月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

326.女性の参加度はどのくらい!?-祭を比べる難しさ-(月刊「祭」2020.2月4号)

2021-02-15 12:57:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●組織研究という祭研究の主流!?

 これを社会学というべきか、民俗学というべきか、はたまた別の呼び方があるのかは分かりませんが、屋台やだんじりの祭を研究でよくされているのが、組織の研究です。管理人もそれっぽいことをやろうとして、失敗しかけたことがありました。同様の失敗をしている人を見たことはありませんが、今後同じ失敗をするのをふせぐために、今回の記事をあげることにします。
 それが「祭を比べる」ということです。
 その難しさを、管理人が失敗しかけた女性の参加という視点から考えていきます。
 なお、この記事は女性の参加の可否を取り上げている物ではないということをはじめにおことわりしておきます。

●大阪、岸和田、尼崎の比較 

1.女性が綱元を曳く大阪市東成区比売許曽神社 東小橋(ひがしおばせ)だんじり

 

 地車本体のすぐ前の綱元はだんじりが、すぐそばにある危険な場所です。ここを女性が曳いています。

2.女性が綱元を曳かない岸和田だんじり祭

 

 

 一方、岸和田のだんじりの多くは映像のように、綱を女性が握ることはあっても、綱元は男性が務めています。

3.女性がだんじりに触れない尼崎の祭

 尼崎市貴船神社のだんじりは女性が地車に触れることはありません。

これらのことから、「大阪市比売許曽神社→岸和田→尼崎の順に女性の参加が進んでいる」と言いたくなります。しかし、安易にこの結論を出すことは出来ません。

 

●科学的検証の鉄則、比べる条件以外は揃える

 小学校五年生の時に習うのが、比べたい条件以外は条件を揃えるというのが実験の鉄則です。例えば、塩と砂糖の水への解けやすさを比べるときに、塩10gに水50g、砂糖1gに水100gで比べても正確には比べられないというものです。正確に比べるためには、塩と砂糖という物質を変える以外は、水、塩、砂糖の重さ、水温などすべての条件はそろえないといけません。

 祭を比べるときもいっしょです。例えば大阪、岸和田、尼崎のだんじりの動かし方はそれぞれ同じではありません。大阪は比較的おだやかで、岸和田はやりまわしをします。尼崎にいたっては、山合わせといって下の写真のようにだんじりをウイリーさせた状態でぶつけあいます。

 つまり危険なものほど、女性が参加していないというものがうかびあがってきます。危険な動かし方など、揃えられない条件も考えて、祭を比べるという視点が、祭の比較には必要になってきます。

●民俗学という体験の学問

 結局、女性の参加の度合いなどを比べるときに、だんじりの引き方などが分かっていないと議論が明後日の方向に行ってしまうことは明白です。民俗学が体験の学問やということをどっかで聞いたことがあります。その真偽はさておき、フィールドワークを重んじるのは、このような危険性などを体感的に理解する必要があるからでしょう。結局、担いでみんとわからん、引いてみんとわからんことがあるというシンプルな結論になってしまいました。

 

 

 


326.하나(ハナ)(月刊「祭」2021.2月3号)

2021-02-14 17:26:51 | コリア、外国

●韓国語と日本語の共通点
 朝鮮半島と日本はかなり近い位置にあり、祭をふくめた文化に共通点が見られます。
 言語にもその類似性が見られます。それは、文法の類似や感謝をカンシャ、カムサと日韓それぞれで読む漢字語レベルだけでなく、それぞれの固有語レベルでも類似が見られます。

 今回はそのような固有語の類似の例をあげ、特に「ハナ」という言葉を少しだけ詳しめに見ていきます。

・マブシイ
 目+ブシ+イで出来た言葉である可能性があります。これに対応する韓国語は눈 부시다(ヌンブシダ)。눈(ヌン)は目、다(ダ)は語尾で、부시(ブシ)が目などをくらますなどの意味を両国の言葉で持っているノかも知れません。

・ナラ
 かつての都だった奈良。その語源は奈落とも言われていますが、韓国語で国を意味する나라(ナラ)が語源とも言われています。


・ヘビと뱀(ペム)

 こちらに詳しく書きました。どちらもらヘビ🐍を意味する言葉です。

●하나(ハナ)
 さて、祭関係者なら切っても切れない「ハナ」も韓国語由来の言葉であると思われます。
 韓国語では하나(ハナ)は、ひとつ、一を意味します。
 日本では、花、鼻、端、はな(はじめ)などの意味を持ちますが、大元の意味ははじめとか物事の先端を意味します。「はなから」と言えば最初から、一からという意味になるので、하나(ハナ)に近い意味があると言えるでしょう。

 

 

 


325,姫路城下の屋台ならぬ花台!?(月刊「祭」2021.2月2号)

