月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

413.「流」れて一続きのだんじり彫刻(月刊「祭御宅」2023.6月1号)

2023-06-18 20:15:16 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-


●平野区のだんじり9台集合
-大阪市杭全神社夏祭前夜祭-
久しぶりの、月刊「祭御宅」。はい、なまけになまけました😫 山王戦の花道もびっくりなほど体重もリバウンドしました。あらゆる講演の準備、執筆は、滞りなく、すべて滞っています。つまり、いつもどおり元気です😖
今日2023年6月18日は、大阪市杭全神社夏祭(7月10日~14日)の前夜祭で、平野商店街に9台のだんじりがあつまりました。ゆっくりと、全だんじりを見れるまたとない機会、たんのうして気づいたことを書いていきます。
獅噛(しがみ)、拝懸魚(おがみけぎょ)、車板(くるまいた)
だんじりの正面の屋根上部から獅噛、拝懸魚、車板と呼ばれる部位です。獅噛は真正面の獅子など、拝懸魚は鷲など(昔は魚のもの?)、車板は龍や人物ものが多くつけられていました。くわしくは、下のウェブページを見てください。ようは、いろんなものが題材になっているのですが、基本、それぞれの場面は独立している、はずです。
が、流町、市町は、一続きになっており、珍しく「感じた」ので、紹介します。
もしかしたら、そこそこ多いかもしれないので、「感じた」としました。
馬場町だんじり↑↓
大阪型地車の各部名称と働き

大阪型地車の各部名称と働き

正面 地車正面 背面 地車背面 各部名称と働き このページのトップにもどる▲ 側面 地車側面 各部名称と働き

大阪市

●市町
市町は、後ろ側の獅噛と拝懸魚が一続きで、牛若丸と烏天狗です。下の岩根氏のサイトによると明治末から大正期の作品だそうです。
岩根氏サイト
流町
下の岩根氏のサイトによると、この作品は弘化三年(1847)の作品だそうです。
前面
獅噛は、須佐之男尊と八俣大蛇、拝懸魚は櫛稲田姫と八俣大蛇と酒樽、車板は特大の龍・八俣大蛇と、一続きになっています。
後面
車板は天狗の内裏、拝懸魚は牛若丸と烏天狗で、これも一続きの物語です。
では、獅噛は?? いかついおじさんが、鐘をかついでいます。これは、別の物語でしょうか??
よく見ると、長刀があります。これは、弁慶で、三井寺の鐘を延暦寺に運んでいる場面です。後面は一続きではありませんが、牛若丸と弁慶でニコイチの場面となっています。
流町のだんじり彫刻は、その名の通り、一続きの「流れ」に沿った彫刻といえます。
岩根氏サイト

394.朝日に向かう太鼓台(月刊「祭御宅」2022.8月3号)

2022-08-29 21:13:49 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●ちょうさ展 於:アクト琴平
ちょうさ展が香川県仲多度郡琴平町で9月15日まで開催されています。





素晴らしい作品を「ボンクラ管理人の解説なしで、写真だけ見る」が理想かもしれません。ですが、それはもっと理想的な現地に足を運んで実現していただければと思います。
ここでは、展示されている旭町太鼓台について見ていきたいと思います。

●旭町太鼓台の四神



旭町太鼓台のかけ布団には、多くの太鼓台や屋台のように四神が配されています。しかし、多くの太鼓台や屋台は図1のように南・朱雀を前面としていますが、旭町太鼓台は図2のように前が、東・青龍となっています。
それはなぜでしょうか?




