●平野区のだんじり9台集合
●平野区のだんじり9台集合
●唯一の梵天平屋根屋台
三木の平田屋台といえば、高木、大村とならぶ「よー担ぐ屋台」として三木の人には知られています。そして、高砂市曽根とか加西市北条などの反り屋根分布地域の人からすれば、平屋根やのに屋根には刺繍の布団締めではなく、エビ、シャチの金具の梵天がついていることに注目することでしょう。
このブログの読者なら平田屋台が反り屋根屋台であったことをご存知の方も多いでしょう。もしかしたら、昭和41年(1966)に屋台を神崎郡市川町から購入し、昭和53年に平屋根に改修したことも一般常識として認識している方もいるかもしれません。
反り屋根の平田屋台はこちら(YouTubeに動画をあげてるかたがいます。)
●では市川町のどこの屋台?
では、市川町のどこの屋台でしょうか?もしかしたら知っている人もいるかもしれないのですが、管理人は分からないので調べてみました。手がかりは、いわねえ氏の「山車・だんじり悉皆調査」。山車、だんじり、屋台などなどの全国の祭を調査しています。
その中の神崎郡のところを見ていきます。
売却でページ内検索
3件ヒットしましたが、全て福崎町のものでした。
廃絶でページ内検索
3件ヒット、うち2件が市川町のものでした。
猿田彦神社
1件は猿田彦神社で大河内町新野と野村が廃絶したそうです。そのうち大河内町新野は友人のご教示と管理人が実際に確認したところ、屋台前面の布団より下を絵馬に改造して奉納しています。なので、野村屋台が候補に上がります。
笠形神社
下牛尾、河内の2台が廃絶とのことです。
猿田彦神社の野村、笠形神社の下牛尾と河内が平田屋台のもとの所有者候補になります。
●井筒の紋は。。
この時に便りになるのが井筒についている神紋ですが、平田屋台には天神さんの梅鉢がついています。
猿田彦神社、笠形神社の近くにも天満宮はあるようですが、これでは候補の3台から1台に絞ることはできません。神崎郡の前は曽根天満宮の屋台だった可能性もあります。実はこの梅鉢紋で特定できることを期待して書き始めたのですが、期待はずれの結果となりました。
播州だけでなく全国的、全世界的に見ても、三木市大宮八幡宮の明石町屋台が類稀なる名屋台であることは論を待ちません。しかし、その素性は謎に包まれている所が多く、マツ(祭オタク)の頭を悩ませます。
その謎の1つが欄間彫刻四面中二面が何の場面なのかが明らかになっていないことです。片方は合戦物で、もう片方が祝物と呼ばれる場面ですが、具体的に何の場面かは詳しく分かっておりません。
しかも祝物の方は、人物が欠損しており、それが余計に解明を困難なものにしています。
⚫︎合戦物
↑不明場面、合戦物
①菱紋
そこで、不明場面のひとつである合戦物の場面の幟の菱形の紋を手掛かりに考えてみることにしました。菱形の紋には色々ありますが、代表的なのが四菱や花菱です。その菱紋を愛用していたのが、武田家です。四菱や花菱のように四つにわかれた菱形ではありませんが、人物を岩に変えるという荒技修理を行った業者が、四つに別れた菱を塗りつぶしたという可能性もあります。
合戦物二面のうち、わかっている場面は、武田信玄と上杉謙信が相対する川中島の戦いですので、同じく武田家の合戦を表したものである可能性は充分に考えられます。
②鹿の角の兜
もう一つの手がかりになるのが、鹿の角を兜につけている武将です。右手には細い棒のようなものを持っています。
武田氏と一戦を交えている、鹿の角の兜、細い軍配で浮かび上がるのが、長篠の戦いでの本多忠勝です。
③馬を駆り兵を吹っ飛ばす武者
そうなると、周囲の兵を吹っ飛ばしながら馬で突進するこの彫刻の主役は、武田方の武将の可能性が高くなりそうです。そこで、武田二十四士を調べていくと、馬場信春たる人物に行き着きます。
この人物を描いた浮世絵がこちら。彫刻の騎馬武者と浮世絵の構図が非常に似ていますね^_^
⚫︎祝物
↑祝物と呼ばれる不明場面 間違いが判明しました(T T;
先述の合戦物が、武田氏の長篠の戦いであることが分かってきました。既知の川中島の戦いも、上で判明した長篠の戦いも、合戦物二面は武田氏のものになります。
そうなると非合戦物二面も、同じ人物に関連した場面である可能性が高くなりそうです。既知の場面である「小督の局」に関連する人物を紐解きましょう。
↑小督の局琴引の場
小督の主役は小督の局本人と、馬に乗って笛を吹く源仲国、そして便りを寄こした高倉天皇です。「平家物語」では、高倉天皇の死後にその生前のエピソードを語る形で、「小督」の話が他の幾つかの高倉天皇の話と共に収録されています。
そこで、残っている彫刻の特徴を見いだし、それと「平家物語」の高倉天皇の説話に合いそうなものはないかを見ていきます。
彫刻の特徴
①腕を組む人物
