月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

308.太鼓をならす意味(月刊「祭」2020.10月5号)

2020-10-24 18:43:00 | 新型コロナと祭、民俗
●コロナ禍中の屋台運行自粛
  コロナ禍で安全のために自粛を余儀なくされる今年の祭。しかしその中でも、飾りつけをして太鼓を鳴らすなどをしている屋台やだんじりがありました。管理人は運行など人が集うことに関しては反対の立場です。特に、飲食を伴う集まりは、危険を伴うことは最近の阪神の福留選手の感染などをみても、否定はできません。
 一方で、感染の危険にハラハラしつつも、他所で地車や屋台を出したり、太鼓をならす鳴らしたりする映像を見ると、じいんと来てしまうのは、祭好きの一人だからでしょう。
 このような中だからこそ、どのようなことを祈って人々は太鼓をならしてきたのかなどを考えてみたいと思います。

●摂津名所図会の文章から
 こちらの記事で述べましたが、寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立の『摂津名所図会』には下のようなことが書かれています。
 神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也

 ここでは、神輿渡御の前にならす理由としていますが、太鼓をならすことで「神をいさめ」、「陰気を消し陽勢をまねく」と考えられていたことがわかります。
 戦後すぐ三木の町はおいうちをかけるように洪水に見舞われます。それでも明石町屋台が参道を練り歩いたのは、陽勢をまねくことを祈ってのことだとも言えるでしょう(参考:コタニマサオ『なんでもかんでも三木』神戸新聞社1989)。
 新型コロナという陰気を、太鼓をならして消しさり、陽勢をまねかれることを願っています。


●迷信とは言えない?
 太鼓の音の力で眠り子ども
 もちろん、太鼓の音を聞けばコロナが治るとは言いません。しかし、あながち太鼓の音は人体にいいように作用するのではないかと思うことがあります。三木の祭関係者は毎年一回は、ドンドンと大音量でなる太鼓を聞きながら欄干に乗っている子どもが眠りかける姿をよく見ると思います。
 人を心地よくさせる何か、勇気づける何かが太鼓にはあることを我々は経験的に知っています。太鼓の音が戦争と洪水でうちひしがれている人を勇気づけたと言われると、我々は容易に想像できます。敗戦と洪水に打ちひしがれた三木の町を勇気づけた時のように、別所長治公を思わせる若人たちが、世界一の明石町の太鼓を再びならす時、陽勢が盛り返すこととなるでしょう。













編集後記
 なんとか、太鼓の音を聞きたい。でも、危ない。今年の感染対策、出したところの様子を映像で見る限りではまだまだ不備があるように思えます。

①ものを口に入れる前の手洗い消毒
②マスクは不織布、上にバフとか鉢巻をまくと医療用程度になるという報告もあり。

そこまでせんでもゆうくらいやってちょうどいいくらいだと思います。
 

307.六社神社屋台に見る屋台新調の新たな方向性(月刊「祭」2020.10月4号)

2020-10-21 17:56:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の工芸、新調、改修、修復-

●コロナ禍の下で行われた屋台お披露目
 賛否両論はあるものの、コロナ禍の下でも、屋台やだんじりを少しだけ動かしたり、飾り付けなどをしたりするところがありました。その動機の一つとなったのが、たまたまこの年に屋台、だんじりの新調・改修したことをうけてのお披露目です。
 管理人は、以前寄付するといってしていなかった六社神社の屋台の衣装新調、本体回収のお披露目に行ってきました。限界集落になっても屋台を残すという強い意志のもと、クラウドファウンディングなどを活用して改修はなされました(関係記事)。
 
