月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

419.甲八幡、砥堀-月刊「祭御宅」2025.03.1号-

2025-03-10 22:43:19 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●祭礼日が同じ祭地域
祭礼日が同じで参加できない地域の祭や神社仏閣などについて調べてみようと思い立ちました。
はじめは、砥堀。姫路市の内陸部にあります。方向音痴の管理人にとっては、姫路帰りに迷い込む土地でもありました。
祭は甲八幡神社の氏子域でありながら、屋台は村内巡行のみおこなわれているようです。
残念ながら、管理人と祭礼日が同じ地域であるので、『播磨国風土記』や『兵庫県神社誌』の記述、そして、現地探索をもとに気づいた地域の特徴を書いていきたいと思います。

●祭礼日が同じ祭地域
祭礼日が同じで参加できない地域の祭や神社仏閣などについて調べてみようと思い立ちました。
はじめは、砥堀。姫路市の内陸部にあります。方向音痴の管理人にとっては、姫路帰りに迷い込む土地でもありました。

 


祭は甲八幡神社の氏子域でありながら、砥堀の屋台は村内巡行のみおこなわれているようです。砥堀の春川神社には屋台蔵があるのをみつけました。
残念ながら、管理人と祭礼日が同じ地域であるので、『播磨国風土記』『播磨鑑』や『播磨名所巡覧図絵』の記述、そして、現地探索をもとに気づいた地域の特徴を書いていきたいと思います。

姫路城と甲八幡




大きな甲八幡の鳥居がぴったり姫路城をむいている!! のかどうはわかりませんが、社殿や鳥居はそれに近い方角を向いているようです。

 


地図ではっきり調べたわけではないのですが、砥堀の春川神社などもおおよそそちらのほうを向いている??

 

『播磨国風土記』より神前の郡、蔭山の里、冑と「とほり」の地名の由来
砥堀は現在は姫路市となっていますが、かつては神前(かむさき)の郡蔭山の里に属する村であったようです。『播磨国風土記』には、神崎、蔭山、砥堀それぞれの地名の由来がのっています。神前はいまいち意味が理解できなかったのですが、その記述通りに下に書いていきます。

神前 
 伊和大神のみ子の建石敷命(たけいわしきのみこと)は、山使の村の神前の山においでになる。そこでこの神がおいでになるのによって名とし、だから神前の郡という。
「山使いの村の神」の前の山においでになるから?? あるいは村の前の山に神様がおいでになるから、神前ということでしょうか? 

蔭山 
 蔭山というのは、品太天皇(ほんだてんのう・応神天皇のこと)の御蔭(みかげ・櫛のこと)がこの山に落ちた。だから蔭山といい蔭岡とよぶ。
これは、分かりやすいですね。品太天皇は男性ですが、卑弥呼サマーの男性のように髪は長かったのかもしれません。

とほり(砥堀) 
 道の(草木)を切り払う(
品太天皇の刀の)刃がなまった。そこで勅して「磨布理許(とふりこ)」と仰せられた。だから磨布理の村という。
 磨は意味を表す漢字、布理許は音を表すいわゆる万葉仮名でしょうか。現在「砥ぐ」の字を当てているのも、単に音をあてはめたわけではないようです。

冑岡(甲山) 
 冑岡というのは、伊与都比古(いよつひこ)の神が宇知賀久牟豊富命(うちかくむとよほのみこと)と互いに闘った時、冑がこの岡に落ちた。だから冑岡という。

 磨は意味を表す漢字、布理許は音を表すいわゆる万葉仮名でしょうか。現在「砥ぐ」の字を当てているのも、単に音をあてはめただけではないということになります。

 

甲八幡神社の由来
 昭和十三年発行の『兵庫県神社』では、
 「伝へいふ応神天皇播磨巡行の時甲山に登りまして四方を叡覧あらせられ蒼生を慰み奨めて河溝を堀り道路を造り農事を奨励させ給ふ 里人其仁恤の厚きに感激し毎秋山上に集りて初補を供へ都の方に向ひて遥拝の式を行ひ来りしに其後神殿を造営し八幡大神と尊崇せり」
とあり、応神天皇が民のために治水や道路の工事をして、農場を整備したことが伝わっています。恐怖ではなく仁徳をもってこそ、尊敬というものは得られるのでしょう。

