文久2年(1862)5月9日、江戸幕府の遣欧使節団がロンドンで『ロンドン覚書』に調印しました。
遣欧使節団は、日米修好通商条約調印以来日本国内での攘夷運動や物価の過激な変動を苦慮した徳川幕府が、通商条約を結んだ国に対して開港(新潟・兵庫)と開市の延期を求めるための交渉を行うために派遣された使節団でした。
正史は竹内保徳(勘定奉行兼外国奉行)で36人の使節団だったのです。ここには福沢諭吉も同行していました。
4月にパリでナポレオン3世に面会し好感を得ます。そしてイギリスに渡ってロンドンでジョン・ラッセル外相と会談し、その結果として開港と開市を1863年1月1日から5年間延長することが決まり、これを記したロンドン覚書が調印されたのです。
このロンドンでは万国博覧会が開催されている最中で、そこには遣欧使節団をサポートしていたイギリス公使のラザフォード・オールコックが個人的に収集して展示させた日本ブースがあり、遣欧使節団たちを驚かせるとともに「こんな古い骨董品のような物は見るに堪えない」との感想を使節団は述べているのです。
遣欧使節団は、日米修好通商条約調印以来日本国内での攘夷運動や物価の過激な変動を苦慮した徳川幕府が、通商条約を結んだ国に対して開港(新潟・兵庫)と開市の延期を求めるための交渉を行うために派遣された使節団でした。
正史は竹内保徳(勘定奉行兼外国奉行)で36人の使節団だったのです。ここには福沢諭吉も同行していました。
4月にパリでナポレオン3世に面会し好感を得ます。そしてイギリスに渡ってロンドンでジョン・ラッセル外相と会談し、その結果として開港と開市を1863年1月1日から5年間延長することが決まり、これを記したロンドン覚書が調印されたのです。
このロンドンでは万国博覧会が開催されている最中で、そこには遣欧使節団をサポートしていたイギリス公使のラザフォード・オールコックが個人的に収集して展示させた日本ブースがあり、遣欧使節団たちを驚かせるとともに「こんな古い骨董品のような物は見るに堪えない」との感想を使節団は述べているのです。