月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

213.旧姫路市大塩天満宮中之丁、現小野市葉多町所有綱水引幕(月刊「祭」2019.10月12号)

2019-10-31 23:02:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●絹常の故郷!?小野の祭展示 
 小野市立好古館では、「祭りとくらしの移り変わり 〜小野地区の近現代〜」という特別展が行われています。小野市内の小野地区と呼ばれる地域・中学校で言えば小野中学校区を中心とした地域の近現代史と祭りの展示です。
 今でも名門大学への進学者多数輩出する県下でも有数の公立名門校である小野高校の前身の小野中学の草創期の展示や、各地域で小規模ながらも大切されている行事の紹介がなされています。
 その中でも屋台大好きマツオタ垂涎の展示があります。一つが、小野天満宮の天神屋台の担ぎ上げているビデオです。伊勢音頭を歌いながらの担ぎ上げで、歌は三木の大宮八幡宮や岩壺神社などで歌われているものとかなり似ています。しかし、アヨイヤサーの掛け声はなく、延々と歌だけで担ぎ歩くというのは加東市の担ぎ方に近いと言えるでしょう。
 そしてそして、今回の見ものは何と言っても葉多町所有の屋台の水引幕、乗り子衣装、高欄掛の展示です。
 
葉多町の屋台の刺繍
 展示中のものなのであえて画像はなしで書いていきます。
 葉多町の屋台は神輿屋根型のものが担がれていました。現在もその担ぎ棒が荒神社に(アクセス)残されていました(管理人は2010年に確認)。葉多在住の友人は最近見たと2019年の十月に聞きました。
↑荒神社2010年
 
↑荒神社本殿
 
↑荒神社に残る練り棒。角棒であったようです。内グリがほどこしてあり、カンは現在のように棒先を覆っていません。
 
 
 高欄掛は武者ものでどこから購入したのかは分からないそうです。乗り子衣装と水引幕は昭和九年(1934)に大塩天満宮の中之丁より購入したものだそうです。
 
●綱のみの水引幕 
 -作られた背景-
 この水引幕は金色の注連縄が縫われているのみのものです。注連縄が縫われている作例としては加西市住吉神社の黒駒屋台の先代水引幕(綱の下に浜千鳥)がありますが、しるかぎりではこの二点のみで、かなり珍しいものと言えるでしょう。
 制作は大正十三年(1924)に社(やしろ)の縫師(といっても絹常ではないようです)に縫われたものです。となると大塩中之丁の水引幕だった時期はわずか10年ということになります。この10年で手放すことになる水引幕はなぜ作られたのでしょうか?
 その手がかりは水引幕を保存する道具に書かれていた文字です。
「御成婚ニ付新調 大正十三年六月」
大正十三年に結婚した人で「御成婚」という言葉を使っていることから、当時の皇太子・後の昭和天皇の結婚を奉祝するために作られた物のようです。
 注連縄は二束の藁をより合わせてより強固なものが作られます(参考)。その御結婚が幸せなものになり、国や大塩の地が繁栄することを祈った物だったのでしょう。このお二人は、関東大震災などで結婚が延期になっていました(参考: Wikipe●ア)。それだけに、二人の結婚は、復興の象徴そのものであったのかも知れません。
 その水引幕を受け継いだ葉多の地にも屋台はもうありません。しかし、祭の灯は消えずに葉多の地に受け継がれていくことを管理人は確信しています。
 
 
 
小野市立好古館 令和元年度特別展
 祭りくらし移り変わり
    〜小野地区の近現代〜
入場料 
 高校生以上300円 
 小・中学生100円(ココロンカードは有効)
  2019.10.5-12.8(日) アクセス




 
 

212.尼崎の「虎」だんじり(月刊「祭」2019.10月11号)

2019-10-31 16:05:00 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-
●尼崎のだんじり文化
貴布禰神社(祭礼日8月2日と3日.アクセス)
 