顔が龍を彷彿とさせます。龍顔は天子の相とされ、「平家物語」の「小督」では高倉天皇が涙を流す様子を「龍顔より涙を流され」と表現しております。
おそらくこの腕を組む人物が高倉天皇であると思われます。
②高倉天皇に外での出来事を伝えようとしている人物
外での出来事を目上の人・高倉天皇に申し上げる=奏上しようとしています。
③建物と外の人々
立派な建物ながら都とは思えない立地です。また、建物の外にいる人たちも、内裏の周りというより、普通の村人と思われます。よって、天皇の外出先での場面と思われます。
上の彫刻の特徴①高倉天皇、②奏上、③旅先に合致する話を「平家物語」から探してみると、「高倉天皇の御衣の沙汰」という場面があたりそうです。
①高倉天皇の説話であり、②衣装を盗られ困っている女児がいることを奏上しています。そして、それは③方違えをした大原山中での出来事でした。
つまり、不明場面のうち、祝物と呼ばれていた場面は、「高倉天皇御衣の沙汰」の場面と言えそうです。
と、偉そうに宣いましたが、「祝物=高倉天皇御衣の沙汰」の月刊「祭」説は間違いでした。よくみるとこの彫刻の後ろに煙が出る建物があります。これは難波宮や竃の煙と呼ばれる説話をモチーフにしたものだそうです。 これは竃の煙も出ない民の生活を見た仁徳天皇。天皇は民の税を免除し、自らの屋根も葺き替えずに過ごしました。 その甲斐あって民の生活は向上し、民は感謝の貢物を持って仁徳天皇のもとを訪れます。 この物語の舞台は大阪の高津宮と言われています。この摂社には^_^「高倉」稲荷があり、小督の局とはやはり高倉つながりといえる。。のかもしれません。
⚫︎合戦物、非合戦物各二面の構図的な一致
合戦物二面は武田氏に関連したものでした。その構図は攻め入る騎馬武者を右に大きく配し、左に迎え撃つ武者を配しています。上の川中島では武田信玄本人が左、下の長篠の合戦では武田方の馬場が左に配されます。
非合戦物二面は高倉(天皇×かっこ内の言葉は間違いが判明した時点ではぶくべきですが、間違いの記録として残します。)に関連した場面です。いずれも左側が屋敷、右側に来訪者という構図になっています。上の竃の煙(×御衣の沙汰)は仁徳天皇(×高倉天皇本人)が屋敷の中におり、一方下の小督の局の方は高倉天皇の使いである源仲国が右側の来訪者となっています。
⚫︎編集後記⚫︎
今回は長年謎だった明石町屋台の欄間彫刻に挑みました。きっかけは、笑い飯の西田さんが武田氏と四菱について話している動画をみたことでした。
また、六月に西宮市の大市八幡神社の下大市太鼓台の調査に参加させていただいた経験も大いに役立ちました。欄間彫刻は源平物三点、神功皇后の応神天皇ご生誕です。これは源氏の氏神・岩清水社からの分霊をいただいたという大市八幡神社の創建伝説を反映していると思われます。
彫刻を一点一点見るだけでなく、他の面との関連性を見ることで、より彫刻の意図が見えたという経験がなければ、今回の発見にも巡り会えなかったと思います。
この場をお借りして、調査に誘ってくださったSさん、大市八幡神社の御神職さまに改めて御礼申し上げます。
間違い訂正後後書き かす谷氏の御著作に、祝物と呼ばれていた彫刻を難波宮としていました。また、青年団の先輩から、彫刻の屋根から煙が出ているという指摘を賜りました。 若い頃は間違いをすると落ち込むことが多かったのですが、悪い意味でもいい意味でも間違いに気づくことが楽しくなっている昨今です。
屋台だんじりの彫刻や刺繍には様々な、古典文学の名場面が描かれています。
多くは「××××、○○○の場などの場面の名前でよばれていますが、実際にその物語を本で読もうとしても、探すのに苦労見ようとすればがどのような書物に書かれているのか、代表的なものを見ていきます。
●今回は「源平物・平家物語」
いわゆる源平物と呼ばれる場面の数々です。
平家物語は同様の物語を三巻にわけたもの、六巻、十二巻に分けた物があるそうですが、今回は、十二巻に分けたものを取り上げます。
この十二巻にわけた平家物語のうち、どの話は何巻に出ているのかという案内です。
講談社学術文庫
さて、この案内にそってのおススメ本が講談社学術文庫の「平家物語」です。実際の十二巻分けの平家物語に対応し、全12巻になっています。この本のいいところは、それぞれの章に対応する現代語訳があるところです。
講談社学術文庫の平家物語。これが12巻まで続きます。
その他の平家物語
ざっと見るかがギリでは、十二巻に分けたものを元にしている物が多いようです。出版された本では、上中下の三巻だてでも、中身は12巻に分かれていたりします。
古本屋で買った昭和24年初版発行(写真は昭和48年新訂第四刷)の「平家物語」
校注:冨倉徳次郎(朝日新聞)
上中下の三巻分けですが、中身は十二巻分けにした中の何巻の部分かというのが書かれています。
●何巻に何の場面?