2021-02-14 02:02:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●三ツ山祭で有名な射楯兵主神社
 播州の国宝にして世界遺産の姫路城。そのお膝元の神社が射楯兵主神社です。平成二十五年(2013)には二十年に一回の三ツ山祭が行われました。現在は置山の祭として知られていますが、もともとは播州の要所であり、いち早く盛大な◯◯車の祭が行われていたようです。
 そこには、「◯◯車」や屋台ならぬ「花台」なるものも出されていたようです。
 


●もともとは車だった三ツ山
※ドヤ顔で下の内容を書いていましたが、これより詳細かつわかりやすい文章が、小栗栖健治「三ツ山祭の成立と展開 第一節 天神地祇祭と臨時祭」姫路市教育委員会文化財課『播磨国三ツ山大祭調査報告書』2015所収に出ています。
 
 天正九年九月九日(1581)の記述とさられる『惣社(射楯兵主神社のこと)集日記』には、その当時伝わっている神社や祭礼の歴史が記されています。
 その中の大永元年(1521)、二年(1522)の記事を見ていきましょう。
 大永元年六月卯日 装山并花台 -中略- 三村ゟ車出 九院ゟ台捧
 
 装山は飾り山、現在の三ツ山を連想させます。花台は、神仏に備える花の作り物かと考えていますが、これだけでは分かりません。さて、装山と花台のうち、花台は「九院ゟ台捧」とあることから九つの寺院から出されていたと思われます。となると、「三村」から出されていたのは「装山」のはずですが、「三村車出」と三村から出されるのは車となっています。山=車の可能性、山を出しさらに車を出していた可能性の両方がこの記述から考えられそうです。しかし、上で挙げた「報告書」では『播磨国飾東郡国衙庄惣社略記』の
 
 同(大永元)年六月卯日、神部ノ社三山ノ形チ装山之造車并ニ宝前装花台捧上ス
 
という引用文を挙げ、三ツ山が車であったことを指摘しました。
 さらに大永二年の記述を見ていきましょう。
 
 大永二年五月三日大祭祀 装山を改、国府村、宿村、福中村三司ゟ広前三ヶ所ニ作ル、高サ三間二尺と云、木竹にて造り、色絹にて巻之
 この年から装山を改めて、今のような置き山になったことが見て取れます。
 
 下の絵が成立した時は、すでに置き山になっている時代です。しかし、作者がそれを意図したのかどうかは分かりませんが、置き山前の車時代の山を想像する手掛かりになるのかも??

寛永十年(1633)頃 「播磨国総社三ツ山祭礼図」
 
 
●大祭祀、九カ寺院が出す屋台ならぬ「花台」
 ドヤ顔で上の内容を書こうとしたのですが、残念ながらオリジナリティはありませんでした。ここからは、オリジナリティがあるはずですが、この記述の紹介、あるいは類似記事の紹介は兵庫県立博物館がすでに展示していました。が、少しばかり初だしな内容もあるので、最後までお付き合いください。
 まずは『惣社集日記』の大永元年の記事をもう一度あげてみます。
大永元年六月卯日 装山并花台 -中略- 三村ゟ車出 九院ゟ台捧
 大永元年に花台、台を捧げていたのは九院でした。三村の山が神仏の依代であるとするならば、花台は「捧」の文字からわかるように、神仏に捧げる性質のものであったことがわかります。
 この九院の内容が大永二年の大祭祀の記事にも見られます。そこには、「花台」の姿が少しばかり想像できる記述が残っていました。
 九ケ寺院造花を出す、当年造花車を改メ
広前ニ装山す
 
 大永二年の記事では九カ寺院造花を出すとあることから、花台は造花であることが分かります。さらに、当年「造花車を改め、装山す」ということからこの年から置き山になったと思われます。逆に言えばそれまでは、花台造花車でした。
 
●寺院が出す造花車
 寺院が出す造花車がどのようなものかは、なかなか知る由もありません。しかし、寺院が造花の車を出していた事例は河内にありました。
 それが『河内名所図会』に載っている、誉田八幡の車楽です。といっても、車楽はここでは音楽を意味しており、この車自体は「藤花車」と呼ばれていたそうです。絵を見ると、車の上には造り花が見られます。この車楽は誉田八幡の東西二箇寺から出ていました*。この二点は大きな共通点と言えるでしょう。
 

「河内名所図会」享和元年(1801)
 
 屋台・だんじりが隆盛する前の祭りでは、花車を寺院が出して神仏に捧げるいう形態が一つの祭の型としてあったのかもしれません。
 
 
*大阪市立博物館「第121回特別展 南河内の文化財 平成5年3月1日〜4月11日」(大阪市立博物館)1993
 
 
 

324.屋台と車、レトロ回帰の90年代(月刊「祭」2021.2月1号)