参考:『兵庫県の地名Ⅱ』(平凡社、1999)555ページ、「播磨国風土記」吉野裕訳『風土記』(平凡社、2000)

●礼儀正しい子ども
 春川神社の見学をしているときに、小学四、五年生くらいの子どもが、摂社の扉をあけてお参りしていいのかどうか尋ねてきました。
 もちろん地元民でないので、分からないとしか答えようがなく、地元の大人の人に聞いてからにするようにいいました。
 それにしても、礼儀正しい子どもで感心しました。
 このような子どもこそがそれぞれの地域の希望となっていきます。 

-編集後記-
今回は、非業の死を遂げた竹内英明氏の追悼の意をこめて、記事を書かせていただきました。
姫路市内での祭関係の展示に積極的にご協力するばかりでなく、片付けなどの作業も率先してされていたそうです。
竹内氏のような死者が今後出ないためにも、デマをまき散らしたり利用したりした人に相応の法的な罰を与えること、県の職員さんが安心して働けるようになること、その上で罪を犯した人たちもまた、更生し新な人生を歩むことこそが竹内氏の願いなのだと思います。

讒言に流されずに政は冷静に。そして祭は楽しく。これが残された我々祭仲間の使命であると考えます。

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407.御神火夜話-若い人たちのお宮の参拝事情-(月刊「祭御宅」2023.1月1号)

2023-01-06 21:40:58 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●火を囲んで聞く話
 小学生の教材にもなっている、三年とうげ。そのもとの話は、「温突(オンドル)夜話」という本に所収されています。寒い夜は、温突であたためた暖かい部屋で、お話を楽しみましょうといった意味でしょうか。
同様に、民俗学者・宮本常一も「炉辺夜話」という本をだしています。いろりで聞いた話というところでしょう。冬の夜は、火を囲んで様々な話をして楽しんだのは、日本でも朝鮮半島でも共通するのでしょう。
現代はスマホなどの普及で、そんなことも減ったのかもしれません。ですが、管理人はひょんなことから地元三木市の大宮八幡宮で総代をつとめることになり、大晦日から正月にかけて神社で焚かれる御神火のもりをしました。その火を眺めながら聞いた話をすこしばかりしたいと思います。

●本殿での御神火点火から境内のお焚きあげ用の火への点火
大晦日の夕方、各町氏子総代のもと、宮司さんが本殿内で御神火を点火されます。本殿内から火打ち石らしき音がきこえました。昔は火縄にその火をうつして、各町にその火を持ち帰り、金物作りの火や、仏壇の灯明などに町いられていたそうです。

その火は同じく大晦日の夜十一時に、境内のお焚きあげ用の火に点火されました。参拝者の暖をとることができる火ではありますが、本来は古いお札などをお焚きあげするための火です。ですので、ゴミやたばこの吸い殻をもやすことはできません。
この日は、境内にたてられたテント内の豆炭の焚き火にもうつされました。そこで、聞いたり見たりした、若い人たちのお宮さんへの参拝事情について話していきます。




●若い人たちの夜の参拝
大宮八幡宮でも大晦日の夜の十二時=新年の零時を待って参拝しようとする人たちがたくさんいました。行列は石段下まで続いていました。深夜の参拝者ほとんどが若い人たちでした。

そして、新年を迎えた時には、まるでどこぞの繁華街のように「あけおめ~」や、「ハッピーニューイヤー」などの元気な声がひびきわたりました。そこから、お宮への参拝がはじまります。
しばらく長い行列がつづいていましたが、おみくじが人気だったようです。青年団の後輩はおまいりだけすませたあと、家に帰って、人が少なくなったのを見計らって、おみくじだけを再び買いに来ていました。


