月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

122.蜘蛛の伝説と天神-北野へ-(月刊「祭」2019.7月3号)

2019-06-30 14:48:45 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●明石町屋台の復活デザイン
明石町屋台が衣装物を新調して早、八年が経とうとしています。縫い物は、かつて使われていた題材を復活させました。水引幕は海女の珠とりで、先先代のテーマを再び新調しました。
そして、高欄がけ4枚中1枚も、先先代の屋台のデザインを復活させました。
その題材が蜘蛛退治です。
ここでは、蜘蛛退治伝説がいつごろできたのか、その後どうなったのかについて見ていきます。今回はその初見と思われる平家物語からです。



●源頼光蜘蛛退治

ー髭切、膝切-
 源頼光蜘蛛退治が載っているのは、平家物語や源平盛衰記などに載っている「剣」という条項の部分です。といっても、流布している文によっては、蜘蛛退治伝承が掲載されていないものもあるようです。ちなみに、東京大学国語研究室所蔵の覚一本と呼ばれる物には、掲載されていません。

 本文を全て引用すると長くなるので、省略したおおよその内容をお伝えします。
 多田満仲が源氏性を賜り、天下を守るものは良い刀が必要だと思うも、なかなかいい刀に巡り会えません。ある者が進言するには、「筑紫の三笠郡土山に異国の鉄の細工人がいます。かれにつくってもらうといいでしょう。」とのことです。それでもいい刀ができませんが、細工人が言うには祈祷してはいかがとのこと。細工人も八幡大菩薩にお祈りしました。七日目の夜の夢に言うには、
「六十日待ちなさい。そうすればいい剣を作れよう。」と
 そして、六十日目細工人は最上の剣をつくりました。満仲は慶びますが、、、、、試し切りとして罪人の髭と膝を切ります。そのことにより、髭切、膝切との名前がつきました。

-宇治の橋姫と髭切-
 源氏は満仲の息子の頼光の時代になりました。頼光の部下はかの四天王。(渡辺)綱、(坂田)公時(金太郎)、(碓井)末武、(卜部)貞道。貴船の社の計らいで女が生きながら鬼・宇治の橋姫になったといいます。

 ある日綱はお使いで一条大宮あたりのところを行くと、一条戻り橋のところで美しい女性に出会います。そして、その美しい女性こそが鬼になったその宇治の橋姫だったのです。綱はその腕を髭切で切り落とします。その腕は、なんと北野の社の回廊の星(欄干の擬宝珠でしょうか?)の上に落ちたといいます。

 その腕を安部清明に相談し、自宅に誰も入れずに綱は七日間腕を預かることになりました。七日目を明日に迎えたその晩、綱の養母がやってきます。断る綱にそれを嘆く養母。綱は家に入れます。そして、n鬼の手を見せると養母に見えた女はたちまち鬼に変わり、愛宕の山へ消えていきます。

 鬼の手を切って以来、髭切は鬼丸と名前を変えました。

-蜘蛛退治と髭切ー
 頼光が体調をくずし30日たった日の夜。七尺ばかり(約212cm)の背の法師が縄で頼光を縛ろうとしました。頼光は、膝丸で彼を切り伏せます。しかし、その法師の姿はなく、血の跡があるだけです。よって、血のあとを追うと北野の後ろに大きな塚がありました。塚を掘り返すと、なんと大きな蜘蛛がいました。この時より髭切は蜘蛛切丸と名を変えました。

 

さて、ここで気になるのは、北野です。なぜ北野が出てくるのかは、次回以降にします。

 

 

 



121.だん王法林寺四天王門(月刊「祭」2019.7月2号)

2019-06-30 11:48:06 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●寺院の仁王門
日本では多くの場合寺院の楼門には仁王さんがいらっしゃいます。



京都市光福寺



奈良県法隆寺

神社にも仁王さんがいることがかなり多かったと思われますが、明治期の神仏分離政策により、神社の仁王さんは破棄されたり、近くのじいんにあずけたりせぜるをえませんでした。

