月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

2人のマリア・聖書と三位一体説から見るキリストの子ども<月刊「祭」第33号 2014.10月>

2014-08-22 20:24:03 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

 今回は、月刊「祭」史上初、西洋に目を向けてみます。
 祭前につき、早めの10月号刊行です。
 キリスト教に目をむけてみました。  

兵庫県加西市大日寺 地蔵の裏に刻まれた十字架
隠れキリシタンの信仰をうかがえる。 



ダヴィンチコードでの説(ネタばれ注意!!)
 十年近く前になりますが、ダヴィンチコードという映画や小説が日本でも話題になりました。
  おおよその内容は、
 p イエスキリストは、実はマグダラのマリアと結婚し子どもをさずかっていた。
 q そのことを、ダビンチの作品が語っている
 r その子孫を守る集団が今でも残っており・・・・・!? 
といったところでしょうか。
 もちろん、それに対する批判もかなり出ているようです。
 

 ですが、この記事では、本当にイエスキリストが子どもを残したのかどうかについて明らかにするつもりは、一切ありません。
 しかし、聖書には、キリストが子どもを生んだと信じている人の意見を反映している部分がある・・・・かも(あるいは、イエスキリストが子どもを残したという伝説の発端)!? という指摘。つまり上のpについて考えていきたいと思います。 

 ちなみに、ラテン語、ヘブライ語、ギリシア語等は一切読めない書けない聞けない、英検2級、ヨーロッパ、イスラエルへの渡航経験なしの管理人による指摘なので、話半分で読み進めていただくようお願いします。
 つまり、
信じるか信じないかは、あなた次第です(「やりす× コージー 都市○説 関△夫」)
 の精神で読んでくださるようお願いします。


●三位一体説の成立と新約聖書
 にわか歴史ブロガーの強い見方ウィキペディアによると、4世紀の二カイア公会議で三位一体説が、キリスト教の公式教義であるとローマ帝国でなされたようです。ちなみに三位一体説とは、精霊、神、イエスが実は一体のものであるという考え方といえばいいでしょうか。
 一方、新約聖書は、これもまたウィキペディアによると、3世紀にはおおよその形態ができていたようです。現在の聖書が形作られるのは、各種書簡の選定作業ですが、その作業をしたのが、マルキオンという人だそうです。そして、そのマルキオンもまた、イエスキリストを神だと考えていたようです。
 

●二つの立場から見た「マリア」
 さて、私の知る限りでは、聖書には二人のマリアが登場します。
 一人が聖母マリア、もう一人がマグダラのマリアです。
 聖母マリアは天の神の子・イエスキリストを処女のまま身ごもります。いわゆる処女懐胎説話です。
 マグダラのマリアは、聖書の中ではイエスキリストの弟子の一人ですが、イエスキリストが子どもを残したという伝説の母親ともされています。
 さて、前述の神とイエスキリストは一心同体という考えが気になります。神とイエスキリストが一心同体となると、その配偶者とされる二人のマリアも一心同体とみなす考え方はそんなに無理はないといえそうです。
 父なる神との配偶者。後にイエスキリストの配偶者ではないかという話もでてくるマグダラの女性。二人の女性の名前が一致する伝説を選定したか、書き換えをしたかどちらかということは言えそうです。 


●伝説から聖書? 聖書から出た噂?●
 聖母マリアと マグダラのマリアと、神の配偶者とイエスキリストの配偶者とされる人の名前が同じ背景について考えてみました。1-a「伝説(もしくは史実)から聖書(イエスキリストの子懐妊の代替として)」、1-b「伝説(もしくは史実)から聖書(イエスキリストを神に昇華するため)」、2の「聖書から出た噂」のどれかということが言えそうな気がします。

1-a イエスキリストは本当に子どもを残した、あるいは子どもを残したという伝説がありその説を主張する人の声を無視できなかった。よって、イエスキリストとマグダラのマリアとの婚約・懐妊を、三位一体説では同体となる神と聖母マリアの処女懐胎説話とイエスキリストの死後の復活譚で代用した。
 
キリストの処刑後に復活したことを祝う復活祭に用いられる卵・イースタンエッグ 
(国立民族学博物館の展示) 


1-b イエスキリストは本当に子どもを残した、あるいは子どもを残したという伝説があり、そのイエスキリストを神と同体とするために配偶者とされていたマグダラのマリアと同じ名前を聖母にも冠した。その後、キリストの子をマグダラのマリアが生んだという出来事を、イエスキリストの死後の再生と、神と聖母マリアの処女堕胎で表現した。