御神火夜話
 さて、管理人は混雑中は帰路の案内をしていましたが、それが一段落するとテント内の小さな炭火のもりをしました。その時は夜の一時から2時ころでした。
炭火のまわりにあつまったのは高校は卒業して今年度二十歳になったばかりの人、次年度二十歳を迎えるという若い人たちでした。参拝をすませて、暖をとりつつ休憩しているとのことでした。たばこを火にすててしまったのを注意すると、すごく素直に謝っていました。このての素直さは最近の若い人たちの特徴のようにおもえます。
もっぱら話の中心は、わかれたくっついたの最近の恋愛事情、そして、仕事や学業の近況報告でした。
大学の単位が危機にあるような子もいましたが、大丈夫だったのでしょうか^^: スマホでの申請は便利なようですが、先生に頼みこんでの単位の融通がききにくそうにも思えたので、そのへんは昔より大変そうな気がしました。
さて、そのなかの一人のお兄さんがいうには、夜中の参拝をすませたあと、しばらく眠ってすぐに、初日の出をバイクで見に行きたいとのことでした。近くの雌甲山に行こうかといっていましたが、伊勢の夫婦岩から初日の出が拝めるという話をすると、それもいいですねーとのことでした。まさか、本気にいこうとするとは思いませんでした😅
コンビニでであったときは酒を買っていて、飲んで家ですごすことになったそうです。いずれにせよ、夜ほとんど寝ずに参拝して、酒盛りするのは若いからだと思いました。

●編集後記にかえて-神なき時代?-
このように酒盛りして、騒いでオミクジ買っての若い人たちの様子を見ると、「神なき時代」といいたくなるのかもしれません。
ですが、管理人があった若い人たちは地域の氏神さんに参拝して、祭もしている人たちでした。そのなかで、安易に神がいないというのは、あまりに無粋な気がします。
そのような思いをこの本の拙稿にしたためました。ご興味ありましたら、ぜひご一読ください。







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373.ニ拍手 二拝 二拍手※??大宮八幡宮宮参りの作法(月刊「祭」2021.8月5号)

2021-08-23 17:26:08 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
 ●鈴をならすタイミング
 近年の御朱印帳やパワースポットのブームで宮参りはずいぶん身近になったきがします。そのおかげで宮参りの作法「ニ拝 二拍手 一拝」をしっている人も増えてきたような実感があります。管理人は大学生になってから覚えました。でも、覚えてから疑問に思うことがあります。
鈴っていつならすん??
ニ拝 二拍手 一拝を覚えてからは、この鈴をいつならすのかが分からなくなりました。

屋台お祓いの玉串から
 そこで、少し考えてみると、屋台出たちまえなどの玉串奉納にヒントがあるように思います。玉串を代表者が奉納した後、一斉にニ拝二拍手一拝をします。これは、屋台ではなく本殿においても同じでした。
玉串奉納という神さんへのアクションを起こしてから、ニ拝二拍手一拝という順番ならば、玉串の代わりに鈴でもいいようなきがします。

●三木市大宮八幡宮の記録文書から
 大宮八幡宮当時の神職である池田忠左衛門右明が記した「神拝式」文政十一年*(1828、三木市立図書館所蔵)には、下のように書かれています。


まず柏手(かしわで)二回を打ちます。

お祓いや祈願文(今で言う祝詞だと思われます。)を読みます。

二回拝礼をして、鈴を三回ならします。

そして、最後に二回柏手を打ちます。

●二拝、二拍手、一拝はまちがい??
こうなると、二拍手、(お祓い祝詞)、二拝、鈴三回ならして、二拍手となってしまいます。しかし、これはあくまで神主さんの所作です。一般の参拝者は祝詞をあげないので、初めの二拍手はいらないともいえそうです。
となると「神拝式」にのっとるのであれば一般の参拝者は、二拝→鈴三回→二拍手となりそうです。
ですが、二拍手のあとにもう一回、頭を下げるのはあながち間違いとは言いきれないでしょう。神拝式」と今の作法を掛け合わすならば、「二拝→鈴三回→二拍手→一拝」とするのが無難なところでしょうか。
とはいっても大事なのは、やっぱり心持ちです。某ボンクラ祭ブログ管理人のような、やれあそぶための大金、やれうまい飯などなど厚かましい願い事をするようなことがなければ、オッケーということではないでしょうか。