前面の東・青龍(「旗岡太鼓台」の文字は、疫病退散のメッセージの送り主、太鼓台は旭町太鼓台)

左面・北・玄武

右面・南・朱雀

後面・西・(白)虎

●旭(あさひ)に向かう太鼓台
 旭町太鼓台が東の青龍を前とするのは、旭(あさひ)は東から上ることによると思われます。そして、旭町の町名は、金刀比羅宮内の摂社・旭社に由来すると思われます。

金刀比羅宮内の摂社・旭社

この旭社もまた、旭町太鼓台と同じく東側を向いています。旭社はの屋台は天保八(1837)年に再建されているので、太鼓台が旭社を踏襲したものなのでしょう。

旭社の地図(上が北、googlemapより)


編集後記
この記事は、展示があったからこそできました。情熱的にこの展示を実現されたK氏始め展示の関係者、そして琴平の祭関係者の皆様にお礼申し上げます。






336.一体型布団締め金具(月刊「祭御宅」2021.5月5号)

2021-05-12 19:41:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●復元された明石市穂蓼八幡神社先代屋台
今年1月11日に穂蓼八幡神社の先代屋台が復元されたというのは、こちらで書きました。
 この屋台の今ではおそらく見られない特徴的な点を見つけたので、書いていきます。ちなみに、太鼓台研究家のS氏らの執筆によるこの屋台の調査報告書も出ています。ちゃんと理解したい方はそちらがお勧めです。

 
特徴的な布団じめと布団じめ金具
現在見られる布団じめは、それを止める布団じめ金具とは分離しています。

 
 
 
穂蓼八幡神社先代屋台布団締め
 龍の布団じめは確かによくありますが、、
 
 
 
 よく見ると布団締めと金具が一体になっています。ベルトとバックルの関係として見ると、こちらが古い形のように思われます。また、屋根も木枠よりも本来の布団により近いものを使っていることを考えると、布団締めも一体化したものがより古いと言えるでしょう。
 金具と布団締めが一体になっているものから、分離したものへの変化は、布団締めが実用性から装飾性の強いものへの変化と言えるでしょう。



 

335.平田屋台はもともとどこの屋台==山車・だんじり悉皆調査と○○から考える=(月刊「祭御宅」2021.5月4号

2021-05-11 19:30:19 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

●唯一の梵天平屋根屋台

三木の平田屋台といえば、高木、大村とならぶ「よー担ぐ屋台」として三木の人には知られています。そして、高砂市曽根とか加西市北条などの反り屋根分布地域の人からすれば、平屋根やのに屋根には刺繍の布団締めではなく、エビ、シャチの金具の梵天がついていることに注目することでしょう。

このブログの読者なら平田屋台が反り屋根屋台であったことをご存知の方も多いでしょう。もしかしたら、昭和41年(1966)に屋台を神崎郡市川町から購入し、昭和53年に平屋根に改修したことも一般常識として認識している方もいるかもしれません。

反り屋根の平田屋台はこちら(YouTubeに動画をあげてるかたがいます。)

●では市川町のどこの屋台?

では、市川町のどこの屋台でしょうか?もしかしたら知っている人もいるかもしれないのですが、管理人は分からないので調べてみました。手がかりは、いわねえ氏の「山車・だんじり悉皆調査」。山車、だんじり、屋台などなどの全国の祭を調査しています。

その中の神崎郡のところを見ていきます。

 

売却でページ内検索

3件ヒットしましたが、全て福崎町のものでした。

 

廃絶でページ内検索

3件ヒット、うち2件が市川町のものでした。

 

猿田彦神社

1件は猿田彦神社で大河内町新野と野村が廃絶したそうです。そのうち大河内町新野は友人のご教示と管理人が実際に確認したところ、屋台前面の布団より下を絵馬に改造して奉納しています。なので、野村屋台が候補に上がります。

 

笠形神社

下牛尾、河内の2台が廃絶とのことです。

猿田彦神社の野村、笠形神社の下牛尾と河内が平田屋台のもとの所有者候補になります。

 

井筒の紋は。。

この時に便りになるのが井筒についている神紋ですが、平田屋台には天神さんの梅鉢がついています。

猿田彦神社、笠形神社の近くにも天満宮はあるようですが、これでは候補の3台から1台に絞ることはできません。神崎郡の前は曽根天満宮の屋台だった可能性もあります。実はこの梅鉢紋で特定できることを期待して書き始めたのですが、期待はずれの結果となりました。

