月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

56.神戸都心部の祭文化私観(月刊「祭」2016.7月)

2016-05-08 22:39:15 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

ここでは神戸市の兵庫区から東灘区のだんじり、太鼓台、神輿文化を少し見て気づいたことを紹介します。なお参考にした祭は、東灘区本住吉神社例大祭(本)、灘の地車祭(灘)、中央区生田神社例大祭(生)、兵庫区和田神社例大祭(和)となります。上記(一文字)を本号でそれぞれの祭礼を表す略称とします。

◯だんじり

外ゴマだんじりと下にもぐる太鼓と鐘、鉦

だんじりの多くが、外ゴマのだんじりになっています。外側に車輪がつくことで、太鼓と打ち手は欄干下部に収めることができます。 楽器は太鼓、鐘、鉦の三点セットが多いようです。

(本)


(和)

逆に言えば、岸和田などにおいて、やり回しの必要性から、車輪を内側につける→太鼓を欄干を貫く形で設置し、欄干にすわって打つという風に変化したとも言えるのかもしれません。

ハタキを持つ屋根上の人
屋根の上にかなり多くの人が上に登り、ハタキを持って踊ります。

(本)
(灘)
欄干と柱
もともとは、欄干より下の泥台と欄干より上の柱は一続きになっていないものが多かったそうです。が、わかりやすい写真をとれなかった^^;




◯衣装
最近は法被とパッチのすがたが増えていますが、浴衣や浴衣風法被を好んで使っていたみたいです。
(本)
(灘) (和)

生田神社はこの映像を参照


◯太鼓台
灘区の新在家では今はだんじりが使われていましたが、江戸時代は太鼓台が使われていたそうです。
この太鼓台は、現在は西宮市大市八幡神社の倉で保存されています。

 

生田神社でも神輿を太鼓が先導します。

(生)トラックの上に太鼓がのっています。お先太鼓??



◯かけ声
 「おして」に似た掛け声は、兵庫区、灘区、東灘区で使われています。 差し上げる時のシャントセイは本住吉神社、灘のだんじりまつり(オシタシャントセイ)、生田神社で確認しました。前回ブログで報告したとおり、和田神社でもオシタ系の掛け声は使われていますが、シャントセイは30分ほどの滞在では確認できませんでした。

謝辞 本年も本住吉神社茶屋だんじり関係者の皆様には多大なご厚意を賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。

◯編集後記
 コミュハラという言葉があるそうです。
 「なんかしゃべれよ」など、そこでコミュニケイションをとることを強制するハラスメントだとか。そのようなハラスメントの氾濫にダウンタウンの松本人志氏がハラスメントハラスメントやと警鐘をならしたそうです。が、松本人志氏は巧みなコミュニケイションハラスメント的笑いでのし上がった人物(お笑い芸人としては大好き、文化人としては最低だと管理人は感じています。)ともいえます。なので、コミュハラ=忌むべきものという観念の浸透は、彼の既得権益を犯しかねないと感じたのかもしれません。
 しかし、バラエティ番組的コミュニケイションの強制は、コミュニケイション弱者にとっては、非常につらいものです。そして、コミュニケイション弱者の中二は優れた職人肌の人が多く埋もれているようにも思います。バラエティ番組的コミュニケイションの氾濫は、そのような優れた職人の芽を摘んでいるのかもしれません。


55.神戸市和田神社の名だんじり(月刊「祭」2016.6月)

2016-05-02 17:13:41 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
神戸市の兵庫区、和田神社にそのだんじりはあります。今回はそこの名だんじりをレポートします。


5月2日、3日が祭の日で、1日は大だんじりのみ、3日は大小のだんじりがうごくそうです。最寄り駅は神戸市営地下鉄海岸線の和田岬駅。神戸まつりのポスターはあるのに和田神社の祭のポスターは駅にありませんでした。。。
祭を知らない人にとっては、どちらかま大切な祭なのかを理解するのは難しいのでしょうか。


こちらは小だんじり。江戸末期のものだとか。

虎退治の虎は、顔が取れた後なのかもしれません。


だんじりがやってきました。
外ゴマで、大工方はハタキを持って踊ります。が、片足をあげる所作はかなり危険。動画もどうぞ



精巧な彫刻。某ウェブサイトによると、大阪から購入しただんじりだとか。
年代を割り出すことは管理人にはできません。が、大ぶりな彫刻は寺社彫刻をそのまま転化したようにも思えます。なので、結構古いとだけは言えそうです。
結構古いて何年前やねんという質問は禁止します。





◯編集後記
実は「まつり」という雑誌があるそうです。おそらく年刊できちっとした論文も掲載されているとか。ただ、ウェブサイトを見る限りでは今の活動は見えてきません。
「国文学解釈と鑑賞」も休刊になりました。
「実学」でない分野の切り捨て。それは、一見合理的に見えます。ですが、物を考えることを拒む先にあるのは西北隣の国の二の舞かもしれません。