月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

灘型だんじり・外ゴマの謎と命をかけただんじり運行<月刊「祭」42号 2015.5月>

2015-04-07 21:26:27 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

今回は神戸市の灘型地車についてです。神戸市と言えば、オサレな町というイメージが田舎者の管理人には未だに拭えません。しかし、管理人のイメージだけを神戸の代名詞とするのは、あまりに浅はかでした。神戸には多様で深い、そして熱い祭文化が継承されていました。
今回はそんな祭文化の一つである、灘区や東灘区のだんじり文化の一端を紹介します。

⚫︎綱なしのだんじり
  まず、地車には岸和田だんじりのように、長い綱はつけません(子ども用に午後のある時間、取り付けましたが、原則つけないという意味です。)はつけません。ボウバナと呼ばれる押し棒と、先頭にかんしては、棒に取り付けられた綱を引いてだんじりを動かします。90度の方向転換は前輪をあげて回転させて曲がります。


 となると、だんじりと前方担当者の距離は極めて近いものになり、ひとたび転ぶことがあると命を落としかねません。そのために、こけることがあっても、棒に両手を上下から挟み込み絶対に離さないようにとの指導が徹底されていました。
  

方向転換のシステムは下の通りで、大工方が指示をだす岸和田型だんじりとは違い、指示系統は祇園祭の山鉾に類似していました。



 だんじりは、常に車輪での移動とはいえ、担ぎ屋台・太鼓台に台車を付けたものよりもずっと重いもので、想像以上に「ただ動かす」ことが大変なものでした。上り坂は想像に難くないものの、下り坂は逆に、転げ落ちないように常に背中で棒をおしながらブレーキをかけなければならないので、休まる暇もありませんでした。
 そして、一番の見せ場である宮入りでは、だんじり前方を担ぎ上げた状態でそのまま回らねばなりません。後方は体重をかけて上に乗るのですが、地面に付ききってしまうとブレーキになり回ることができません。前方はできるかぎり上にあげなければならず、腕を伸ばし続けたり、担ぎ続けたりするのは非常にきついものでした。

 


⚫︎外ゴマと鳴り物 
  2014年6月号でも述べたとおり、灘型のだんじりは外がわに車輪が付いています。このような外ゴマ文化がもたらした影響、外ゴマ文化になった理由について考えてみましょう。


多くのだんじりが、もともとは舞台上でなんらかの芸を見せていたものと考えられています。上に舞台があると、太鼓や鐘の演奏者は下に潜らねばなりません。そうなった時に内側に車輪があると、演奏者のすぐ横を車輪が高速で回転することになります。そのような危険を考えると、外ゴマは合理的な仕組みであると言えるでしょう。




 また、外ゴマの場合、やりまわしのような急激な方向転換に向いているとは言えません。なので、やりまわしを伴わない、神戸の東灘独特のだんじり文化がここからうまれることになります。







 そして、鳴り物にも特徴があり、太鼓と鉦ではなく、鐘(除夜の鐘のミニ版のようなもの)を吊るしているところが多いようです。しかし、江戸時代・享保時代の鉦が吉田区で使われていたらしく、灘型のだんじりの金属の鳴り物は元々鉦だったのか、鐘だったのかは管理人にはわかりません。



編集後記
 
管理人が幼い時、神戸には祭りがないものと思っていました。管理人が若い時、神戸のまつりは、神戸まつりと思っていました。つまり、神戸にあるのは文化祭だけで、我々が行っているような熱い祭りはないものと思っていたのでした。今年、参加させていただいて、あまりに愚かな勘違いだったということを思い知らされました。
 3月29日の震災20年だんじり運行と、5月5日の祭2日目だけの参加でしたが、泉州や大坂にも属さない独自のだんじり文化が熱いこだわりをもって育まれていることを目の当たりにしました。このような機会を下さった本住吉神社茶屋区だんじり関係者の皆様方に厚く御礼申し上げます。


三月祭りとしての北条節句祭りと法道仙人<月刊「祭」第41号 2015.4月>

2015-04-04 21:29:06 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

もうすぐ北条節句祭りになりますね。今年は行けるかどうか微妙ですが、自分にとっては最も思い入れの強い祭りの一つとなっています。
北条節句祭りは現在は4月に行われますが、春の節句の祭りなので、名前の通り旧暦の三月にある祭りです。
なので、この地域ではおひな様も祭に合わせて出されます。


北条節句祭りの屋台宮入

⚫︎東西を意識した祭りとしての北条節句祭り
 ところで、北条節句祭が行われるこの神社の祭神である住吉神は「峰相記」によると、加西市の北部にある鎌倉峰に酒見神、佐保神とともに降り、住吉神と酒見神は現在の加西市北条の住吉神社に、佐保神は加古川を渡り加東市の佐保神社の地に鎮座したとあります。この二神が降ったとされる鎌倉峰は、法道伝説の残るところです。ざっくりその伝説を言うと、この山で法道仙人は修行して、麓に普光寺を開基したということです。

こちらは、法道仙人がいたとされる加西市の古法華山(笠松山)
鎌倉峰の写真が何処にあるはずなのですが・・・・


 この法道仙人や佐保神社を意識した迎え講という儀礼が、小野市の浄土寺で行われたと管理人は結論づけたことがあります。それもまた、三月に行われることが多かったようです。詳しくは拙稿*で確認していただきたいのですが、浄土寺 では東の薬師堂と西の浄土堂を菩薩面をかぶった人が行き来するその儀式は迎え講と呼ばれていました。


浄土寺の東側に位置する薬師堂


薬師堂の真向かい西側に位置する浄土寺浄土堂(本尊阿弥陀如来)


奈良県葛城市当麻寺の迎講、このような儀式が浄土寺でも行われていました。


浄土寺浄土堂背面の日の入り。2009年4月9日、旧暦三月十五日(迎講の日)
迎講の日、堂の背面にちょうど日が沈むことを見越して、浄土寺は作られた??


 龍王舞、鶏合わせ、神輿渡御など、北条節句祭りでは、西郷と東郷に分かれて、東西を意識した祭りが行われているということは、読者の皆さまの多くがご存知のことと思います。それもまた、浄土寺のように西と東を意識したまつりだからなのかも知れません。
節句祭の行われる住吉神社のすぐ横に酒見寺があります。住吉神とともに鎌倉峰にくだった酒見神の名を冠するこの寺は、神仏分離前は住吉神社と一体だったことが伺えます。この寺の伽藍配置もまた、浄土寺同様に西側に浄土堂、東側に三重塔が配置されており、東西を意識したものになっております。


龍王舞(本サイト該当ページへ)



酒見寺の東側の多宝塔


多宝塔の向かい西側の引聲堂(本尊阿弥陀如来)
 浄土寺との関係は、私の推論にすぎません。が、北条節句祭りが東西を意識した祭りであり、住吉神社と一体だった酒見寺でも東西を意識した伽藍配置で、神社の創建伝承自体も東西を意識しているので、祭全体が東西を意識した祭りになったとは言えそうです。

*「東大寺播磨別所・浄土寺伽藍配置考―重源の迎講との関連―」 『京都民俗 27号 2009.3』 ⚫︎編集後記 今年は都合により見に行けない節句祭り。桜と黒屋根に金の梵天。祇園囃子練りからの一気に差し上げ。絹常博物館ともいえる様相を呈している伝統の保持と、思わず笑ってしまう伊達花。 この祭りを一言で表すと、ギャップによる粋とでもいえるでしょうか。 そして、その粋は屋台同士の相互敬意により保たれているように思えます。