 


329.明石市穂蓼八幡神社先代屋台の復元月刊「祭」2021.3月3号)

2021-04-01 00:42:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●明石穂蓼(ほたで)八幡神社屋台の復元
 2021年1月11日、明石市穂蓼(ほたで)八幡神社の先代屋台が明石布団太鼓プロジェクトと地元の方がよびかけ、自町をふくめた太鼓台、屋台の復元経験豊富西宮市大市八幡神社祭礼関係者の方々が作業の中心となって復元されました。



●欄干金具の文字
 「昔の本物布団から、枠組みのしっかりした現在のようなハリボテ布団の、過渡段階の布袋を四辺におく形式の屋根です。」といった屋台本体については報告書ができあがってるそうなので、ここではこれ以上ふれないようにします。
 とりあえずは、欄干の金具についてあれやこれや言うことにします。
 ま金具の動物を見ると、未、酉、辰、巳、丑など十二支の動物がいることがわかります。






 この漢字は乾(いぬい)と思われます。

 これはおそらく艮(うしとら)か坤(ひつじさる)でしょう。にた文字が二つありましたがどちらがどちらかは分かりませんでした。

 巽(たつみ)は見当たりませんでしたが、なくなってしまっている部分のどこかにおそらくついていたものと思われます。
●刺繍
 刺繍は龍の水引幕。円の龍は播州屋台では珍しいです。高覧掛けは海女の珠とり、三木では明石町と栄町の図柄です。淡路や四国で好まれる刺繍です。
 龍の鱗がへこんでます。この本によると古い手法だとか。実はこれについては詳しくご教示をたまわったこともあるのですが、この記事作成の目的できいたことではないので、これ以上はふれないようにします。



 
台車
 だんじりを思わせる台車です。明石にはこのての台車がけっこう残っています。おもしろいのは、このような台車を魚住や垂水などで「だんじり」と呼んでるとききました。案外台車の歴史はところによっては古いのかもしれません。






編集後記
 まずは、この記事作成のきっかけを下さった復元作業関係者の皆様方にお礼申し上げます。
 月刊「祭」といえば台車。ということで、最後は結局台車の話になりました。大慌ての3月3号。文章は31日23時40分出来上がりました。写真は4月になっての出来上がりです。夜明け前なので、セーフということにして下さい。

272.三田天満宮旧・南町だんじり、なぜ南嶽?(月刊「祭」2020.4月5号)

2020-04-30 18:16:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●三田が誇るだんじり文化
 三田市にも、独特のだんじり文化、太鼓台文化があります。今回の画像は全て三田天満宮の祭礼、2005年頃のものです。
①だんじりは、外ゴマの神戸市の東灘区で見られるものや、内ゴマのものがいりまじっています。
 

内ゴマの宮本だんじり 

外ゴマの西山だんじり
 
②太鼓台は屋根が分厚く、その分欄間・狭間がありません。担ぎ棒は井の字形に組まれています。
 

東区
 
 
③刺繍は元来、厚みのないものが多く、聞くところによると、京都の昔の日本刺繍のものが多数あるそうです。最近は見るかぎり厚みのあるものが。増えてきているように思えます。
 
●三田天満宮旧・南町だんじりの提灯(アクセス等)
 名品ぞろいの三田のだんじり文化の中でも、その代表格と言えるのが、三田天満宮の旧・南町だんじりです。詳しくはこちら(アニキ@川面東さんのサイト・非常によくできています。)で見るとよく分かりますが、弘化三年(1846)の非常に古い物です。
 刺繍の龍は祇園祭の山鉾を思い出させる物です。後の富士の巻狩りの刺繍は、有馬富士から連想したものかもしれません。
 


 
 


 
 では、なぜ、「南嶽」という文字があるのでしょうか。
 これは、だんじり創建の三年前まで三田藩主であった九鬼隆国(リンク先はwィキペディア)の隠居後の名前を取った物だと思われます。彼の隠居が、旧・南町だんじり制作3年前の天保14年(1843)です。「南」嶽と名乗った、藩校の発展などに寄与した地元の人物名をだんじりに刻むのは自然な行為だったのでしょう。
 