 尼崎もまた、知る人ぞ知るだんじり文化の地域です。その代表格は迫力満点の山合わせ。既出の動画ですがリンクを貼りました。
 
 
 現在は、尼崎のだんじりは観光の目玉として扱われていて、下の大きな観光促進の垂れ幕にもだんじりがとりあげられていました。



 昼間の曳行でゆっくり彫刻などを堪能し、夜の山合わせを楽しむと、尼崎のだんじり文化の一端に触れられるかもしれません。



●猛虎の勝利、ひたすら願う
しかし、ひっそりと猛虎の勝利を願うためだけに作られたであろうだんじりも!?
ずっと下にスクロールしてください。














↑とある飲食店の前に飾ってありました。よく見ると大阪名物のビリケンにタイガーマスクをかぶせてあります。
 だんじり文化が強く根付いている地に、関西一の人気球団が根付くと、こういうものが出来上がるようです。
 阪神尼崎駅から歩いて4-5分くらいだったと思います。インスタ映えするかも!?
 






 

211.播州西部のだんじり、形態変化の早技(月刊「祭」2019.10月10号)

2019-10-30 21:29:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●播州のだんじり 
-奉納芸用舞台装置としとのだんじり-
 だんじり と言えば、岸和田のだんじりや昨今では大阪や東灘、奈良、河内などのものが知られるようになりました。播州は屋台の地域というイメージがありますが、播州のだんじりも必ずしも目立っているとは言えませんが、祭文化にはなくてはならないものになっています。
 例えば姫路市の魚吹八幡神社では、興濱というだんじりを出す地域が筆頭氏子になっています。新在家、余子浜というだんじりを出す地域も氏子内でも立場が強く、この三村が神輿を担ぐことになっています。

↑魚吹八幡神社の御旅所で神輿を待つだんじり

↑だんじりを持つ興濱が担ぐ神輿
 
 これらのだんじりは、岸和田などにみられるようにひいて楽しむだけでなく、その舞台を使って芸を神に奉納することに重きが置かれていると言えます。その中で、見事な変形を見せるだんじりがあったのでそれを紹介します。
 
●たつの市 富嶋神社
 西釜屋だんじり 
 このだんじりは、獅子を奉納するためのだんじりで、還御でははじめに旅立つ先導役も担っていました。
 下の動画は、獅子を奉納したあと曳行できるための形にだんじりが変形する過程です。見事なチームワークで変形しました。 
 
 
 
 先述の魚吹八幡神社では、朝日谷のだんじりが同様の変形をしており、新調前の旧だんじりもそのような型であったと思われます。

魚吹八幡神社朝日谷だんじりの奉納芸。
 

 このような変形型のだんじりの場合、芸の練習、変形や曳行の技術など身につけなければならない技術は多々あると見られるだんじりの運行です。必ずしも目立つとは言えませんが、見ていると興味深く、そしてその技術に驚きます。

*たつの市 富嶋神社(アクセス、祭礼日:体育の日の次の土日)
*姫路市 魚吹八幡神社(アクセス、祭礼日:10月21、22日)
 

210.奉祝令和-即位礼に合わせた三木の祭-(月刊「祭」2019.10月9号)

2019-10-29 06:36:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

 10月22日の令和天皇即位式典にあわせた、お祝いの祭礼が三木市内では各地で行われました。今回はその祭りを通して、分かったことをレポートします。

 
●三木市内の祝典概要
各神社の屋台の動きは下のようなものでした。
大宮八幡宮 
・明石町
 宮入、滑原屋台との練り合わせ
・新町 
 大宮八幡宮石段下まで巡行、差し上げ。
 滑原屋台と合流して写真撮影
・末広、下町、栄町、高木
 大宮八幡宮石段下まで巡行、宮参りの後、四台一斉差し上げ。
 旧三木鉄道三木駅前で練り合わせ
・大村
 屋台巡行。
 獅子舞用の面などをイオンで展示、獅子舞披露。
・平田
 出したか出していないかを把握していません。
・城山
 屋台飾り付け、展示。
 
岩壺神社
 何台かが氏地巡航したと聞きましたが、正確には把握していません。
・滑原 
 新町と合流写真撮影。
 大宮八幡宮参道側まで巡行。
 明石町屋台と練り合わせ、写真撮影。
 