2 聖母マリアとマグダラのマリアの名前が同じなのは、たまたまの一致か、別の理由によるものである。その後三位一体説が正式教義となったので、神の配偶者である聖母マリアと同じ名前のマグダラのマリアをイエスキリストの配偶者であり、子どもを宿したとする説が生まれた。  

 私個人の印象としては、1bの「伝説から聖書(イエスキリストを神に昇華するため)」というのが妥当な気がします。
 
というのは、聖書を選定したマルキオン自身の思想的立場からです。というのは、イエスキリストと神を同体と考えていたので、それを裏付ける伝説を選定したのではないかと考えられるからです。
 そのさい、下のABいずれかの作業を行い(個人的にはAだと思います)、それぞれの配偶者を同じ名前にすることで、イエスキリストと神の同体化をより強めたと思われます。

Aイエスキリストを人間と主張する者たちの中で、イエスキリストの配偶者とされていたマリアなる女性を、イエスの父なる神と処女懐胎する聖母にも冠した。
Bイエスキリストの父なる神と処女懐胎した聖母マリアと同じ名前を、イエスの配偶者と後に伝説として残るマグダラの女性にもつけた。

 以上、1-a,1-b,2がイエスキリストの子どもに関して聖書と三位一体説から考えられそうなことです。そして、ABが、1-bが成り立つとした場合に考えられる聖書の編集もしくは、選定作業です。

2014年8月23日現在、月刊「祭」編集部オシの見解☆

 ですが、編集部としては下の2点オシです。
 
1-b イエスキリストは本当に子どもを残した、あるいは子どもを残したという伝説があり、そのイエスキリストを神と同体とするために配偶者とされていたマグダラのマリアと同じ名前を聖母にも冠した。

 Aイエスキリストを人間と主張する者たちの中で、イエスキリストの配偶者とされていたマリアなる女性を、イエスの父なる神と処女懐胎する聖母にも冠した。

 

●編集後記● 
 祭が近づいてきました。 にもかかわらずキリスト教の話ですが(^^;
  写真が少なく一苦労でした。 私自身は、聖書はイエスキリストが子どもを残したと信じる人にも配慮して書かれたものだと考えています。ですが、それを理由に聖書の価値が下がるものだとは決して思っていません。 逆にそのような寛容性や優しさに満ち溢れた書物だと考えています。
今までの人生で、キリスト教の信者の方々にお世話になってきました。自転車で旅をしている時にパンを恵んでくださった方、無料で英会話を教えてくださった方、大学で切磋琢磨した友人たちのおかげでこの記事が出来ました。 アーメン。

  


屋台・だんじりの彫刻・刺繍場面案内-「平家物語」編-<月刊「祭」第32号 2014.9月>

2014-08-13 11:27:16 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

 屋台だんじりの彫刻や刺繍には様々な、古典文学の名場面が描かれています。
 多くは「××××、○○○の場などの場面の名前でよばれていますが、実際にその物語を本で読もうとしても、探すのに苦労見ようとすればがどのような書物に書かれているのか、代表的なものを見ていきます。
 
●今回は「源平物・平家物語」
 
いわゆる源平物と呼ばれる場面の数々です。
 平家物語は同様の物語を三巻にわけたもの、六巻、十二巻に分けた物があるそうですが、今回は、十二巻に分けたものを取り上げます。
 この十二巻にわけた平家物語のうち、どの話は何巻に出ているのかという案内です。

講談社学術文庫
  さて、この案内にそってのおススメ本が講談社学術文庫の「平家物語」です。実際の十二巻分けの平家物語に対応し、全12巻になっています。この本のいいところは、それぞれの章に対応する現代語訳があるところです。
 
 
 

講談社学術文庫の平家物語。これが12巻まで続きます。

その他の平家物語
 ざっと見るかがギリでは、十二巻に分けたものを元にしている物が多いようです。出版された本では、上中下の三巻だてでも、中身は12巻に分かれていたりします。


古本屋で買った昭和24年初版発行(写真は昭和48年新訂第四刷)の「平家物語」
校注:冨倉徳次郎(朝日新聞)


上中下の三巻分けですが、中身は十二巻分けにした中の何巻の部分かというのが書かれています。

●何巻に何の場面?
 
