彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:第一次東禅寺事件(5月28日)

2011年05月28日 | 何の日?
文久元年5月28日、水戸浪士14人が江戸高輪の東禅寺を襲撃しました。

当時、東禅寺にはイギリス公使ラザフォード・オールコックが滞在し、仮のイギリス公使館としての機能を果たしていたのです。
オールコックは日本から香港に渡り、4月22日に長崎に戻ってきて陸路で江戸まで戻ったのです。その到着が前日の5月27日でした。
水戸浪士の有賀半弥らは、この行為が「神州を汚す」として東禅寺襲撃を決行したのです。

しかし、この時の東禅寺には郡山藩と西尾藩の藩兵が200人近く警護の任に就いていたのです。
午後10時頃、有賀らは夜陰に紛れて東禅寺に侵入し、警護の兵と斬り合いになりました。その隙をみて数名が建物の中に侵入したのです。
一等書記官のローレンス・オリファントは、鞭で日本刀に立ち向かう勇敢さをみせ、長崎から同行していた長崎領事ジョージ・モリソンは拳銃で抵抗しました。この二人がイギリス人の中での負傷者となりますが、イギリス人の死者は出ませんでした(2名は秋にイギリスに帰国)。

警護の兵は20人の死傷者が出て、水戸浪士14人も有賀ら3名がその場で闘死、3名がその場か逃走先で自害し捕縛された者もいました。
しかし、現場から逃走した者も居て、黒沢五郎と高畑総次郎は坂下門外の変に参加し、岡見留次郎は天誅組の変に加わったのです(いずれもその時に死亡)。


事件の後、オールコックは幕府に対して抗議し、諸外国もこれに同調します。幕府は各国公使館の建設と賠償金の支払いを行うこととなったのです。
また、郡山や西尾の藩兵は、幕府の命で警護をしているのに、御三家の旧家臣に襲われという矛盾に悩むことになるのです。
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