↑神拝式の題字

※神前で手を二回打つ行為は柏手(かしわで)と言います。今回は文献引用の時のみ、柏手ト書き、それ以外は拍手と書きました。

*三木市立図書館の登録では文政十年「神挿式」となっていました。一が小さく書かれていたので、汚れと考えていたようです。ですが、「文政十一戊子歳」の記述があり、戊子年は文政十一年となります。「挿」ではなく「拝」は写真のとおり、
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361.波兎と住吉さん-加西市北条住吉神社拝殿内の波兎彫刻-(月刊『祭御宅』2021.6月8号)

2021-06-06 07:55:25 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●北条節句祭の加西市北条町住吉神社
 今回は北条節句祭で知られる加西市北条町住吉神社の拝殿の彫刻をみていきます。拝殿(おそらく本殿も)は国の登録有形文化財です。
↑拝殿にとりつけられた国登録有形文化財の板

↑本殿も精巧な彫刻でできています。



↑拝殿入り口も海と兎とお日さま

●住吉神社の祭神と波兎
 件の波兎の彫刻は、拝殿の中にありました。














ではなぜ、住吉神社の拝殿に波兎が多数彫られているのでしょうか。

●波兎が住吉神社に彫られた理由
 住吉神社の御祭神は後の合祀した神さんを除くと住吉四神(神功皇后、上筒男命、中筒男命、下筒男命→以下三柱筒男神)と、地主神の酒見神となります。
神功皇后は三韓遠征時に三柱筒男神を船にお祭したことが記されています。つまり、住吉四神は三韓遠征の神さんということになります。
ところで、日本書紀には三韓遠征の兵を集めるときに三輪山に神功皇后がお祈りして、無事に兵が集まったことが記述されています。三輪山の神となると、大乙貴命・大国主命ということになります。こちらの記事でも紹介しましたが、騙して並んだワニをふんずけて海を渡り、怒ったワニに皮をはがれた兎さんを、大国主命はたすけます。兎さんは大国主命がお嫁さんを無事に娶ることを予言しました。
「だから、住吉神社に兎の彫刻が残る! 」と言うにはまだ少し寂しい気がします。大国主命は北条の住吉神社の祭神でもありません。

●住吉大社
結論から言うと、住吉神は航海の神であることから海の彫刻が好まれ、住吉大社に三柱筒男神は神功皇后摂政十一辛卯年(211)卯月卯日に鎮座したそうです(h氏のご教示)。つまり、住吉大社の鎮座伝承が卯を意識したものになっているので、北条の住吉神社でも波兎の彫刻が彫られるているといえます。
その伝承がのっている文献を探してみました。「住吉名勝図会」寛政六年(1794)によると、
「摂津国住吉に鎮座なりしは神功皇后摂政十一年辛卯四月(卯月)二十三日なり」
とあります。この年の四月二十三日が卯の日かどうかは分かりませんでした。しかし、「四月(卯月)卯之日神事」の絵が他のどの神事よりも多くの頁に大きな絵を添えて記述されています。これらのことから、摂津の住吉大社で兎・卯が重要視され、その影響が北条の住吉神社の波兎彫刻にも現れたと言えるでしょう。
















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351.明石町、下町、三町-大きくなる町とそうでない町-(月刊「祭御宅」2021.5月20号)

2021-05-28 20:59:24 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●大宮八幡宮氏子域下五町と檀鶴
「前田町記録帳」*では、大宮八幡宮の祭では檀鶴と呼ばれるものが、「相廻され」ていたようです。宝暦元年(1751)より天明元年(1781)まで、中絶の期間もありながら、18回出されました。
 文政か文化頃の記録では、鶴の内訳が書かれていることから(2020年 三木市立みき歴史資料館展示より)、檀鶴は担ぐものか引くものを指すというより、芸をすることもできる移動式演奏台を当時の三木では意味していたと思われます。
 