では、何巻に何の場面があるのかを紹介します。ただ、全部は紹介しきれませんので、ご理解のほど。書式は下のような感じで表します。
------ 
×巻
●平家物語の見出し名---図柄の名称
写真
-----


四巻
●鵼---鵼退治

三木市岩壺神社東條町屋台高覧掛け

六巻
小督上、下---小督局琴の曲

三木市大宮八幡宮明石町屋台欄間彫刻


九巻
●一の谷の合戦---勢揃、老馬、一二懸、二度懸、坂落、薩摩守最後、敦盛最後、武蔵守最後
一の谷の合戦をめぐる諸所の場面は、好まれています。

●一の谷の合戦---敦盛最後

小野市久保木町住吉神社久保木屋台高覧掛
平敦盛

●一の谷の合戦---敦盛最後

小野市久保木町住吉神社久保木屋台高覧掛
熊谷直実



●坂落---鵯越の坂落とし
写真見当たりません・・・(どなたかご提供下されば・・・・)
欄間彫刻でよく見られる場面です。
 

●宇治川---宇治川先陣争い

三木市大宮八幡宮新町屋台旧水引幕

写真一番右の畠山重忠は馬を背負っていますが、「平家物語」では下のようにあり、馬は流されてしまっています。

畠山馬の額を箭深に射させ、よわれば、河中より弓杖をついており立ったり。--中略--
「餘りに水が駛(はや)うて馬をば押し流され候ひぬ。」

十一巻
●那須与一扇の的---扇
写真が見当たりません(T T;

●梶原景清錣(しころ)引き---扇

西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台欄間彫刻


●「平家物語」に出てこない場面
 一方源平物の中でも、「平家物語」に出てこない場面もちらほらあります。

鷲尾三郎熊退治

 この場面は平家物語には残っていません。
 九巻「老馬」の条で、丹波路より鵯越までの道案内を義経一行が探している場面でこのような記述があります。
 
 老翁一人具して参りたり。-中略-
 「(老翁は)この山の猟師で候」--中略--
 「(老翁に対して)汝先打ちせよ。」--中略--
 「此の身は年老いて--中略--」
 「さらば汝に子はなきか」
 「候」とて、熊王とて生年十八歳になりける童を奉る。軈(やが)て髻とりあげ(すぐに元服させて)、父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、これをば鷲尾三郎義久と名乗らせて----
  

 と、「熊王」という幼名の童が、義経軍の先達を勤めるためにその場で元服し、鷲尾三郎と名乗ったというストーリーになっています。
 熊王の名前がやがて、熊退治伝説へと転化したと考えられます。

三木市大宮八幡宮明石町屋台旧高覧掛



平清盛日招き?
 有名な場面ですが、書中より該当場面を探せませんでした。もしかしたら、所収されているかもしれません。

三木市岩壺神社東條町屋台水引幕


(碇知盛)平知盛が碇を持って、自ら沈む
 
平家物語では壇ノ浦の戦いに参加していないとか。

三木市美坂神社東這田屋台旧高覧掛
平家蟹が現れている好きな高覧掛の一つです。

義経の各逸話?
 八艘跳びや、五条大橋、安宅の関などの話は探せませんでした。 「義経記」などには記載されているのかもしれません。

まとめ
 必ずしも屋台・太鼓台やだんじりで人気の「源平物」が「平家物語」に即しているわけではないみたいです。
 自分の町の屋台・太鼓台・だんじりの「源平物」、「平家物語」と照らし合わせて読んでみると、何か発見があるかもしれません。 

●編集後記●

 今回は簡単に終わらせるはずだったのですが、、なかなか、そうは問屋がおろしませんでした。
 祭が近づいてきますが、屋台を動かすための飾りつけもなかなか簡単にはできません。
 先輩から、どのように取り付けるかを教えてもらい、それを何年か続けてこそできるものです。

 2月ほどまえの話ですが、新宿で女の子ばかり昏倒する事件がありました。
 明治大学と日本女子大学は、事件性なしとしていますが、どうしても邪な意思を疑ってしまいます。
 また、両大学の説明は、その疑いを晴らすために必要なポイント(1どのようにして、どのような目的でウオッカを飲ませたか 2何故ほとんど女子ばかりが倒れたか)を説明していません。報道の異常なほどの少なさにも恐ろしさを感じる事件です。


  今号より記事名の表記方法を変えました。
 月刊「祭」第×号2014.○月 ○○×題名×△△ としていたのを、
 ○○×題名×△△ 月刊「祭」第×号2014.○月 といった形式に換えました。
 SNSなどで、記事名が後半省略した表記になっても大よその記事の内容をつかむことができるのではと思います。
 プチ新体制となった月刊「祭」。今後ともよろしくお願いします。