●先代の水引幕、高欄掛
高欄掛
絹常製の源平物です。








水引幕
 龍の浮物刺繍です。結構な「値打ちもん」ですが、修復は難しいそうです。




提灯
 絹常製です。


布団締め
 竹に虎です。無地のころの名残が見られ黒地の割合が現在のものに比べて大きいです。




 
屋台全景
 いわゆるセンベイフトンと呼ばれる薄い屋根の屋台です。味わい深い渋みを感じます。

↑六社神社屋台のクラウドファウンディングウェブページより
 
●新調後
高欄掛
 以前の源平物から退治物にかわりました。今回の新調のメインは高欄、水引、布団締め、提灯の刺繍で、三木が誇る城戸刺繍店が刺繍を手掛けています。

↑素戔嗚尊八岐大蛇退治

↑源頼光蜘蛛退治

↑源頼政鵼退治

↑伊勢三郎?鷲退治
 
水引幕
 龍の水引幕は踏襲されました。以前のものは緑、あるいは青系統の色が体にもはいっていましたが、今回は金色です。



↑水引下がわには蓮の花が縫われています。

●布団締め
 虎の布団締めは踏襲されました。現代風にやや虎が大きくなりました。



●伝統を残した屋台
 播州屋台研究家の粕谷氏の著作による啓蒙で、屋台装飾の技術は復活の兆しを見せています。SNSを通したマニアの交流で、善し悪しの評判があっという間に広まる現状から、今回の城戸刺繍店のように刺繍などの技術は精巧なものが保たれるようになってきました。
 
 昨今の三段布団屋根屋台の新調、改修の傾向としてもう一つあげられるのが、布団屋根部の巨大化です。比較的容易に大きく見せることができる部分であり、大きな他所の屋台に見劣りしないように、より、厚く大きくしようとする傾向が各地で見られます。また、それに合わせて布団締め部分も太くするのが最近の傾向にもなっています。
 では、今回の六社神社の屋台はどうでしょうか。↓ずっと下に写真があります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 実は屋根はそのままの厚さになっています。精巧な刺繍が経年変化を経ることで、再び味わい深い「センベイフトン」の屋台が見られるようになることでしょう。今回の六社神社屋台の改修は、もしかしたら、今後の屋台新調の新たな方向性を示唆してくれるものになるかもしれません。
編集後記
 今回、六社神社屋台改修については昨年の段階で写真家のY氏の情報提供がありました。また、新調・改修の中心となったI氏には、丁寧に質問におお答えしていただきました。そして、この改修お披露目の情報をくださった、Su氏、Si氏にも感謝申し上げます。
 
 
 
 
 

306.新型コロナ禍中の大宮八幡宮秋季例大祭(月刊「祭」2020.10月3号)

2020-10-12 10:18:00 | 新型コロナと祭、民俗

●消えなかった祭の法灯
 オミコッサンとタイコの運行「は」中止となった、今年の大宮八幡宮秋季例大祭。でも、「神さん事」は例年通り行われました。
 管理人も宮参りで普段は行くことのない、「川向こう」の宮にも行くなど普段とは違う祭となりました。なんらかの形で、祭の法灯は灯り続けた様子を紹介します。

●ダイニッタンと元宮・寺院参拝

 明石町五か町の一つ、大日町在住の管理人は、はじめにダイニッタンこと大日堂に参拝し、その後、同じく明石町五か町の一つ杣宮町にある大宮八幡宮の元宮と伝わる杣八幡社に参拝しました。

 
↑ダイニッタンこと大日堂(明石町五か町の大日町)

↑杣八幡神社(明石町五か町の杣宮町)


↑杣宮町杣八幡神社

 そして、大宮八幡宮と月輪寺が表裏一体なのと同様に杣八幡神社と表裏一体の寺院が羽場月輪寺です。現在は栄町の寺院となっていますが、栄町も分離するまでは元々は明石町の一部だったそうてます。


↑羽場月輪寺の文字

↑羽場月輪寺の薬師堂




●神事
 元々2日ある祭礼日(10月10[土]、11[日])のうちの1日目で神事が行われました。各町の宮総代が礼服で参加されていたそうです。管理人が大宮八幡宮に着いた十一時頃には、すでに神事は終わっていました。
 石段を登ると各町の幟が上がっていました。屋台運行は中止になったけど宮参りされている方と何人かと出会いました。








●テレビ撮影
 テレビクルーが来ていたので、ニュースにでもなるのかと思いきや。。 いつもの後ろに髪を結んだいつもの白髪男性スタッフさんと、タレントの下町出身の武田訓佳さんでした。ということは??
 聞くところによると、今年も三木大宮八幡宮秋祭りのテレビ番組が、11月1日に放映されるとのことです。新調前の懐かしい姿も見れるようにしたいと、スタッフさんは語っておりました。テレビ放映が楽しみです。
 


●献血
 例年ならば宮の下は混雑で献血車が止まるスペースはありませんが、今年は献血祭でした。管理人は先輩に800mlの献血を勧められました😅が、通常の400mlでお願いしました。
 なんと献血には宮司さんと禰宜さんも参加されました。しかも、宮司さんの素敵なはからいで、バッチとスタンプももらえました。