別所地区
・東這田、花尻、石野、興治の屋台と、高木の子ども屋台が石野の御酒神社に宮入。
 


 
●屋台の識別基準は屋根
 末廣屋台の旧布団締め復活
 あれ?見慣れない屋台がある。。
 神社に並んだ四台の屋台を見てそう思いました。
 令和の奉祝祭典ではいくつかの特別仕様が見られました。目を引いたのは、末広屋台です。
 その日に限っては、いつもの玄武ではなく、かつての一本の布団締めに、末広を構成する四町の名前の入った白の布団じめもしつらえていました。
 

↑通常の末広屋台

↑令和奉祝の時の末広屋台。
 旧屋台の布団じめです。
 
 我々は、屋台を認識する時は、屋根を基本にしていることに気づきました。
 
●「城元」四町 
 三木の町は岩壺神社の氏子域と大宮八幡宮の氏子域に分かれます。祭礼日はもともと同じでした。
 神輿は大宮八幡宮のものが高木の御旅所に行幸しています。今はまあ行われていませんが、岩壺神社のものは滑原の三木城跡の稲荷神社に行幸していました。そして、滑原町の稲荷神社の神輿も高木に行幸していたそうです。つまり、三木の城跡を、介して二つの祭は連動して行われていたとも言えます。
 岩壺神社の御旅所である滑原の城跡はもちろん長治公等別所氏のもので、そのすぐそばにある大宮八幡宮もまた、別所氏の氏神であったと伝わっています。現在の大宮八幡宮の祭は、長治公がご自害なされた後に赴任した領主の中川秀政が社殿を復興して始めたものと伝わっています。
 となると、城跡に行幸する岩壺神社の祭と、城の鎮守の社だった大宮八幡宮の祭が連動するのもうなずけます。また、滑原もナメラ筋と言われる霊の通り道に通じる町名は、御旅所町としての名にふさわしいものと言えます。三木の大宮八幡宮を含む「城元」といえるのは、滑原、大手、新町、明石町の四町だといえそうです。
 令和奉祝の祭典では、城元の滑原の大宮八幡宮宮入はかないませんでしたが、新町との写真撮影、明石町との練り合わせは意味のあるものでした。
 






 
●棒乗りと奉祝と彫刻 
明石町青年団長の棒乗り
 令和奉祝において、明石町屋台は通常祭礼時は禁止されている棒乗りを宮入りですることができました。といっても、棒のりしたのは管理人ではありません。棒のりするのは、もちろん明石町の青年団長です。他地域では、年配の方がそれをする地域もありますが、別所長治公という青年君主の宮ではやはり、若い青年団長の棒のりがしっくりきます。
 ましてや明石町は、三木城の用材を明石に移す城移しの道が通る町です。そして、杣八幡神社という大宮八幡宮の元宮といえる宮があります。この杣八幡神社の「杣」は、かつてはきこりである杣人が住んでいたことに由来するとも言いますが、明石への移城の用材の元にある場所としての「杣」であるともいえます。この杣八幡を擁する明石町はまさしく三木城や別所長治公の魂を呼び寄せる屋台ともいえるのかもしれません。
 
 
令和天皇のお名前と明石町の欄間(狭間)彫刻

 今上天皇の即位は、明石町にとってもまた、特別な年にもなります。それは、明石町の欄間彫刻によるものです。明石町の欄間彫刻の一場面は「民のかまど」と呼ばれる場面です。
 八幡神・応神天皇の御子である仁徳天皇の治世、民衆は困窮を極め、飯を炊くかまどに火がともることもなくなりました。仁徳天皇は税を免除するという英断を下し、家々のかまどに煙が再び立ち込めるという場面です。仁徳天皇の善政に感謝した人々が米俵を持って、仁徳天皇のもとを訪れています。
 さて、今上天皇のお名前も徳仁(なるひと)と言って仁徳の文字を用いたものとなります。そして仁徳天皇の彫刻を擁する明石町屋台の青年団長は毎年、町民や担ぎに来る人たちのために、奮闘する若い人がなっています。その姿は、まさしく「仁徳」そのものであるし、かつての三木城主の姿を受け継いでいるともいえます。そういう意味では今上天皇の徳と仁をしっかり受け取っていると言えます。