 
 
 ただ、提灯は、だんじり制作当時のものかどうかはわかりません。いずれにせよ、南嶽という地元の発展に寄与した人物を今も抱いて運行しているということは確かです。
 
編集後記
 新型コロナ禍で数々の祭が中止に追い込まれています。また、現在の日本のトップがこの新型コロナ禍にうまく対応できているとは到底できません。
 ちょっとした工夫で、感染のリスクを減らすのは、運転中にちょっとした確認で事故のリスクを大きく減らすことに似ていると考え、その方法を提示しました。それは、本来なら運送大手の企業のトップや、国交省がすべき政(まつりごと)ですが、そこまで手を回せないのが実状で、その関連の記事を書き続けました。
 
 でも、やっぱり、祭の記事が今月一本もないのは、やりきれません。新型コロナに月刊「祭」は飲み込まれていないことを示したいという思いから、一本書き上げました。
 
 
 
 

246.京都祇園祭二つの船鉾、鷁と龍の理由(月刊「祭」2019.12月9号)

2019-12-22 21:19:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●祇園祭二つの船鉾の船頭
 祇園祭には神功皇后の三韓遠征の行きを現した船鉾、帰りを現した大船鉾があります。夏頃にその工芸の見事さを記事にしました。今回は「なぜそれが使われているのか」について考えます。
 その題材は船の頭についているものです。では写真を見て見ましょう。 

↑船鉾の鷁

↑大船鉾の龍頭
 
なぜこのような龍と鷁が船頭に選ばれたのでしょうか。前の記事では平安時代には龍頭と鷁頭を一対にして航海の安全を祈る習慣があったと書きました。しかしこれらの船鉾、大船鉾の鷁と龍頭が作られたのは江戸時代後期。なぜこのような鷁と龍頭が復活したのでしょうか。
 
 たしかに神功皇后の三韓遠征図などには龍頭の船が描かれていたりもします。しかし、綺麗に揃う根拠としての文書を見つけたので紹介して見ます。
 
●「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」の牛頭天王伝承
 安部晴明が編集したと伝わり、じつは後の世の祇園社関係の方が書いたと考えられているようです。この中には祇園社の牛頭天王の伝承も記されています。詳しくは割愛しますが、この記事の主題に該当する部分だけ脇田晴子「中世京都と祇園祭」(中公新書)1999を参考にして、お話しします。
 ざーっくり言うと、祇園社の祭神でもある牛頭天王は、嫁さんを求めて旅しているときに、蘇民将来から用意してもらった船が「龍頭鷁首に似た船」だったそうです。
 船鉾、大船鉾ともに祇園祭の前祭、後祭の巡行でそれぞれ一番後ろを行く鉾です。このような重要な鉾だからこそ、牛頭天王の船に似せて作り替えられたのかもしれません。
 
 
 

213.旧姫路市大塩天満宮中之丁、現小野市葉多町所有綱水引幕(月刊「祭」2019.10月12号)

2019-10-31 23:02:00 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-
●絹常の故郷!?小野の祭展示 
 小野市立好古館では、「祭りとくらしの移り変わり 〜小野地区の近現代〜」という特別展が行われています。小野市内の小野地区と呼ばれる地域・中学校で言えば小野中学校区を中心とした地域の近現代史と祭りの展示です。
 今でも名門大学への進学者多数輩出する県下でも有数の公立名門校である小野高校の前身の小野中学の草創期の展示や、各地域で小規模ながらも大切されている行事の紹介がなされています。
 その中でも屋台大好きマツオタ垂涎の展示があります。一つが、小野天満宮の天神屋台の担ぎ上げているビデオです。伊勢音頭を歌いながらの担ぎ上げで、歌は三木の大宮八幡宮や岩壺神社などで歌われているものとかなり似ています。しかし、アヨイヤサーの掛け声はなく、延々と歌だけで担ぎ歩くというのは加東市の担ぎ方に近いと言えるでしょう。
 そしてそして、今回の見ものは何と言っても葉多町所有の屋台の水引幕、乗り子衣装、高欄掛の展示です。
 