高木、大村
 大村の禰御門神社でも神事が行われました。平田の大歳神社では確認できていません。


 高木の屋台蔵にも提灯がかけられていました。



●やっぱり法被は着たい
 たとえ屋台がでなくとも法被は着たい。そんな思いを実践した人たちもいました。
 まずは新町の高校生。「よやしょーい」といいながら、宮入していました^_^



 そして、明石町キッズとその、お母さんが屋台蔵の前で記念写真を撮るところにもばったりとあいました。「先生(もうちがうんですが)も入りーとのことで、倉の前でワンピースの方式で右手拳をあげての撮影をしました。
 写真はまだいただいていないのと、少し画像が大きくなり特定されてしまうのであげません。


編集後記
具体策の必要性
 やはり、残念だった屋台運行の中止。危険なので中止は正しかったと頭ではわかっても割り切れるものではありません。
 とはいえ、雰囲気だけで従来通りにするのもやはり危険です。運行時もさることながら、そのあとの飲食の場での感染リスクをどのようにして減らすかを突き詰めて考えることが、大切です。

消えなかった祭の法灯
 屋台を出すことはできませんでしたが、祭は行われました。必ずまた、復活させるという強い思いも感じることになった祭でした。神仏習合時代の言葉を使うと、祭の法灯は消えなかったということが言えるでしょう。

 

305.小中高生、祭一日目の思い出(月刊「祭」10月2号)

2020-10-09 23:32:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
本当なら(ToT)祭の前日、そして一日目
 今日(2020.10.09)は本当なら、祭の前日でした。一年で一番明日が待ち遠しい日です。今年は残念ながら屋台の運行はなし。寂しい限りですが、思い出されるのは、今までの祭一日目のことです。そのエピソードを今回は紹介します(書き終わり2020.10.10)。
 
●管理人保育園の頃
昭和五十七年(1982)
 兵庫県三木市大宮八幡宮氏子圏内の明石町屋台五か町の一つ、大日町在住の管理人が通っていた羽場保育園。ここは元々明石町だったけど昭和二十九年に栄町となったところ。
 通っている子どもも栄町の子が多く、明石町の管理人は少し肩身が狭かったです。祭当日、なんと台車運行中の栄町屋台が保育園の門前まで来ました。しかも欄干には同じさくらんぼ組のK君が乗っています。K君は一躍ヒーロー、保育園の子どもたちの歓声に見送られ、堂々と去りゆく栄町屋台とK君。悔しいけどかっこいいと思ってしまいました。
 



↑「羽場保育園」の名前の元になった羽場月輪寺
 
た。
 
 
↑栄町屋台(1990年頃)
 
●小学生の頃
昭和五十九年-平成二年(1984-1990)
 
昭和六十一年(1986)?
 この年かどうかは定かではありません。
 この当時は祭はまだ、固定日の十月十六、十七の両日に行われていました。大宮八幡氏子域の子どもが最も多く通う三樹小学校は、十六日は2時間、十七日は1時間授業でした*(3時間、2時間かも知れません。ナメラ小僧氏、管理人[hol_my_ow]の本記事コメント欄参照)。
 そして、迎えたその年の十六日。なんと晴れた空の下、大雨警報が発令。発令したまま十時を過ぎると休校が決定。1分ごとに天気予報ダイヤルを回して、警報発令中を確認。そして、晴れて?、警報発令のまま10時をすぎました。歓声とともに法被を着て、明石町屋台のもとへ走りました😃
 
昭和六十二年(1987)
 管理人小学四年生の頃。祭の日は十六日2時間、十七日1時間の授業。そして、この二日間は宿題なし。しかし、その前日はしっかりあるのですが、、、後に某祭ブログのボンクラ管理人になるボンクラ小学四年生は、浮かれに浮かれて宿題も手につかず、見事に漢字ドリルの書取りをしないまま登校。出すもんしっかり出してから帰れという、教師としては至極真っ当、当時のボンクラ小学四年生から見れば鬼の借金取りのように見えた担任のO先生に、居残り宿題を命じられ半ベソかいて帰りました。
 