では、何巻に何の場面があるのかを紹介します。ただ、全部は紹介しきれませんので、ご理解のほど。書式は下のような感じで表します。
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×巻
●平家物語の見出し名---図柄の名称
写真
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四巻
●鵼---鵼退治
三木市岩壺神社東條町屋台高覧掛け
六巻
小督上、下---小督局琴の曲
三木市大宮八幡宮明石町屋台欄間彫刻
九巻
●一の谷の合戦---勢揃、老馬、一二懸、二度懸、坂落、薩摩守最後、敦盛最後、武蔵守最後
一の谷の合戦をめぐる諸所の場面は、好まれています。
●一の谷の合戦---敦盛最後
小野市久保木町住吉神社久保木屋台高覧掛
平敦盛
●一の谷の合戦---敦盛最後
小野市久保木町住吉神社久保木屋台高覧掛
熊谷直実
●坂落---鵯越の坂落とし
写真見当たりません・・・(どなたかご提供下されば・・・・)
欄間彫刻でよく見られる場面です。
●宇治川---宇治川先陣争い
三木市大宮八幡宮新町屋台旧水引幕
写真一番右の畠山重忠は馬を背負っていますが、「平家物語」では下のようにあり、馬は流されてしまっています。
畠山馬の額を箭深に射させ、よわれば、河中より弓杖をついており立ったり。--中略--
「餘りに水が駛(はや)うて馬をば押し流され候ひぬ。」
十一巻
●那須与一扇の的---扇
写真が見当たりません(T T;
●梶原景清錣(しころ)引き---扇
西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台欄間彫刻
●「平家物語」に出てこない場面
一方源平物の中でも、「平家物語」に出てこない場面もちらほらあります。
鷲尾三郎熊退治
この場面は平家物語には残っていません。
九巻「老馬」の条で、丹波路より鵯越までの道案内を義経一行が探している場面でこのような記述があります。
老翁一人具して参りたり。-中略-
「(老翁は)この山の猟師で候」--中略--
「(老翁に対して)汝先打ちせよ。」--中略--
「此の身は年老いて--中略--」
「さらば汝に子はなきか」
「候」とて、熊王とて生年十八歳になりける童を奉る。軈(やが)て髻とりあげ(すぐに元服させて)、父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、これをば鷲尾三郎義久と名乗らせて----
と、「熊王」という幼名の童が、義経軍の先達を勤めるためにその場で元服し、鷲尾三郎と名乗ったというストーリーになっています。
熊王の名前がやがて、熊退治伝説へと転化したと考えられます。
三木市大宮八幡宮明石町屋台旧高覧掛
平清盛日招き?
有名な場面ですが、書中より該当場面を探せませんでした。もしかしたら、所収されているかもしれません。
三木市岩壺神社東條町屋台水引幕
(碇知盛)平知盛が碇を持って、自ら沈む
平家物語では壇ノ浦の戦いに参加していないとか。
三木市美坂神社東這田屋台旧高覧掛
平家蟹が現れている好きな高覧掛の一つです。
義経の各逸話?
八艘跳びや、五条大橋、安宅の関などの話は探せませんでした。 「義経記」などには記載されているのかもしれません。
まとめ
必ずしも屋台・太鼓台やだんじりで人気の「源平物」が「平家物語」に即しているわけではないみたいです。
自分の町の屋台・太鼓台・だんじりの「源平物」、「平家物語」と照らし合わせて読んでみると、何か発見があるかもしれません。
●編集後記●
今回は簡単に終わらせるはずだったのですが、、なかなか、そうは問屋がおろしませんでした。
祭が近づいてきますが、屋台を動かすための飾りつけもなかなか簡単にはできません。
先輩から、どのように取り付けるかを教えてもらい、それを何年か続けてこそできるものです。
2月ほどまえの話ですが、新宿で女の子ばかり昏倒する事件がありました。
明治大学と日本女子大学は、事件性なしとしていますが、どうしても邪な意思を疑ってしまいます。
また、両大学の説明は、その疑いを晴らすために必要なポイント(1どのようにして、どのような目的でウオッカを飲ませたか 2何故ほとんど女子ばかりが倒れたか)を説明していません。報道の異常なほどの少なさにも恐ろしさを感じる事件です。
今号より記事名の表記方法を変えました。
月刊「祭」第×号2014.○月 ○○×題名×△△ としていたのを、
○○×題名×△△ 月刊「祭」第×号2014.○月 といった形式に換えました。
SNSなどで、記事名が後半省略した表記になっても大よその記事の内容をつかむことができるのではと思います。
プチ新体制となった月刊「祭」。今後ともよろしくお願いします。