いずれにせよ、楼門には仁王さんがいるというのが一般的な認識と言って差し支えないでしょう。

●だん王法林寺の四天王門
ところが、京都市三条京阪近くのだん王法林寺は、四天王がいらっしゃいます。


増長天

広目天

持国天

多聞天

配置は下のように、それぞれの天が背中合わせで立っていました。



多聞天(北)↑ 通 持国天(東) ↑
広目天(西) ↓ 路 増長天(南) ↓

韓国には四天王門や天王門と呼ばれる門が沢山ありますが、四天王は内側、通路側を見ていていました。その点でも法林寺の珍しさが際立ちます。

だん王法林寺 京阪三条駅、地下鉄三条駅から徒歩2、3分。

韓国の寺院ではこんなかんじだったはずです。
とりあえず内側をむいています。
左多聞天 右持国天

左増長天 右広目天

日本の法林寺とは配置方法も違いました。
北↑
広目天(西) → 通 ←多聞天(北)
増長天(南)→ 路 ←持国天(東)


120.京都寺院雨水の処理方法(月刊「祭」2019.7月1号)

2019-06-30 11:21:15 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
雨の京都の東山三条界隈を巡っていると興味深いものを見つけることができました。これらが、京都の他の地域や京都以外でも見られるのか見られないのかは分かりません。よろしければコメント欄などでご教示願います。

●佛光寺本廟


樋から水をうけ、石の鉢でひとまず受け入れます。




●青蓮院門跡

「用水」とあるので何かに用いるのでしょうか


●だん王法林寺

下から上に降りてくる部分の樋ははずされたか、もともとないかでしょうか。


水が溢れると、決まった水路を流れるようになっていました。



一度石の入れ物に入れてから水路に水をやるという方法を三つの寺院では用いてました。

118. 祇園祭間近の京都(月刊「祭」2019.6月28号)

2019-06-29 22:22:29 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
明日から祇園祭が始まります。
京都の東、実質の中心地が最も熱くなる一月が始まります。
その前日の様子です。
あえて山鉾関係者ではなさそうな方を中心にしました。

●提灯取り付け
四条河原町あたりから東側の八阪神社前までを歩きました。


提灯取り付けです。
祭をするときの重点項目の一、どれだけ高いところに登れるか。祇園祭も例外ではありません。

朝になるとついていました。


地図でみると上が赤線、下が青線です。


賀茂川より河原町通りは上のような屋根の下に提灯がある飾り付けでした。橋をわたり東側の八阪神社まえまでの方は水引の間に提灯です。水引が紅白でなく紫白なのは、祇園祭が御霊会で祝祭ではない名残??



●大道芸
かつての无骨?を思わせる祇園社近くでの大道芸。祭まえだと熱が入るように見えるのは気のせいでしょうか。いろんな人が集まって、一つの祭になっていくんだと感じさせられます。


鰻谷饅頭氏のベースプレー。東儀秀樹さんとも共演歴があるそうです。ベースはカッコいいということに気づかせてもらえます。



某氏の水晶玉芸。見事な技。




●祇園祭に関して聞いた話
お店をだすことも考えたけど、衛生面を考えると難しい。

主役はお神輿

宇治市民にとって祭は祇園祭でなくて、あがた祭。








117. 都東側の三条小鍛冶番外-小狐と祇園会に残る藤原氏-(月刊「祭」2019.6月27号)

2019-06-29 12:34:24 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●道真太政大臣に
『日本紀略』正暦四年(993)十月廿日条
「重贈故正一位左大臣菅原朝臣太政大臣」
と、猛威を振るった道真の怨霊に、ついに太政大臣の地位を与える日がきました。
この時の天皇が小鍛冶宗近に刀剣作成を命じたとされる一条帝です。

●祇園会にほんのり残る藤原氏、かすかに残る道真

祇園会で神輿に匹敵して大切とされるだしものが、久世駒形稚児です。祇園社内で馬上渡御が許される唯一の人間(祭期間は神)です。


久世駒形稚児は京都市南西部の綾戸国中神社の国中神社より出されています。
由緒書き(後に別文献確認します。)を見ると、興味深いことが書いてありました。





国中神社は、もとはすぐ北の光福寺・こうふくじ境内にあったと言います。光福寺は、延暦寺が東北鬼門を守る寺院であるのに対する裏鬼門の守りの寺院であると言います。
ここには、祇園系寺院の藤原氏の氏寺伝承が今まで色濃く残っていると言えます。





そして、この、寺院の創建は浄蔵貴所となっています。浄蔵は道真の怨霊である火雷天神が清涼殿落雷で時平や醍醐帝を襲った時に、彼らを守るように祈祷を担った天台僧です。
本堂は蔵王権現、右側に浄蔵貴所がいらっしゃいます。