平成元年(1989)
 小学五年生、六年生の男子はおみこっさん(御神輿)を担ぐ年です。おみこっさんを担ぐ=屋台の近くに行くことができなくなります。しかもその年は四年に一回の「平田まわり」。
 「オミコッサンドイ、ヨーサンドイ(正確には(オミコッサンジョイ、チョーサンジョイ?)」の掛け声にも飽きてきます。そうなると「オミコッサンドイ、オッサンナンドイ」の掛け声があちこちであがります。
 それでも飽きてきて、いつの間にかリズミカルに「おっとこ、おっとこ」と無駄に男らしさをアピールする掛け声になっていました。
 神事が終わり法被に着替え、屋台のそばに寄れたのは宮出からでした。
 
 
●中高生の頃
平成二年(1990)-平成八年(1996)
 

↑管理人姉撮影か 1992年頃
 
平成四年(1992)
 おそらくこれも一日目のことだったと思います。中学生は今も明石町屋台を担ぐことはできません。当時から三木中学校でも祭で屋台を担がないようにとの指導がなされていました。
 この指導に従わないのは、専ら「ヤンキー」と呼ばれる類に入る生徒たちでした。担いでいる時の怪我もさることながら、その後の飲酒喫煙→けんかなどへの流れを心配してのことだと思われます。
 そして、他にも指導に従わない生徒たちが。比較的「大人しい」部類に入る大宮八幡宮氏子域の生徒、三樹小学校出身の生徒たちです。祭終わった次の日から、あと三百六十四日で祭やーと小学生みたいなことを恥ずかしげもなく言っている明石町の生徒達。。。
 中学三年生のころに、どなたかのはからいで、落としても安全な屋台の中棒中心近くを担がせていただくことに。末広橋近くにさしかかり屋台を落とした時に、「山田、●●、△△....」と、一緒に担ぐ同級生の名前を確認する女性の声が聞こえてきました。
 声の方を見ると、三木中学校の三年生の先生方。「あちゃー、バレた」と思ったのですが、先生方は何も言わずに去って行きました。後で特に咎められることもなく、無罪放免。いや、無罪放免というよりも、「この人たちは馬鹿だから仕方ない」と諦められたという方が正確かもしれません。。。
 
 
平成六年(1993)
 高校生になると晴れて屋台を担げるようになります。とはいうものの、初心者、同級生たちとらともに、屋台の本体近くを担いでいました。宮出で石段を降り、町に出て、再び石段下の屋台倉に戻るために、屋台は参道入り口の鳥居にさしかかります。鳥居をくぐるために肩から屋台を下ろし両手で胸に棒を寄せて低く担ぐ「手舁き」で屋台を担ぎます。そして鳥居をくぐり終わるや否や、昂った後の某祭ブログボンクラ管理人は、誰よりも先に「肩入れろー」と叫びました。
 バンッ。
 「誰が肩入れるんどい、(危ないやろっ)まだ手舁きやがいっ」
 すぐ側で、「棒乗り」をしていた青年団長にハタキ・打ち払いのビニール紐部分で頭をはたかれ、めちゃくちゃ怒られました😭
 鳥居をくぐったすぐは、両端に玉垣があり一気に肩に入れることで屋台を揺らすには危険をともないます。また、かつぎ棒が完全に鳥居をくぐりきらなければ、かつぎ手が鳥居に挟まれる危険もあります。
 次の日、頭をはたいた団長さんは、千円札をくれ、
「昨日はすまんかったな。来年から青年入るんやろ、これでなんか食い」
とおごってくれました。
 
平成七年(1995)
 高校三年生、部活も終わった後のボンクラ祭ブログ管理人は4人の同級生ともに、明石町青年団に入団。野球部で腕の力が強かったこともあり、技術はなくとも音が大きくなった彼は、運良く一日目の宮入の太鼓打ち4人のうちの1人になります(決して謙遜ではなく、後に同級生や後輩達にごぼう抜きされるので客観的な事実)。
 倉の中の練習ではあれだけ大きく聴こえた太鼓が、外ではポンポンポンペポンくらいにしか鳴りません。後の某祭ブログボンクラ管理人がポンポンポンペポンと打つ中、先輩が「◯◯サイタやー」と青年団二年先輩の◯◯君に差し上げの太鼓を打つように指令。某ボンクラ管理人は、慌てて太鼓を止めました。が、◯◯君もまだ太鼓を打つ準備はできていませんでした。一定のリズムで鳴っていた太鼓は壊れた機械のように突然止まりました。
 その途端、ドターン。屋台は見事に落ちました。担ぎ手は太鼓の音は聞いているようで聞いていない。聞いていないようで聞いている。その際たるものを実感させられました。この出来事から、青年団はじめの年に、屋台の宮入に太鼓を打たせることは一気に少なくなっていったように思います。
 