 さて、檀鶴は年番制で明石町、下町、三町の順になってしまいます。三町とは、中町と上町と新町のことで、三町で合同で檀鶴を出していたことになります。そこから推察されるのは、明石町と下町は比較的経済的、人員的余裕があったこと、三町はそうではなかったことです。
ではなぜそのような差ができたのでしょうか。
 
*『本要寺文庫11』(古文書調査委員会)1986などに所収、三木市立中央図書館で見ることが出来ます。
 この記事では、石田安夫「古文書に見る三木地方の祭礼の変遷」『三木の祭 屋台・獅子舞写真集』(三木市観光協会)2002を参考にしました。
 
明石町、下町の経済的余裕の要因を地図から考える
 見出し画像の地図は、「播州三木郡前田町絵図」享保元年(1716)*の地図です。
 そこには、三木市大宮八幡宮氏子域の三木町下五町=明石町、新町、上町、中町、下町と宮近域の前田が飛び地であります。下五町の範囲を色分けしたのが下の図です。新町の筋の右横Aはすぐに上五町の滑原町が続きます。一方Bは高木村までの間に前田、つまり田んぼが続きます。これを見ると、上町、新町、中町は両方側が町に挟まれて、町域の拡張が難しそうです。
一方下町、明石町は山や田に町域を伸ばす余地がありそうに見えます。三町はもう家が一杯で分家後その町域に家を構えたり、新規の移住者をむかえたりすることが難しく、一方明石町、下町はそれらが可能だったと思われます。
 
*三木郷土史の会『三木市有宝蔵文書 別巻 地図・高札・補遺編』(三木市)2002の複製地図より
●現在の旧町域の祭-山際、田際の優位性-
このような傾向はほかの旧町域でも見られそうです。旧町域で居住域をふやす余地のある田や山がない場合、人口をふやすことが困難になる傾向にあります。加西市北条町でも、本町、御旅町などは家を増やすことが難しくかなり少ない件数で屋台を運営していると聞きます。
岩壺神社でも町域を増やせない芝町は、件数も少ない中で屋台を運行していると聞きました。現在は5か町に分かれている我らが明石町屋台も、居住域を増やす余地がある杣宮に人が集まり出しているように見えます。
 
 
 
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349.作られる伊勢音頭(月刊「祭御宅」2021.05月18号)

2021-05-23 18:05:10 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●伊勢音頭で担がれる屋台
 「めでためでたの若松さまよ
枝も栄えて 葉も茂る」
など、伊勢音頭を歌いながら屋台やだんじりを動かしたり、幟や竹を地面に衝いたりする祭は播州にも多くあります。

変わらない歌詞が歌われ続ける「伝統」だけではなく、常に新たに歌詞が作られ続けるという「伝統」をもつ祭もあります。

管理人は三木の大宮八幡宮、岩壺神社系統のの伊勢音頭のはかなり独特の節回しだと感じています。


●高砂市曽根天満宮の竹割り
 曽根天満宮の竹割りでは、さまざまな歌が歌われています。2000年頃、管理人が三木市大宮八幡宮明石町青年団員だったころ、夏に一度だけ曽根のように竹割りをしたことがありました。歌詞は「奈良の都を屁で飛ばす」など下品なものも大声で歌って楽しみましたが、曽根でも同様の歌詞が歌われていると聞きましたが、未確認です。
また、1990年代のサンテレビの曽根天満宮の祭の映像では、竹割りの時に「写りたいなーサンテレビ」と歌っているのを見たことがあります。
下の竹割りの映像では「曽根の祭はー」と聞き取れます。


●令和はじめての祭
 次の映像は三木市吉川町若宮神社の祭です。宮座制度が残り、ヤホー神事が県の文化財に登録されています。宮座の祭は四つの座が年交代で担当していますが、現在の神輿の巡行、昭和40年頃まで続いたお先だんじり(平屋根屋台)の巡行は氏子地域12村が年交代で担当しています。