葉多町の屋台の刺繍
 展示中のものなのであえて画像はなしで書いていきます。
 葉多町の屋台は神輿屋根型のものが担がれていました。現在もその担ぎ棒が荒神社に(アクセス)残されていました(管理人は2010年に確認)。葉多在住の友人は最近見たと2019年の十月に聞きました。
↑荒神社2010年
 
↑荒神社本殿
 
↑荒神社に残る練り棒。角棒であったようです。内グリがほどこしてあり、カンは現在のように棒先を覆っていません。
 
 
 高欄掛は武者ものでどこから購入したのかは分からないそうです。乗り子衣装と水引幕は昭和九年(1934)に大塩天満宮の中之丁より購入したものだそうです。
 
●綱のみの水引幕 
 -作られた背景-
 この水引幕は金色の注連縄が縫われているのみのものです。注連縄が縫われている作例としては加西市住吉神社の黒駒屋台の先代水引幕(綱の下に浜千鳥)がありますが、しるかぎりではこの二点のみで、かなり珍しいものと言えるでしょう。
 制作は大正十三年(1924)に社(やしろ)の縫師(といっても絹常ではないようです)に縫われたものです。となると大塩中之丁の水引幕だった時期はわずか10年ということになります。この10年で手放すことになる水引幕はなぜ作られたのでしょうか?
 その手がかりは水引幕を保存する道具に書かれていた文字です。
「御成婚ニ付新調 大正十三年六月」
大正十三年に結婚した人で「御成婚」という言葉を使っていることから、当時の皇太子・後の昭和天皇の結婚を奉祝するために作られた物のようです。
 注連縄は二束の藁をより合わせてより強固なものが作られます(参考)。その御結婚が幸せなものになり、国や大塩の地が繁栄することを祈った物だったのでしょう。このお二人は、関東大震災などで結婚が延期になっていました(参考: Wikipe●ア)。それだけに、二人の結婚は、復興の象徴そのものであったのかも知れません。
 その水引幕を受け継いだ葉多の地にも屋台はもうありません。しかし、祭の灯は消えずに葉多の地に受け継がれていくことを管理人は確信しています。
 
 
 
小野市立好古館 令和元年度特別展
 祭りくらし移り変わり
    〜小野地区の近現代〜
入場料 
 高校生以上300円 
 小・中学生100円(ココロンカードは有効)
  2019.10.5-12.8(日) アクセス




 
 

欄間彫刻不明場面解明? 三木市大宮八幡宮明石町屋台<月刊「祭」第35号 2014.解明特別号>

2014-11-02 10:04:30 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

 播州だけでなく全国的、全世界的に見ても、三木市大宮八幡宮の明石町屋台が類稀なる名屋台であることは論を待ちません。しかし、その素性は謎に包まれている所が多く、マツ(祭オタク)の頭を悩ませます。

 その謎の1つが欄間彫刻四面中二面が何の場面なのかが明らかになっていないことです。片方は合戦物で、もう片方が祝物と呼ばれる場面ですが、具体的に何の場面かは詳しく分かっておりません。
 しかも祝物の方は、人物が欠損しており、それが余計に解明を困難なものにしています。

⚫︎合戦物

↑不明場面、合戦物

①菱紋

 そこで、不明場面のひとつである合戦物の場面の幟の菱形の紋を手掛かりに考えてみることにしました。菱形の紋には色々ありますが、代表的なのが四菱や花菱です。その菱紋を愛用していたのが、武田家です。四菱や花菱のように四つにわかれた菱形ではありませんが、人物を岩に変えるという荒技修理を行った業者が、四つに別れた菱を塗りつぶしたという可能性もあります。
 合戦物二面のうち、わかっている場面は、武田信玄と上杉謙信が相対する川中島の戦いですので、同じく武田家の合戦を表したものである可能性は充分に考えられます。