2021-02-12 16:15:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の工芸、新調、改修、修復-
伝統回帰?ザックリ1990年代の日本(管理人独断)
 この頃の日本はバブル崩壊もあったのか、「ヨーロッパ、新しいもの嗜好」から「アジア、国内、伝統回帰」が見られたように思えます。
 猿岩石がヒッチハイクをすることで、アジアの旅行を志す人が増えました(多分)。隣国ヘイトを加速させたので管理人は好きではないですが、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」で古き日本に想いを馳せる人が出てきた面はあったと思われます*。
 ダウンタウンの松本人志さんが、作務衣を着たり、東洋式龍の革ジャンを着てで始めたのもこの頃だと記憶しています。
 そんな感じで、日本の伝統や古いもの回帰の見られた90年代、車も屋台もその傾向があったようです。
 そこで、90年代のレトロ回帰した様子を車たら屋台それぞれで見ていきましょう。
 
*残念なのは、祭ヘイトな愚か者のかなり多くの割合(管理人が数えた限りでは8割程度)は、隣国ヘイトな者たちで、祭という面では「ゴー宣」はプラマイゼロとなります。社会的には差別推進の面が大きく、社会的には大きな衰退を促した著作群であると管理人は評価しています。
 
●車のレトロ回帰
 とりあえず、画像なしですが思い浮かぶ車種を挙げてみます。
 クロスカントリー風の車だそうです。
 
 ミツオカ自動車でマーチベースだそうな。美遊人と書くそう。
 
 リンク先の記事によると、レトロブームの火付け役はスズキだったそうです。
 
 90年代後半ころ発売されたものは、よく外車?と聞かれることがありました。


 
 写真は管理人が所有していたものです。
レトロ風ですが、ミラーはドアミラーがつけられていましたし、ハンドルにはエアバッグが入っていました。

ミラジーノ
 友人の所有車です。ドアミラーをフェンダーミラーに付け替えています。




 
レトロ「風」車の特徴
 本当にレトロな車ではなく、レトロ「風」車なので、現代的な特徴もあわせもっています。
 一つ目がフェンダーミラーではなく、ドアミラーであること。おそらく多くのものが自動で開閉できるものだと思われます。
 二つめは、エアバッグ。レトロな車だとエアバッグのない細いハンドルがカッコ良かったりしますが、多くのレトロ「風」車はエアバッグがついています。
 安全性や利便性を損なわない範囲でのレトロ回帰であったことが、90年代のレトロ「風」車に見ることができます。
 
●屋台のレトロ回帰
 90年代の屋台のレトロ回帰は主に神輿屋根屋台で見られたように思います。その契機のきっかけとなったのは、やはり粕谷氏の存在が大きかったと思われます。地味だけど優れた工芸のある屋台の再評価の熱が高まりました。
 分かりやすいのは屋根の昇り総才の部分です。そこで、90年代に昇り総才の金具を箱形にした二つの屋台を見ていきます。
 
松原八幡神社 木場屋台
屋根の四隅から頂上に昇る部分を「昇り総才」と呼びます。そこに華やかな金具をつけており、総才金具などと呼ばれています。下の写真のような飾り金具の分かれ目があるものが、箱形とよばれる昔からよく見られるものだそうです。
 
 戦後あたりからでしょうか、経済的に豊かになるにつれ、分かれ目が分からないようなものが増えてきたそうです。しかし、木場屋台は平成五年(1995)年の屋台新調で箱形のものをしつらえました。
 
 
英賀神社 山崎屋台
1990年代末より小さな屋台から大屋台に変える計画が立てられ、2000年に完成した屋台です。管理人に屋台、特に、神輿屋根屋台を教えてくださった師匠でもある播州祭礼研究室の皆さんが新調に協力しました。屋根の勾配も主流になりつつあった急なものではなく、やや浅めに作られたのもレトロ回帰の流れと言えるでしょう。


 

完全にレトロ回帰したのか
 とはいえ、上の二つの屋台はともに完全に昔のものに戻したとはいえません。
 まずは大きさです。山崎屋台は大屋台にしていますし、木場屋台も「灘のかんか祭」で練り合わせができる大きさのやたいです。
 そして、練り棒のボルト止めも現代化したものと言えるでしょう。

●レトロ回帰した屋台、車のレトロにならなかった部分
 車は見かけがレトロ回帰していましたが、安全や利便性の機能はレトロ回帰していませんでした。
 屋台もまた、金具などの見た目はレトロ回帰しましたが、練り合わせなどを考えた大きさなど機能や安全に関わる部分は、レトロ回帰にはなっていないようです。
 
 
 
謝辞:
 下の二社の自動車会社のおかげで本記事が出来上がりました。そして、管理人の安上がり自動車中心マツオタライフもこの二社のおかげでなりたっております。あらためて感謝申し上げます。
 
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