性は低いかもしれませんが、興味深い説ではないでしょうか?