編集後記
 祭のない今年、一日目の思い出を本当は今までのものを全て書く予定でしたが、思いの外、よく考えりゃ当たり前ですが長くなったので、とりあえず高校生までのものを書いてみました。
 来年こそは祭ができることを祈って、今から宮参りに行ってきます。(令和二年十月十日、大宮八幡宮秋季例大祭の朝)
 
 
 
 
 
 
 
 

304.新型コロナ流行下の屋台・だんじり運行の感染防止策(月刊「祭」2020.10月1号)

2020-10-04 23:58:00 | 新型コロナと祭、民俗
●屋台・だんじりを動かす決断
 いくつかの地域で屋台・だんじりを動かす決断をくだすところが出てきています。この中で集団感染を起こすと、日々差別的言動に勤しむ輩の祭ヘイト(参考①参考②)にあうこと、そして、多くの年配者が命の危険にさらされることが危惧されます。インフルエンザは余命間もない高齢者にトドメをさせる、新型コロナは元気な高齢者をしに追いやる点では、やはり大きな違いがあると言わざるをえないようです。
 そこで、管理人考案の感染防止方法をイラスト付きで紹介します。個人装備と組織で気をつけることに分けて書いていきます。
 
●個人装備
 個人装備の留意点では飛沫感染と、人→人や人→物→人の接触感染の防止策に分けて提示します。

①飛沫感染防止策
マスクの上にバフ



 管理人はマスクは「うつらないため」ではなく「うつさないため」という認識でした。しかし、メンタリストのDaigoさんはYouTubeでノースイースタン大学の論文から導き出した方法を提示しています。
 論文の著者によれば、マスクの上にストッキングをかぶせると50%ほどウイルスの遮蔽率(防ぐ率)があがり、医療用並のものになることもあるそうです。
 さすがにストッキングだとかっこうわるいのでバフでも同様の効果は期待できるだろうとのことです。残念ながらプレプリントの段階で、この論文は止まっていますが、理屈は合っているとのことです。
 法被、鉢巻の色に合わせたバフだとそんなに変な感じにはならないと思います。
 一方で熱中症などの危険はこれで高まるで、早めの休憩、交代を念頭に入れた運行が必要になりそうです。

②接触感染防止策
 消毒薬の各自携帯
 ホンマでっかの武田先生は、「コロナ恐るるに足らず論」の代表的な人と言えます。その武田先生が医療従事者の話を聞いて「これさえすれば」と提案しているのが、人→物→人の感染防止策です。
 武田先生は簡単そうに言っていますが、実行するとなると非常に面倒です。いろんな人の飛沫が飛びかい、それをそのまま口にする恐れのある酒の席などではやはり必要となってきます。
 
 基本は物を口にする前に、口をつける物と手指の消毒です。 
 またかつぎ棒は、自分の頬が棒につくので、担ぐ直前に頬に消毒薬を塗ってのぞむと無難です。馬鹿げたことかもしれませんが、それでもうつるよりマシです。


*自己責任で 自作次亜塩素酸水
間違いはないと思いますが、保証できません。管理人は使っていて今のところ問題ありません。

ピューラックスペットボトルの蓋に一杯(約10ml)を、炭酸水500m lに入れる。
[解説]
ピューラックス(次亜塩素酸ナトリウム・塩素濃度6%)を500m l炭酸水に混ぜる。
 ↓
次亜塩素酸ナトリウムが次亜塩素酸水に変化。濃度1200ppm。
 ↓
24倍の水でうすめる。
手指消毒に適した50ppmくらいになる。

しかし、次亜塩素酸水の塩素濃度はあっという間にさがります。下の映像によれば、ペットボトルにアルミ巻きするなどすれば濃度は保たれる時間は長持ちするとのことです。




●組織の留意点
①飲食の席
飲み物は缶よりペットボトル。
 コップでの回し飲みは非常に危険です。
 缶はお勧めしませんが、ビールなどの場合は飲む前に消毒がひつようです。

食べ物は個人で盛り付けたらラップでレンジに
 レンジで殺菌してから食べる方が無難です。

②結局心掛け
 精神論、根性ではどうにもなりません。「いざ自分の親がかかったりするとどうなるか?」
この想像力を常に持って運行する必要があるのが現実です。












 