 国政は残念ながら消費税をひきあげるなど仁徳、徳仁の真逆を行くものとなっていますが、それは天皇陛下への不敬につながるとも言えます。国政の中枢にいるみなさまが、我らが団長や仁徳天皇、長治公を見習うことを切に願い今号の筆を置きます。
 
 
編集後記
 今上天皇のことを、元号に天皇をつける形で表現していました。これは、諡号といって崩御された天皇への呼び方であることだというご教示をTさんより賜り、すぐに表現をあらためました。
  Tさん、いつも本当にありがとうございます。
 
 

209.丁(よろ)新調しても別格(月刊「祭」2019.10月8号)

2019-10-25 20:11:23 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
編集「前」記
 「丁(よろ)や!」
 管理人は名屋台があると思われる方へ全速力で走りました。しかし、おっさんの全速力、足はもたもた、ろくにあがっていません。
 ドッターン!
 見事に少しめくれあがったアスファルトにつまずき、両膝をすりむきました。
「屋台見たさに走ってこける」
 見ようとした屋台は丁(よろ)。その練り上手に魅了されるのは管理人だけではありません。場合によっては、歓声のみならず笑い声が聞こえてきます。小説家の村上龍は、「若き日のフランス代表のサッカー選手ジダンのプレーは凄すぎて観客が笑う」といったようなことを書いていましたが、それと同じ現象が丁(よろ)にはおきます。
 
 そんな丁(よろ)は別格だということで、月刊「祭」創刊号の記事として書きました。今回はなぜあのような見事な練りができるのかにほんの少しだけ触れてみたいと思います。


 
●中と外
 まずは下の映像の3分30秒あたりを見てください。新しい練り子(担ぎ手)が棒に加わり、中、外、中、外と手前の練り子(担ぎ手)が順番に声をかけています。これは何を意味するのでしょうか。その答えはずっと下に。 
 
 
 
 
 
 

↑上の写真は、声をかけたあとにチョーサ(差し上げ)する場所に屋台をかついで走るところです。よく見ると同じ棒を担いでいても、例えばで囲まれた人のすぐ前ので囲まれた人は、違うコースを走っています。よく見ると、他の人も交互に屋台の中側を走る人、外側を走る人が交互になっています。「中、外」の掛け声は誰がどちらを走るのかの確認だったようです。そうすることで、お互いに足をぶつけることなく走ることができます。
 見事なチョーサは緻密かつ臨機応変な変更が効くシステムでささえられていました。
 
 
 
 
 
 
 
●新調時の哲学
 さて、上の写真や映像は、全て今年(2019年)のものです。素木の屋根ということは、新調して間もないということです。
 気になるのは、新調することで、屋台が大きくなり担ぎにくくなったりするのではないかということです。屋台の新調で華やかに大きく派手になったけど、重すぎて屋台をよく落とすようになったところを管理人は幾度となく目の当たりにしてきました。
 しかし、そこも丁(よろ)は丁(よろ)でした。同じサイズ、同じ重さでの新調だそうです。今は素木なので漆や金具をつけていた旧屋台より軽くなっています。あくまで、丁(よろ)らしいチョーサができることを考えての新調になっていました。
 
 
 
 

208.教育の政(まつりごと)-神戸方式を悪者にしても意味なし-(月刊「祭」2019.10月特別号2)

2019-10-25 17:01:00 | 教育の政(まつりごと)

●神戸方式=悪??
 昨今話題になっている神戸市内の教員の教員による虐待問題はいまだに解決していません。その中で槍玉に上がっているのが、「神戸方式」と呼ばれる教員分配方式です。私が見た限りでは、下のような流れでした。

①各教員は移動希望のアンケートを書く。
②それを元に各校校長先生がどの学校にどの先生を配置するかを仮決めする。
③仮決めの段階で移動がありそうな教員に、現在の勤務先の校長先生が打診して承認を得る。打診された先生には拒否権がある。
④移動先の校長先生か教頭先生が電話や直接くるなどして話す機会を持つ。

