彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

金福寺訪問

2020年11月01日 | 史跡
一乗寺下り松の辺りからたくさんの案内板がありますので迷わず到着できるお寺が金福寺です。

井伊家の歴史を調べていると幕末から明治期にかけて紹介されていることがあるお寺のひとつでもあります。



金福寺は、貞観6年(864)に円仁の遺志があり安恵が円仁の作った聖観音菩薩像を本尊として建てたお寺でした。
しかし荒廃が進み、江戸中期の元禄年間(1688〜1704)に鉄舟という僧が再興したのです。
鉄舟は近くの圓光寺の僧であったため金福寺は圓光寺の末寺となります。そして鉄舟と親交が深かった松尾芭蕉が京で滞在する庵も作られたのです。
(訪問したときは改修中でした)

芭蕉の滞在した庵は「芭蕉庵」と命名されましたが、また金福寺に荒廃の時期が続き70年ほど後に芭蕉を尊敬していた与謝蕪村とその一門により芭蕉庵などが再び整備されたのです。
この縁で蕪村一門は金福寺に墓を建立して眠っています。

与謝蕪村の墓

江森月居の墓


そして幕末。
『花の生涯』のヒロインで、若き日の井伊直弼、その兄直亮、そして直弼の懐刀の長野主膳との浮名を流したとも言われている村山たか女がここに関わってきます。
桜田門外の変で直弼が暗殺され、彦根の獄で主膳が斬首されると、息子多田帯刀と共に隠れるように過ごしていましたが、やがて勤王の志士たちに発見され、三条河原に晒されるのです。
文久2年(1862)11月14日のことでした。

翌15日には帯刀も発見されて斬首され、同じ三条河原に首が晒されました。

息子の死と並びながらも三日三晩耐え続けたたか女は、金福寺で出家し明治9年(1876)9月30日に亡くなるまで静かな余生を過ごしました。



その間に弁天堂を作り、今に伝わっています。








たか女の墓は本山の圓光寺にありますが、その墓土を埋めた拝み墓が金福寺に建立されています。


御朱印は芭蕉の「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」の俳句が押されたものでした。





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