文久2年5月29日、イギリス公使館となっていた東禅寺で、再び事件が起こりました。
前年の5月28日(たった1日違い)、水戸浪士14名による東禅寺襲撃事件が起きたばかりでしたが、今度は警護をしていた松本藩士が公使の寝室を襲おうとしたのです。
この時、公使のザフォード・オールコックは帰国していて、東禅寺には代理公使ジョン・ニールが滞在していたのです。
松本藩士の伊藤軍兵衛は、深夜になって警護から離れて公使の寝室へと向かいました。ここで水兵2名に妨害され、この2名を斬り殺したのです。
その後、伊藤は自害して果て、この事件は終結します。
警護側である伊藤軍兵衛がこのような行動に出た理由は、
・水戸浪士の襲撃の噂があり、日本人同士で殺し合うことの愚かさを悲観した。
・財政が逼迫している松本藩が警護から外される為の苦肉の策だった。
などが伝わっています。
ニールは公使館を横浜に移し(一年前の事件の後で横浜にあったが、ニールが東禅寺に移していたのを戻した)、再び賠償金を請求しますが、その後に生麦事件が起き、両方の事件を一緒にした賠償金が支払われるのです。またニールは生麦事件の報復である薩英戦争にも参戦しています。
前年の5月28日(たった1日違い)、水戸浪士14名による東禅寺襲撃事件が起きたばかりでしたが、今度は警護をしていた松本藩士が公使の寝室を襲おうとしたのです。
この時、公使のザフォード・オールコックは帰国していて、東禅寺には代理公使ジョン・ニールが滞在していたのです。
松本藩士の伊藤軍兵衛は、深夜になって警護から離れて公使の寝室へと向かいました。ここで水兵2名に妨害され、この2名を斬り殺したのです。
その後、伊藤は自害して果て、この事件は終結します。
警護側である伊藤軍兵衛がこのような行動に出た理由は、
・水戸浪士の襲撃の噂があり、日本人同士で殺し合うことの愚かさを悲観した。
・財政が逼迫している松本藩が警護から外される為の苦肉の策だった。
などが伝わっています。
ニールは公使館を横浜に移し(一年前の事件の後で横浜にあったが、ニールが東禅寺に移していたのを戻した)、再び賠償金を請求しますが、その後に生麦事件が起き、両方の事件を一緒にした賠償金が支払われるのです。またニールは生麦事件の報復である薩英戦争にも参戦しています。