 上を見ると、システムとしては「一応」民主的だし、100を超える学校がある自治体では、直接先生方を見ている校長先生が人事に関わるのは、現実的であると思われます。
 改善点として挙げるならば、校長先生から人事権をとりあげるのではなく、先生方に物言う権利を「付与」することでしょう。今の人事システムの素人改善案を下に挙げてみました。

月刊「祭」素人改善案
①「そりが合わない」、「この人の下にいると、パワハラとまではいかないけど、ボーダーラインかなあと」いうのを書かせる。
②パワハラの外部相談機関の設置
③②を踏まえた管理職登用試験の見直し
などが考えられると思います。
④②をふまえた、パワハラへの対応システム・例えば法律家による相談機関の設置
⑤④の機関に訴えがあった加害者と被害者を同じ学校で勤務させないなどの措置の義務化?

 今の状態で、横暴な状態が学校でまかり通っていました。例えば教育委員会に一任などして、いじめの加害者のような人物が市教委に入り込んんだ場合、その横暴が神戸市全体にひろがるだけです。その抑止力となるのが、各校の校長先生です。その抑止力をとるとどうなるのでしょうか?

●為政者の本音
 為政者としては、教育を自分の思いどおりに動かす権限は、メディアを動かすのと同じくらい、喉から手が出るほど欲しいものです。また、自分の意見に反するものライバルになる者を賢く育てるのも馬鹿らしいというのも、やはり本音でしょう。本音として育てたいのは、自分を称賛してくれるそこそこ賢くて従順な人であって、自分を超えたり異を唱えたりする賢い人ではありません。

 この混乱に乗じて、校長先生の権限を取り上げた場合、市教委などで出世するのは、その時の為政者に右へならえな人ばかりになります。つまり、人事権を校長先生から取り上げた場合、為政者に右はならえの人だけで、学校は組織作られてしまいます。
 そうなると、東須磨的な状況が神戸全体で出来上がっていく危険があります。
 こうなると、公教育は衰退するのは目に見えていますし、公教育が衰退することで、条件のいいしごとにつくことができるのは、お金のかかる私立校に行ける子に限られます。格差の拡大固定をしたいというのは、政(まつりごと)をする人にとっては抗い難い欲求です。
 神戸方式批判論は東須磨虐待問題の機に乗じた教育改悪策になる危険性も持っています。

●神戸方式を取らない大規模自治体の小学校の実情について
 各学校の権限より、当該自治体の首長や教育委員会の力が強いとある大規模自治体の小学校の話を聞いたことがあります。校長室は説教部屋状態になっているそうです。教員の裁量権も小さく、授業はアドバイスというよりも干渉される状態が続いていると言います。
 その校長は「強い」教育委員会や首長の権限で選ばれた人たちで、その意向に沿った学校運営をせざるを得ません。先生のなり手も少ないそうです。もちろん、優秀な教員も集まらず、学校の状態は。。。といった話です。
 このような実情を見ると、権限を校長先生から奪うのではなく、他の先生方にも付与することが、今の神戸の教育改革に求められているのです。


●平民の台頭で生まれた祭
 本ブログの主題となる屋台、だんじり 、山車の祭は、平民が力をつけてきたことによって行われるようになりました。実際に祭をしてみると、小学校、中学校時代に培った友人関係が、いかに大きな働きをするかも実感できます。
 祭と政(まつりごと)は表裏一体、屋台やだんじりの祭はその中でも教育の政(まつりごと)と表裏一体になっています。
 問題は多々ある教育現場ですが、安易な神戸方式批判論の拡大と盲信は、祭文化にも大きなマイナスになるように思えてなりません。






 


207.獅子の四肢(月刊「祭」2019.10月7号)

2019-10-24 21:24:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
獅子舞
 獅子舞はまさしく獅子が舞う様子を人間が演ずる芸能です。獅子の顔は、もちろん面で表し、実は布には尾もついているのがほとんどです。自由自在に動く獅子の顔・面は時に舞手の手でもたれたり、時に被られたりします。このようにして、獅子の頭部や尾を表しますが、獅子の四肢、つまり前足、後ろ足はどのようにして表されるのでしょうか。
 姫路市英賀神社の英賀西の獅子舞で見ていきます。