<月刊「祭」第31号 2014.8月>日本古来のソウルソング・御詠歌

2014-08-06 01:32:21 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

お盆が近づいてきました
 お盆で、御詠歌をあげるという経験は、読者の皆さまのほとんどがなされていることと思います。
 今回は御詠歌の歌詞についてです。ここでは、西国三十三箇所御詠歌を扱うことにします。
 何気なく歌っている御詠歌。五七五七七の三十一文字に魂を込める工夫を見て生きたいと思います。

やっと着いた系
●深山路(みやまじ)や 檜原(ひばら)松原 わけゆけば 槇尾寺(まきのおでら)に 駒ぞいさめる
(4番 槇尾寺)
 深山路の檜、松の原を書き分けて、やっと槇の尾にたどり着くといったように、寺の名前と対語となる語を使っています。

野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後(のち)の世のため
(28番 中山寺)
 これも、野、里と中山と、寺の名前と対語になる歌になっています。


逆説系
●後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの誓い おもき石山
(13番 石山寺)
 人々の来世のことを思う信仰心は軽くても、そのような人々をも救おうとする仏さまの誓いは石(山)のように重いと、寺の名前をかけつつ、逆説表現を用いています。

●いくたびも 参る心は はつせ寺 山もちかいも 深き谷川
(8番 長谷寺)
 何回も参っているけど、心は「初」せ=長谷寺と、寺の名前をかけつつ、逆説表現を用いています。




月を見る系

●夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波
(10番 三室戸寺)
 月を「見む(意思)」と三室戸をかけています。

●いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくるみずうみ
(13番 三井寺)
 波間に入る(いる)月を見入(みい)ると、三井寺をかけています。波間とみずうみは琵琶湖のことです。
 三井寺の鐘は近江八系に入れられるなど美しい音色で知られています。

六系
●重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば
(17番 六波羅蜜寺)
 五つの罪は消えるということと、六波羅の六をかけています。六波羅蜜寺はあの世との入り口の井戸があると言われています。

●わが思う 心のうちは六(む)つの角(かど) ただ円(まろ)かれと 祈るなりけり
(18番 六角堂)
 円と六角を対比させています。ちなみに、もともとは六角堂で、祇園祭の山鉾の籤取り式を行われていたそうです。

京都市六角堂 分かりにくいですが、上から見ると六角形です。

法(のり)系
●重くとも 罪には法(のり)の 勝尾寺 ほとけを頼む 身こそ安けれ
(23番 勝尾寺)
重い罪を犯しても、仏法はそれに勝つので、仏に全てをゆだねれば安らかだと言ってくれています。

●春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙(たへ)なる 法(のり)の華山
(26番 一乗寺)
一乗寺の山号(普通日本のお寺は、寺の名前の前に○○山とつきます。)は法華山、つまり法(のり)の華山です。また、妙は、妙法の妙。山号の元となった「法華経」は「『妙』法蓮華経」のこと。鎌倉時代の「元享釈書」によると「法華山、其山八朶、故為号也」と書かれています。八朶(はちだ)とは芙蓉八朶(ふようはちだ)の略称で、八葉の蓮華のことです。つまり、上から見ると、蓮華の形になっているからついた名前だそうです。


技有り 思ってほしくない2つのこと
●かかる世に 生まれあう身の あな憂(う)やと 思わで頼め 十声(とこえ)一声
(21番 穴太・あのう、あなお)
 「あな憂」や(ああ憂鬱だ)と、「穴太」とかけているだけではありません。実は、穴太という地名は、寺のある京都府亀岡市だけではなく、滋賀県大津市にも石積み細工で有名な集落が比叡山麓にあります。ということは、「あう身」と「近江」もかかっています。
 つまり「思わで頼(思ってほしくない)」むのは、「(生まれ)あう身のあな憂」と、「(亀岡の穴太寺ではなく)近江の穴太)」となります。







まとめ
短い言葉で、魂を込めるには、ための工夫がたくさん見られました。
一つの言葉で二つを意味してみたり、複数の言葉をつかって一つの言葉の意味を強めたりすることで、味わい深い歌が生まれてきたのではないでしょうか。

編集後記
 大幅に遅れての7月号に続いて即の突貫工事発行です。
 まだ、紹介しきれていないので、随時記事を増やそうと思います。
 今回は、御詠歌の「技」にオンブにダッコ状態でした。
 前回の編集後記でも述べましたが、祭も「技」なくしては存続しえません。
 それは、屋台を作る職人だけではなく、我々運営者にも「技」は必要です。
 この「技」で祭が成り立っていることに気づくことができなければ、その祭は衰退を免れません。