303.滋賀県大津市、大津祭の担ぎやたいと地車!?(月刊「祭」2020.9月5号)

2020-10-01 20:11:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●大津が世界に誇る曳山の祭の祭
 大津祭は豪華絢爛な曳山が出る祭として知られています。祇園祭山鉾の流れをくみつつも、三輪の車輪、締め太鼓だけでなく鋲太鼓も加わり軽快で迫力あるお囃子、山の上で行われる各山のからくりなど、大津祭独特の特徴を相備えています。
 しかし、大津祭もまた、はじめから豪華絢爛な曳山そろっていたわけではなく、祭の黎明期にはなんと地車」「やたい」があったとのことです。今回は大津祭の「地車」「やたい」について考えていきます。
 

↑大津市曳山展示館の西王母山のレプリカ
 
 

↑九十年代後半か、2000年代初頭のパンフレット
 
 
 
●大津祭はじめの曳山は地車?もともとは担ぎ屋台?? -西行桜狸山の変遷-
 
た。
 
 大津祭の曳山の中で先頭を行くのが、西行桜狸山です。この曳山が大津祭の曳山の中で一番古いと伝わっており、それを伝える最も古い文献が寛永十二年(1635)「牽山由来覚書」(大津市指定文化財、西行桜狸山保存会蔵)です。
 おおよその内容を編集発行・大津市歴史博物館『企画展 町人文化の華-大津祭』1996に書かれた書き下し文をもとに斜体字であげ、その下に興味深い点を指摘していきます。
 
①四宮(大津祭が行われる天孫神社の古称)の祭礼でしほ売治兵衛が狸の面を被り踊ると、見物人が集まり出した。
 はじめは祭に踊りを踊ったのがきっかけのようです。
 
②次の年も集まったのでさらに次の年は「竹からミの家躰(やたい)拵(こしら)へ、氏子の町かき歩申」ことになった。
「屋躰に木綿の幕をはり、鐘太鼓にてはやし」、治兵衛は、十年「狸の面を着て采をふり踊り氏子中担歩行」った。
 好評につき家躰(やたい)をつくり、踊り手をのせて担歩く、つまり曳き車でなくはじめは担ぐものだったようです。幕で飾ったりもしていますが、必ずしも太鼓台のようなものではなく、鐘もあったことがうかがえます。また鐘太鼓ではやしているけど、乗って演奏していたのかまでは分かりません。
 
③治兵衛は年を取り踊ることができなくなるも、代わりを務めることができるものがいなくて、元和八年(1622)より、狸をつくり糸で腹鼓を打つからくりをつくって「舁き」歩いた
 高齢により踊れなくなったのでカラクリに変わりますが、依然舁いていました。
 
④「今年(寛永十二年・1635)ゟ(より)地車を付子供衆ニ引せ」るようになって祭を賑わせるようになった。
 やがて、「地車」をつけたとありますが、「だんじり」と読むよりも地面を転がる車として理解し、「ちしゃ、ぢぐるま、ちくるま、ぢしゃ」などと読むといいでしょう。では、この地車はどのようなものだったのでしょうか。
 
大津祭の地車は現在の原型?
 さて、先ほどの「地車」が現在の大津祭の曳山の直の原型と言いたくなる基準でしたが、どうやらその可能性はひくそうです。江戸時代よりの記録が記された『四宮祭礼牽山永代伝記』にはこう書かれています(前掲書『企画展 町人文化の華-大津祭-』参照)。
 
寛永十二乙亥年(1635)ゟ(より)地車を付子供等に牽せ氏子町々を渡し来り候処、同(寛永)十五年戊寅年(1638) ゟ(より)三ツ車を付けて、丸太材木をかり、祇園会鉾形ちの山を建、梶取手木遣を雇ひ毎年神事に牽渡
 これを見ると地車をつけて子供(地元の青年団のようなものか)らに曳かせていたものから、三ッ車をつけた祇園会鉾形のものを木遣や梶取手を雇って祭にさんかするようになったことがわかります。
 
大津祭の「やたい」は踊り手を運ぶ移動式舞台、「地車」は踊り手やからくり人形を運ぶ車輪曳行式舞台を意味していることが分かります。ここまでは、おそらけ地元で曳行までできていたと思われます。
 その二年後、三ッ車をつけた「祇園会鉾形の山」を梶取手、木遣を雇った時に地元完結の祭から京都祇園会のような雇われ人も発生する曳山の祭が生まれたと言えそうです。