令和はじめての祭で歌われた伊勢音頭系統の歌には令和元年ならではの歌詞が歌われていました。1分38秒ごろから聞き取れた歌詞を書きます。
「令和はじめの み神楽おさめ
氏子そろて 祝います」

●次歌われる伊勢音頭
 祭が自粛に追いやられる日々が続いています。晴れて祭ができる時、きっとその喜びを歌う伊勢音頭が生まれることでしょう。
そんな日が早くくることを祈って防疫につとめましょう。

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347.『播磨鑑』の志染荘・三坂大明神(月刊「祭御宅」2021.5月16号)

2021-05-22 22:25:43 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●「播磨鑑」
 平野庸脩『播磨鑑』宝暦十二年(1762)頃は、屋台の記述はないものの、播磨の様子を知ることができる地誌として祭オタクの間でも知られています。播磨の神社仏閣名所を詳細に書かれているので、地名辞典や市史などにもかなり引用されています。ですが、播磨という広範囲を詳細に書かれているゆえに間違いなども見られ、それもまた、この書物の面白さになっています。この記事では管理人が偶然に見つけた間違いを紹介します。
三木市内のみさか神社と「播磨鑑」記載の三坂大明神
 三木市内には
 御坂神社・・・志染
 三坂神社・・・細川大柿、加佐
 御酒神社・・・細川垂穂、石野
 美坂神社・・・東這田
の六つのみさか神社があります。さらに、伽耶院など寺院内に三坂神社があつものを加えるともう少し数が増えると思われます。
 「播磨鑑」では全てのみさか神社がしるされているわけではありません。一つは御酒大明神で「在上芝原」とありこれは垂穂御酒神社の氏子域の村名なので、垂穂の御酒神社と思われます。そのほかには「三坂大明神」の記事が三つあります。一つは、笠村で加佐の三坂神社と思われます。もう一つが
 「在中石野村 山林境内御除地 石野三ヶ村ノ氏宮也」
とあり、石野の御酒神社であることが分かります。
●残り一つの三坂大明神
 残り一つの三坂大明神の記事は最後の文にこう書いてあります。
「三木郡ノ内ニテハ 一之宮ト称ス 志染荘十ヶ村ノ氏宮也
これだけを見れば志染の御坂神社だと思えてきます。御坂神社氏子内には、吉田東吉田を一つの村と考えるならば、十か村で構成されているといえ、記紀神話の二皇子が隠れ住んだといわれる岩屋がのこるなど、一之宮にはふさわしいと思われます。
 しかし、冒頭にはこう書かれています。
志染庄 在大柿村
 志染?大柿?どっちどいなと言いたくなりますね。
 
 もうすこし読み進めるとこう書かれています。
延喜式二御坂ト有 這田村 中石野村 志染大柿村三所二有之 何レヲ本社 何レヲ摂社トモ不知 然レトモ大柿村ノ社ヲ本社トセンカ
とあるところを見ると、大柿村が細川ではなく志染の村とされてしまっています。つまり、志染と細川大柿が混同されているものと思われます。
 では、ご祭神などはどちらのものが書かれているのでしょうか。
●東社 西社
「播磨鑑」の「志染大柿村」の三坂大明神のご祭神の記述は下のようになっています。
東社 天御中主尊 中筒男命 斎主命 大山祇命 市杵島姫命 日本武尊
 西社 大己貴命 御中主尊 中筒男命
東と西の両社にわかれており、中筒男命が共通しており、御中主尊は天御中主尊の誤記と思われ、天御中主尊も共通しています。大山祇(咋)命が東、大己貴命が西に配されるのは日吉大社を連想させます。
 これを現在の社殿で見ると、志染の御坂神社は東西にはわかれていません。
 下の写真の細川大柿の三坂神社は拝殿を見るとわかれていないように見えますが、よく見るとしめ縄を垂らしてあるところが二カ所あります。