②鹿の角の兜

 もう一つの手がかりになるのが、鹿の角を兜につけている武将です。右手には細い棒のようなものを持っています。
 武田氏と一戦を交えている、鹿の角の兜、細い軍配で浮かび上がるのが、長篠の戦いでの本多忠勝です。

③馬を駆り兵を吹っ飛ばす武者
 そうなると、周囲の兵を吹っ飛ばしながら馬で突進するこの彫刻の主役は、武田方の武将の可能性が高くなりそうです。そこで、武田二十四士を調べていくと、馬場信春たる人物に行き着きます。
 この人物を描いた浮世絵がこちら。彫刻の騎馬武者と浮世絵の構図が非常に似ていますね^_^

⚫︎祝物

↑祝物と呼ばれる不明場面 間違いが判明しました(T T;

 先述の合戦物が、武田氏の長篠の戦いであることが分かってきました。既知の川中島の戦いも、上で判明した長篠の戦いも、合戦物二面は武田氏のものになります。
 そうなると非合戦物二面も、同じ人物に関連した場面である可能性が高くなりそうです。既知の場面である「小督の局」に関連する人物を紐解きましょう。

↑小督の局琴引の場

 小督の主役は小督の局本人と、馬に乗って笛を吹く源仲国、そして便りを寄こした高倉天皇です。「平家物語」では、高倉天皇の死後にその生前のエピソードを語る形で、「小督」の話が他の幾つかの高倉天皇の話と共に収録されています。
 そこで、残っている彫刻の特徴を見いだし、それと「平家物語」の高倉天皇の説話に合いそうなものはないかを見ていきます。

彫刻の特徴
①腕を組む人物

 顔が龍を彷彿とさせます。龍顔は天子の相とされ、「平家物語」の「小督」では高倉天皇が涙を流す様子を「龍顔より涙を流され」と表現しております。
 おそらくこの腕を組む人物が高倉天皇であると思われます。

②高倉天皇に外での出来事を伝えようとしている人物
 外での出来事を目上の人・高倉天皇に申し上げる=奏上しようとしています。


③建物と外の人々
 立派な建物ながら都とは思えない立地です。また、建物の外にいる人たちも、内裏の周りというより、普通の村人と思われます。よって、天皇の外出先での場面と思われます。

 上の彫刻の特徴①高倉天皇、②奏上、③旅先に合致する話を「平家物語」から探してみると、「高倉天皇の御衣の沙汰」という場面があたりそうです。

①高倉天皇の説話であり、②衣装を盗られ困っている女児がいることを奏上しています。そして、それは③方違えをした大原山中での出来事でした。

 つまり、不明場面のうち、祝物と呼ばれていた場面は、「高倉天皇御衣の沙汰」の場面と言えそうです。
と、偉そうに宣いましたが、「祝物=高倉天皇御衣の沙汰」の月刊「祭」説は間違いでした。よくみるとこの彫刻の後ろに煙が出る建物があります。これは難波宮や竃の煙と呼ばれる説話をモチーフにしたものだそうです。 これは竃の煙も出ない民の生活を見た仁徳天皇。天皇は民の税を免除し、自らの屋根も葺き替えずに過ごしました。 その甲斐あって民の生活は向上し、民は感謝の貢物を持って仁徳天皇のもとを訪れます。 この物語の舞台は大阪の高津宮と言われています。この摂社には^_^「高倉」稲荷があり、小督の局とはやはり高倉つながりといえる。。のかもしれません。
⚫︎合戦物、非合戦物各二面の構図的な一致
 合戦物二面は武田氏に関連したものでした。その構図は攻め入る騎馬武者を右に大きく配し、左に迎え撃つ武者を配しています。上の川中島では武田信玄本人が左、下の長篠の合戦では武田方の馬場が左に配されます。



