1662年5月8日、鄭成功が亡くなりました。享年37歳。
鄭成功は、明朝末期の政治家であり軍事的指導者です。父親は鄭芝龍という人物で朱印船貿易を行っていた李旦という人物の下で商人として働いていて日本の平戸島に住んでいたのです。
ここで、華僑である翁翊皇の養女になっていた田川マツ(平戸藩士田川七左衛門の娘)を妻に迎えて、二人の間に生まれたのが鄭成功だったのです。
つまり鄭成功は、中国人と日本人のハーフでした。この時は鄭森と名乗っていました。
鄭芝龍は、商人としては当然の心得として兵を養っていて、それはバカにできない戦力でもあったのです。そして兵を養うために密貿易も頻繁に行っていました。
そんな自分の生き方とは違う道を息子に歩ませたいと思ったのか?役人の道を進むのですが、その直後に李自成の反乱によって明が滅んでしまい、明の皇帝であった朱氏を旗頭にする独立政権があちらこちらで乱立しました。
その一つが隆武帝朱聿鍵だったのです。隆武帝擁立には鄭成功の従兄弟が関わっていて、この縁で成功が隆武帝に謁見した時、「朕に公主(娘)がいれば、この者に嫁がせたのに、残念である」といい、その代わりに皇帝の姓である“朱”を与えますが、成功は恐れ多いとのことで使うことはありませんでした。そしてこの時に鄭森から鄭成功に改名しています。
この逸話から、「国の姓を賜った旦那(大身)」との意味を込めて「国姓爺」と呼ばれるようになりました。
しかし、こんな栄光とは反対に成功は窮地に立たされます。
復権のために兵を挙げた隆武帝は戦に敗れ殺害され、母のマツは戦の中で自害、父は戦いの相手だった清に下ったのです。
その後も成功は戦いの日々を過ごしますが、多くの場合は多勢に無勢で敗北を喫します。そしてついに海を越えて台湾に渡り、ここを占領していたオランダ人を追い出して中国人の国を作ったのです。この頃には父は清によって処刑されていました。
台湾に拠点を置いた成功は、母の縁で日本に援軍を求めます。江戸幕府はこの申し出を受ける方向で決まりかけていたのですが、元老だった井伊直孝が豊臣秀吉の唐入りの失敗を引き合いに出して反対したのです。
このまま明の復興をみないままに、台湾の地で成功は短い生涯を終えたのです。
そんな鄭成功の物語を近松門左衛門がラストシーンを変えて浄瑠璃にした物語が『国性爺合戦』なのです。
鄭成功は、明朝末期の政治家であり軍事的指導者です。父親は鄭芝龍という人物で朱印船貿易を行っていた李旦という人物の下で商人として働いていて日本の平戸島に住んでいたのです。
ここで、華僑である翁翊皇の養女になっていた田川マツ(平戸藩士田川七左衛門の娘)を妻に迎えて、二人の間に生まれたのが鄭成功だったのです。
つまり鄭成功は、中国人と日本人のハーフでした。この時は鄭森と名乗っていました。
鄭芝龍は、商人としては当然の心得として兵を養っていて、それはバカにできない戦力でもあったのです。そして兵を養うために密貿易も頻繁に行っていました。
そんな自分の生き方とは違う道を息子に歩ませたいと思ったのか?役人の道を進むのですが、その直後に李自成の反乱によって明が滅んでしまい、明の皇帝であった朱氏を旗頭にする独立政権があちらこちらで乱立しました。
その一つが隆武帝朱聿鍵だったのです。隆武帝擁立には鄭成功の従兄弟が関わっていて、この縁で成功が隆武帝に謁見した時、「朕に公主(娘)がいれば、この者に嫁がせたのに、残念である」といい、その代わりに皇帝の姓である“朱”を与えますが、成功は恐れ多いとのことで使うことはありませんでした。そしてこの時に鄭森から鄭成功に改名しています。
この逸話から、「国の姓を賜った旦那(大身)」との意味を込めて「国姓爺」と呼ばれるようになりました。
しかし、こんな栄光とは反対に成功は窮地に立たされます。
復権のために兵を挙げた隆武帝は戦に敗れ殺害され、母のマツは戦の中で自害、父は戦いの相手だった清に下ったのです。
その後も成功は戦いの日々を過ごしますが、多くの場合は多勢に無勢で敗北を喫します。そしてついに海を越えて台湾に渡り、ここを占領していたオランダ人を追い出して中国人の国を作ったのです。この頃には父は清によって処刑されていました。
台湾に拠点を置いた成功は、母の縁で日本に援軍を求めます。江戸幕府はこの申し出を受ける方向で決まりかけていたのですが、元老だった井伊直孝が豊臣秀吉の唐入りの失敗を引き合いに出して反対したのです。
このまま明の復興をみないままに、台湾の地で成功は短い生涯を終えたのです。
そんな鄭成功の物語を近松門左衛門がラストシーンを変えて浄瑠璃にした物語が『国性爺合戦』なのです。