拝殿の裏からみると本殿は東西にわかれていました。


 西側面後ろ側から見た本殿です。手前の小さな建物が西宮、奥の大きな建物が東宮です。
西側の拝殿と本殿の間からとりました。

東西二社に分かれているのは細川大柿のほうでした。
「播磨鑑」に記述されているご祭神や社殿の様子は細川大柿の三坂神社のものだとおもわれます。しかし、一之宮や志染の記述、十村の記述などは志染御坂神社のことのように思われます。
このように正確に詳細にかかれているように見える「播磨鑑」でも、混同されて書かれていたりするところが他にもあるかもしれません。
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343.オリンピックイヤーのノーモア○○(月刊「祭御宅」2021.5月12号)

2021-05-20 19:52:06 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●「ノーモア」で何を思い浮かべますか?
 きっとノーモアウォー、ノーモアヒロシマナガサキ、ノーモアヒバクシャと思い浮かべるでしょう。
 管理人もそうですし、もちろん、お国(=既得権益者)のためになんとやらなぞの百億倍以上大切な言葉だとも思ってます。
 しかし、これら以外にも「ノーモア」をつけるべきものがあることに、またまたパソコンの写真整理中にみつけました。2010年の写真を見ていきましょう。

●岐阜県の宝蔵寺のノーモア

  意外な「ノーモア」は、岐阜県の宝蔵寺にありました。

 

  左側の女性的な石像は観音様でしょうか。
  その右側に「祈る ノーモア ○○○○○○」とありますが、あえて伏せます。
 

 中にはこのような展示もあったみたいですが、もう記憶にはありません。

 


不動明王もいました。

実は、関ヶ原の寺院です。

書かれていたのは、「ノーモア 関ヶ原合戦」でした。

「ノーモア 関ヶ原の合戦」

 この合戦以来、我が国は国を二分するようなことは起きていません。
 当たり前のようにかんじている、国内を自由に行き来出来る幸せを大切にしたいものです。
 こちらの記事 (goo.ne.jp)や、管理人が撮った上の不動明王の建物である慰霊堂の解説によると昭和39年9月(文章を見ると旧暦の可能性もあります)、東京オリンピックの年に創建されたもののようです。

 9月が新暦ならばオリンピックの直前、旧暦ならば真っ最中の創建と言う可能性もあります。その年、時期にあわせて、日本の復活の象徴としたのかもしれません。
 希望に満ちたかの時に、ノーモアヒロシマ、ノーモアウォーなどとともにノーモア関ヶ原をねがって安置されたお不動さん。オリンピックアゲインを隠れ蓑に、ウォーアゲイン、格差アゲインをももくろむ人たちをかのお不動さんは、どのような目でみているのでしょうか。

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342.子が南に!? 十二支配置の方向は? (月刊「祭御宅」2021.5月11号)

2021-05-20 02:13:47 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●屋台などに好まれる十二支柄

屋台で十二支が好まれるのはこの記事でも触れました。

宮入するときの方角や、屋台前面を南とみなして十二支の方角があうように作られていることが多いようです。管理人も、屋台の新調等で意見を求められた時はそうなるように提案してきました。
今すぐに写真は出てこないのですが、神社でも方角にあわせて配置されているのをみたことがあります。
●加西市九会の稲荷神社





しかし、必ずしもその方角と一致している神社ばかりではないようです。それが、加西市九会にある稲荷神社の本殿です。ちなみに屋台・神社彫刻研究家のSさんのご教示によると、彫刻師は屋台の彫刻も手掛けている人物のもので、彫刻に銘が入っている写真を見せていただきました。また、明治後半につくられたという当時の石碑の存在も教えていただき、管理人も本殿裏でみてきました。
十二支は本殿に向かって左側面から後面、右側面にかけて、一面に四種類ずつ、計十二種類・十二支の動物の彫刻が配置されています。






三面に十二支?
本殿は東側(約30°南側)を向き、正面には十二支は配置されないで、残る三面に十二支が配置されています。
それぞれの配置は下の①のようになっています。ほぼ南側に北側の「子」が配置されています。
②のように子を北側に配置するならば、下のような配置になるはずです。東側になるはずの辰が南に来てしまいます。
③のようにすればおおよその方角はあいますが、子の次の丑は角を曲がらないといけません。
書物通りの配置??
結局、九会の稲荷神社は、左側面から子丑寅卯・・・の順に並んでいました。この並び方では方角は合いません。ではこの並び方は、全く意味のないものでしょうか?
 そんなことはありません。現在の並び方は、まさしく書物通りの配置であるといえます。
 このブログのように現在の日本語は左から右への横書きも使われています。しかし昔は右から左への縦書きのみでした。一行一文字の場合、右から左へ移動する横書きのように見えます。
から福田山