●一般的? 2人で
 まずは、よく知られている2人で前後に並び一頭の獅子を表現する方法です。前の人が手で面を操ります。前の人の足が前足、後ろの人の足が後ろ足となります。面は前の人が手で持ち、口を開け閉めしたり、前後上下左右に獅子の頭を激しく動くしたりでき、アクロバティックな動きが可能になります。


●一人で
 下の画像を見ると舞台に2人いますが、後ろの人は獅子の補佐をしているだけで、獅子の体の一部ではありません。
 前の人は獅子の面を頭に被り、その足が後ろ足となり、両手は前足となります。後ろ足の二足歩行で右の前足で御幣を握っていることとなります。御祓の所作などゆったりとした動きや道具を用いた所作に適しています。




●二人(上下)
 下の画像のみ英賀西ではありません。同じく英賀神社の獅子ですが、高町の獅子です。背の高い獅子は下の人の肩に上の人が乗っているためです。下の人が大人、上の人が子供ということもあります。下の人の足が獅子の後ろ足となり、上の人の手が獅子の前足となります。面は上の人がかぶり、前足を表す両手に傘などを持って舞います。



●前足が移り変わる??
 下の二枚の写真は同じ演目の舞です。獅子が物を持っている様子ですが、上のAの写真では前の人の手が前足、後ろの人の足が後ろ足となっています。前足を表す両手で物を持ち、前の人の足は見えていますが、この時点では、前の人の足は「見えていない物」としてかんがえるといいでしょう。
A



 そして、Bの写真では物は前の人の両足で持たれ、前の人の両手は隠れました。この時には獅子の前足は、前の人の両手から両足にかわっています。

B



●見えるけど見えないもの
 獅子舞を見ると、はじめはお祓いなどの大人しいものからやがて、激しくなる序破急の構成になっていると思われるものがよくあります。能の影響とも言えるでしょう。
 そして、獅子も布の下の人の体や、上の画像Aのように見えている前の人の足は、見えないものとして扱われます。それは、歌舞伎の黒子、能楽や狂言の後見を見えないものとするところも似ているかもしれません。
 しかし、見えないものとしてたのしみながらも、実際は見えていて、それが、人間には難しいこと=曲芸(人の肩の上に人が乗るなど)をしているから、観客や神仏もたのしむことができるのでしょう。




 

206.若い人が動かすタイコ(月刊「祭」2019.10月6号)

2019-10-20 01:33:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●若いモンにまかせとったらええ
 よく聞く言葉に、「若いモンにまかせとったらええ」という類の言葉があります。とはいうものの、管理人のようなおっさんも内心「まだまだいける」とか「若いモンには負けへん」とついつい思ってしまうものです。
 しかししかし。やっぱりよる年波には勝てないという現実を今年は感じることになった祭でした。若い人はこうなる前にくいのない祭をする戒め?として、若くない人は怪我の防止のため?に読んでください。
 
●石段
 今年は台風の影響で三木市の大宮八幡宮も、宮入りは一日だけでした。その鬱憤を晴らすが如く、石段は元気よく上り、元気よくおりることができました。
 管理人はほぼ担ぐこともなく、ゆらゆらと揺れる屋台とともに石段を上り下りする時間となりました。
 とはいうものの、元気に担ぐ力もちの担ぎ手や、石段をずり落ちないように棒を押しながらおりてくる青年団の助けになるのも、おっさんの務めと思っていました。屋台より少し下で、みんなを見守りながらおりている「つもり」でした。「いざとなったら、助けよう。」そんな熱い思いで、屋台を見上げながらおりていました。そんな時、管理人に声がかかりました。「◯◯さん、屋台が急に落ちてくるから危ないっすよ!」
 どうやら、少し下から見ると、管理人が一番危なっかしく見えていたそうです^_^; 自分の中では機敏に動いているつもりだったのですが、一番の不安要素だったみたいです(ToT