 非合戦物二面は高倉(天皇×かっこ内の言葉は間違いが判明した時点ではぶくべきですが、間違いの記録として残します。)に関連した場面です。いずれも左側が屋敷、右側に来訪者という構図になっています。上の竃の煙(×御衣の沙汰)は仁徳天皇(×高倉天皇本人)が屋敷の中におり、一方下の小督の局の方は高倉天皇の使いである源仲国が右側の来訪者となっています。




⚫︎編集後記⚫︎
 今回は長年謎だった明石町屋台の欄間彫刻に挑みました。きっかけは、笑い飯の西田さんが武田氏と四菱について話している動画をみたことでした。
 また、六月に西宮市の大市八幡神社の下大市太鼓台の調査に参加させていただいた経験も大いに役立ちました。欄間彫刻は源平物三点、神功皇后の応神天皇ご生誕です。これは源氏の氏神・岩清水社からの分霊をいただいたという大市八幡神社の創建伝説を反映していると思われます。
 彫刻を一点一点見るだけでなく、他の面との関連性を見ることで、より彫刻の意図が見えたという経験がなければ、今回の発見にも巡り会えなかったと思います。
 この場をお借りして、調査に誘ってくださったSさん、大市八幡神社の御神職さまに改めて御礼申し上げます。

間違い訂正後後書き かす谷氏の御著作に、祝物と呼ばれていた彫刻を難波宮としていました。また、青年団の先輩から、彫刻の屋根から煙が出ているという指摘を賜りました。 若い頃は間違いをすると落ち込むことが多かったのですが、悪い意味でもいい意味でも間違いに気づくことが楽しくなっている昨今です。


屋台・だんじりの彫刻・刺繍場面案内-「平家物語」編-<月刊「祭」第32号 2014.9月>

2014-08-13 11:27:16 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の題材-

 屋台だんじりの彫刻や刺繍には様々な、古典文学の名場面が描かれています。
 多くは「××××、○○○の場などの場面の名前でよばれていますが、実際にその物語を本で読もうとしても、探すのに苦労見ようとすればがどのような書物に書かれているのか、代表的なものを見ていきます。
 
●今回は「源平物・平家物語」
 
いわゆる源平物と呼ばれる場面の数々です。
 平家物語は同様の物語を三巻にわけたもの、六巻、十二巻に分けた物があるそうですが、今回は、十二巻に分けたものを取り上げます。
 この十二巻にわけた平家物語のうち、どの話は何巻に出ているのかという案内です。

講談社学術文庫
  さて、この案内にそってのおススメ本が講談社学術文庫の「平家物語」です。実際の十二巻分けの平家物語に対応し、全12巻になっています。この本のいいところは、それぞれの章に対応する現代語訳があるところです。
 
 
 

講談社学術文庫の平家物語。これが12巻まで続きます。

その他の平家物語
 ざっと見るかがギリでは、十二巻に分けたものを元にしている物が多いようです。出版された本では、上中下の三巻だてでも、中身は12巻に分かれていたりします。


古本屋で買った昭和24年初版発行(写真は昭和48年新訂第四刷)の「平家物語」
校注:冨倉徳次郎(朝日新聞)


上中下の三巻分けですが、中身は十二巻分けにした中の何巻の部分かというのが書かれています。

●何巻に何の場面?
 
では、何巻に何の場面があるのかを紹介します。ただ、全部は紹介しきれませんので、ご理解のほど。書式は下のような感じで表します。
------ 
×巻
●平家物語の見出し名---図柄の名称
写真
-----