九会の稲荷神社の十二支の彫刻は外側についています。なので見る人は外側から内側を見ます。これを開くと、一行一文字の書物を右から左へ読むように、十二支の彫刻を順番通りに眺めることができるのがわかります。
九会の稲荷神社の本殿は、十二支の彫刻の書物を外向きに巻きつけたものだといえるでしょう。
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341.何の写真? スマホの所在不明写真を調べていく(月刊「祭御宅」2021.5月10号

2021-05-18 19:32:17 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●スマホの写真を整理しないと。。。。
 管理人が学生の頃は、36枚撮りの写るんですが1000円ほどするわ、現像にもお金がかかるわで、とる写真を厳選しなければなりませんでした。なので、比較的記憶にも残りやすく、整理が遅れても、どこの場所かをおもいだすことができました。

 現在はスマホの普及で、写真をパシャパシャ手軽に取れるようになりました。しかし、整理しなければ膨大な量でどこの何の写真かが分からなくなります。スマホにある時は地図と連動しているので何の写真かを調べる手がかりになるのですが、パソコンに保存したものだと地図情報が分かりません。(実は分かるのかもしれませんが、管理人は知りません)。

 こんな時代の中で管理人にもワケワカメな3年ほど前の真が出てきました。それが下の二枚です。


↑奉納された古代米と狛犬が写っています。馬の銅像が右後ろに。


↑こちらは奉納されたゴボウ。右側に破魔矢が写っているのでどこかの神社であることが分かります。

●日付から調べる

 まずは、多くの人がするであろう、日付から調べるという行為をしました。幸いパソコンに移動しても撮影日の情報は残っていて、プロパティで調べると、2018年1月4日でした。

「そういえば、この二枚の写真のすぐ前は神戸市須磨区妙法寺の鬼追いの写真だった。」
こんなことを考えて、早合点、妙法寺の近くの神社に違いないと、「神戸市、須磨区、妙法寺」でグーグルマップで検索しました。出てきたのは八幡神社、五社神社ですが、上の写真に近いものは出てきませんでした。。

・あれ、妙法寺の鬼追いは1月3日

 よくよく見ると妙法寺の鬼追いは1月3日でした。ということは、1月4日に撮ったこの写真は別の物。。。。この記事をかきはじめたときの計画では、妙法寺付近の〇〇神社という結論を期待したのですが違いました。
 ということで写真からもう一度考えてみることに。
 ごぼうと赤米を奉納しています。「ゴボウ、米、正月、奉納、神戸」で調べてみました。しかしよくよく考えると、1月3日は神戸市の妙法寺に行ったのですが、次の日は神戸に行ったのかどうかもわかりません。期待したような答えは出ませんでした。

●奉納者の地名

 ゴボウと古代米を奉納された方の住んでいる地域が書いてありました。「南僧尾」、「中山」ググったら出ると思いますが、これは神戸市北区淡河の地名です。おそらく、淡河八幡神社の氏子だとおもい検索すると、同じ馬の銅像がうつった写真がヒットしました。二枚の写真は淡河八幡神社の正月(2018年1月4日)の様子だということがわかりました。


編集後記の代わりに

-間違いからの思わぬ発見-

 間違えて妙法寺付近のことを調べたけど、期待した答えは出ませんでした。だからしっかり、写真の整理をしましょうよと言いたかったのですが、実は、調べる中で面白いものをみつけてしまいました。近いうちにこれらのことを書いてみたいと思います。

「無駄骨をおることになるから整理しましょう」というのは、半分あっています。

 が、思わぬ発見に出くわすのは、このような間違いからであることが多いのも経験上分かってきました。

コメント
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