 
●太鼓


 一度だけ、現役の若い青年団にまじり、サイタサイタ(差し上げ)の太鼓を練習の時に打ちました。若いモンには負けんと、ドンドンドンデドンを力の限り、速く強く打ちました。
 あっという間に息切れ、こりゃ使いもんにならんと痛感した時さらに追い討ち。
 「な、お前らはよたたきすぎやねん。◯◯さん(管理人)みたいにゆっくりたたいたらええんや。」後輩の現役の太鼓打の彼は、入団間もない若者達にそう語りました(ToT)
 管理人自身では超高速で打ったつもりの太鼓はスローペースのお手本になったみたいです。。
 
●やっぱり若い人が主役
 綺麗事ではなく、祭の主役は誰かということを手厳しい現実として感じた祭となりました(^_^; 
 体がバリバリ動くのは束の間その間にしかできないことを若い人には目一杯楽しんで欲しいものです。我々おっさん組は、なんやかやのサポートが役割です^_^
 
 

205.濱の宮天満宮思いやり太鼓(月刊「祭」2019.10月5号)

2019-10-19 05:48:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●屋台の空中浮遊!?
-姫路名物台場差し-
濱の宮天満宮(アクセス、祭礼日10月8.9日)
 周りから見ると一見、屋台が宙に浮いているように見えます。しかし、実は練り子が泥台を差し上げているのです。これが、姫路名物というか市の指定民俗文化財となっている台場差しです。
 今回は須賀屋台を例にして、濱の宮天満宮のど迫力な技の裏の細やかな配慮を見ていきます。ひとまずはそのど迫力な技を管理人のど素人カメラワークでご覧ください。

↑須賀屋台の台場差し(映像へ)
 
 
 ●ど迫力の裏の思いやり
 今回の記事のテーマは「太鼓」なので、太鼓を見てみます。
 
平常時
↑平常時は、欄干から太鼓はほとんど見えません。では、台場差しの時の太鼓を欄干外から見てみましょう。画面をずっと下に
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 台場差し時
↑太鼓を上の方で固定しているのがわかります。
 
台場差しは、泥台を外と内から差し上げます。つまり、太鼓の下にも人がいることになります。そうなると、平常時のように太鼓を低く据え付けると、太鼓の下側は泥台あたりまで来ることになります。
 下の2枚の写真は台場差しの時とそれが終わった直後のものです。高低差が1m近くあるので、そのままの高さの場合、内側の人は太鼓が頭に直撃することになり、大怪我は免れません。そうならないために、太鼓を上にもちあげているのです。
 荒技で知られる台場差しは、細かな配慮によって成り立っていることを知りました。




 
 
 
 
 

200.うっとこが一番(月刊「祭」2019.10月.1号)

2019-10-11 19:14:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

とうとう200本目。。

 月刊「祭」もとうとう200本目を数えました。100本目は気合を入れたくてまだ書いていませんが、零(れい)巻をふくめると、200本はあることになります。警報で屋台は出さなくなるかもしれませんが、この記念号を一応「祭」の前日に書きます。
 
●「祭」一文字が表すもの
 高校の古文では「祭」と書くと「葵祭」を表すと管理人は習いました。しかし、管理人にとって「祭」というのは、三木市大宮八幡宮秋季例大祭を意味します。それは、管理人にとって一番大きな意味を持つ祭だからです。
 そして、読者の皆さんの多くにも、「祭」の一文字で思い浮かべる一番大切な祭があることでしょう。管理人は祭を調べたり、考えたりする上での最も大きなアドバンテージは、「祭」の一文字で思い浮かべる祭が自分にあること、自分が最も大切にしている祭があることだと考えます。そうでないと、他の地域の祭への理解はどうしても上澄みの部分のみになってしまうでしょう。
 
●うっとこが一番
 方々で祭見聞をしていると、言葉の端々にうっとこ(うちのとこ)が一番という思いを感じます。もちろん管理人も同じです。明日から年で一番楽しみにしていた日が始まります=もう直ぐ終わります(ToT