四巻
●鵼---鵼退治

三木市岩壺神社東條町屋台高覧掛け

六巻
小督上、下---小督局琴の曲

三木市大宮八幡宮明石町屋台欄間彫刻


九巻
●一の谷の合戦---勢揃、老馬、一二懸、二度懸、坂落、薩摩守最後、敦盛最後、武蔵守最後
一の谷の合戦をめぐる諸所の場面は、好まれています。

●一の谷の合戦---敦盛最後

小野市久保木町住吉神社久保木屋台高覧掛
平敦盛

●一の谷の合戦---敦盛最後

小野市久保木町住吉神社久保木屋台高覧掛
熊谷直実



●坂落---鵯越の坂落とし
写真見当たりません・・・(どなたかご提供下されば・・・・)
欄間彫刻でよく見られる場面です。
 

●宇治川---宇治川先陣争い

三木市大宮八幡宮新町屋台旧水引幕

写真一番右の畠山重忠は馬を背負っていますが、「平家物語」では下のようにあり、馬は流されてしまっています。

畠山馬の額を箭深に射させ、よわれば、河中より弓杖をついており立ったり。--中略--
「餘りに水が駛(はや)うて馬をば押し流され候ひぬ。」

十一巻
●那須与一扇の的---扇
写真が見当たりません(T T;

●梶原景清錣(しころ)引き---扇

西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台欄間彫刻


●「平家物語」に出てこない場面
 一方源平物の中でも、「平家物語」に出てこない場面もちらほらあります。

鷲尾三郎熊退治

 この場面は平家物語には残っていません。
 九巻「老馬」の条で、丹波路より鵯越までの道案内を義経一行が探している場面でこのような記述があります。
 
 老翁一人具して参りたり。-中略-
 「(老翁は)この山の猟師で候」--中略--
 「(老翁に対して)汝先打ちせよ。」--中略--
 「此の身は年老いて--中略--」
 「さらば汝に子はなきか」
 「候」とて、熊王とて生年十八歳になりける童を奉る。軈(やが)て髻とりあげ(すぐに元服させて)、父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、これをば鷲尾三郎義久と名乗らせて----
  

 と、「熊王」という幼名の童が、義経軍の先達を勤めるためにその場で元服し、鷲尾三郎と名乗ったというストーリーになっています。
 熊王の名前がやがて、熊退治伝説へと転化したと考えられます。

三木市大宮八幡宮明石町屋台旧高覧掛



平清盛日招き?
 有名な場面ですが、書中より該当場面を探せませんでした。もしかしたら、所収されているかもしれません。

三木市岩壺神社東條町屋台水引幕


(碇知盛)平知盛が碇を持って、自ら沈む
 
平家物語では壇ノ浦の戦いに参加していないとか。

三木市美坂神社東這田屋台旧高覧掛
平家蟹が現れている好きな高覧掛の一つです。

義経の各逸話?
 八艘跳びや、五条大橋、安宅の関などの話は探せませんでした。 「義経記」などには記載されているのかもしれません。

まとめ
 必ずしも屋台・太鼓台やだんじりで人気の「源平物」が「平家物語」に即しているわけではないみたいです。
 自分の町の屋台・太鼓台・だんじりの「源平物」、「平家物語」と照らし合わせて読んでみると、何か発見があるかもしれません。 

●編集後記●

 今回は簡単に終わらせるはずだったのですが、、なかなか、そうは問屋がおろしませんでした。
 祭が近づいてきますが、屋台を動かすための飾りつけもなかなか簡単にはできません。
 先輩から、どのように取り付けるかを教えてもらい、それを何年か続けてこそできるものです。

 2月ほどまえの話ですが、新宿で女の子ばかり昏倒する事件がありました。
 明治大学と日本女子大学は、事件性なしとしていますが、どうしても邪な意思を疑ってしまいます。
 また、両大学の説明は、その疑いを晴らすために必要なポイント(1どのようにして、どのような目的でウオッカを飲ませたか 2何故ほとんど女子ばかりが倒れたか)を説明していません。報道の異常なほどの少なさにも恐ろしさを感じる事件です。


  今号より記事名の表記方法を変えました。
 月刊「祭」第×号2014.○月 ○○×題名×△△ としていたのを、
 ○○×題名×△△ 月刊「祭」第×号2014.○月 といった形式に換えました。
 SNSなどで、記事名が後半省略した表記になっても大よその記事の内容をつかむことができるのではと思います。
 プチ新体制となった月刊「祭」。今後ともよろしくお願いします。