彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:無礼斬り事件(5月20日)

2011年05月20日 | 何の日?
文久元年(1861)5月20日、清河八郎が町人の首を斬る、無礼人斬り事件が起きました。

当時は、虎尾の会という尊王攘夷グループを主宰していた清河は、幕府からも目を付けられている存在で、ちょっとの隙でも捕縛できるように監視されていたのです。
そこまで監視された理由として、横浜外国人居留区焼打ち事件を画策したことや、ヒュースケン殺害事件の犯人とされている伊牟田尚平を匿った疑惑があったからでした。


5月20日、両国万八楼で水戸藩の関係者と会合を行った清河は、帰路につきました。
その道中で、町人風の男が清河に絡んできたのです。小説を主体にした作品ではこの町人風の男を役人の差し向けた罠としていますが、本当のところはわかりません。
清河は町人を無視しようとしますが、町人がしつこく絡むので、ついに刀を抜いて、抜き様に町人の首を一閃しました。その首は2間(約3.6m)ほど飛んだといわれています。

今の感覚では、武士が町人の首を斬っても、無礼打ちで済まされるイメージがありますが、実際にはそんなことはありません。町人であろうと武士であろうと、殺人は殺人として裁かれますし、ましてや往来で抜刀しただけで充分罪となります。
町人を斬った直後に役人に囲まれた清河は、それでも逃げ切って以後全国を歩き回り同志を募ることになり、これが寺田屋騒動にも繋がるのです。


逃げ切った清河とは反対に、清河の妾のお蓮や、7人の関係者がこの時に捕縛されました。
約一年後にお蓮は獄中で衰弱死し、7人の関係者の内6人までが同じ運命を辿ったのです。唯一生き残った石坂周造(自称・彦根浪人)は、また清河の許に戻って浪士隊(一部が後の新選組)上洛にも加わり、後に日本の石油産業の礎を築くことになります。
コメント
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