天神縁起では、蔵王権現が浄蔵貴所の弟・日蔵を冥界招待し、地獄の業火に苦しむ醍醐帝や大政威徳天となった道真と巡り会わせます。

つまり祇園会で最も重要な役割を果たす久世駒形稚児を出していた光福寺は、天神縁起絵巻そのものの寺院と言えます。このような伝承があったからこそ、摂関家の作刀伝承を持つ三条小鍛冶もまた、祇園社の長刀鉾の長刀として取り入れられたと言えるでしょう。


116.都東側の三条小鍛冶-祇園に組み込まれた小鍛冶-(月刊「祭」2019.6月26号)

2019-06-29 04:50:28 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
小鍛冶シリーズ再びです。
ここでは、三条小鍛冶宗近の伝承が祇園会と結びついた理由について考えます。

●時代が変わった三条小鍛冶宗近(詳しくは111号)
三条小鍛冶宗近が生きたとされる時代は、1367年頃は後鳥羽院(1180-1239)番鍛冶として記述されていました。ところが、応永三十年(1423)の奥書をもつ「観智院本銘尽」では
「一条院御宇 宗近 三条のこかちといふ 後とはいんの御つるきうきまるといふ太刀作、少納◻︎(言)入道しんせい(藤原通憲)のこきつね 同し作なり」
と、相槌稲荷伝承の設定に似たものとして語られています。
一条帝は980年〜1011年、永延時代存命な天皇なので、小鍛冶もまた永延の刀鍛冶として語られるようになりました。そして、小鍛冶が藤原家伝来の小狐の刀鍛冶としても語られるようになりました。
そして、小鍛冶が永延時代の刀鍛冶として語られるようになったことが、後に祇園会と小鍛冶が結びつくきっかけにもなったと考えられます。

●九世紀末の祇園社
では、小鍛冶が生きたと「された」時代に祇園社はどのようなことが起きていたのでしょうか。


天延時代
『日本紀略』天延二年四月七日条*29
「以祇園。天台別院」

とあるように、祇園社は藤原氏の氏寺興福寺の末寺から天台(延暦寺)別院となりました。
この頃の延暦寺は、座主の良原を中心に他の教団を圧し、末寺や荘園も増加し、世俗的にも強大な存在となっていました。ですが、檀越であった摂関家の援助に負うところが大きかったようです(編・青木和夫ほか『日本史大辞典6』(平凡社)1994)。

そして、
『日本紀略』天延三年(975)六月十五日条には、
「十五日丙辰。被公家始自今年。被奉走馬并勅楽東遊等御幣感神院。是則去年秋疱瘡御脳有此御願。」
昨年秋の疱瘡の悩みの祈願のために、公家が(祇園)感神院で走馬、東遊等、御幣を奉ずるのを今年より始められたとあります。「公家」の中心となったのは、祇園社が昨年まで氏寺・興福寺の末寺であったこと、昨年より祇園社が自分たちが経済の後ろ立てとなった延暦寺別院だったことを考えると、藤原氏であると考えられます。かつての氏の長者・時平が作った道真の怨霊であったと考えるのが自然でしょう。
しかもその六年前(安和二年、969)、当時の氏の長者であった藤原伊尹の時代に安和の変がおき、源高明が太宰府に左遷されました。天禄二年(971)には罪を許されて帰京し、そして祇園会が定例化された年の八月には封300戸が与えられます。
源高明の太宰府への左遷劇もかつての道真を想起させたことでしょう。高明の帰京、封の付与はそのような悪いイメージを払拭し、祇園会の定例化で道真の怨霊を慰撫したと考えて差し支えない。。。?と思います。多分。いやもしかしたら、ひょっとしたら、。




天延時代別伝
元亭三年(1323)頃成立した、社務執行晴顕筆の祇園社の歴史を記した『社家条々記録』によると、
「天延二年六月十四日、被始行御霊会、即被寄附高辻東洞院方四町於旅所之敷地、号大政所、当社一円進止神領也」
とあり、天延二年(974)に御旅所が設置されたとあります。
「日本紀略」より一年早いですが、祇園会が定例化による御旅所の設置伝承と言えるでしょう。
 そして、江戸時代に祇園社に伝わる社伝を集めた『祇園社記』にもその御旅所についての記述が見られます。その文は以下のとおりです。
「当社古文書云、円融院天延二年五月下旬、以先祖助正居宅高辻東洞院為御旅所、可有神幸之由有信託之上、後園有狐堺、蜘蛛糸引延及当社神殿、所司等怖之、尋行引通助正宅畢、仍所司等経 奏聞之劇、以助正神主、以居宅可為御旅所之由被 宣下之、祭礼之濫觴之也、自余以来不交異姓、十三代相続、于今無相違神職也云々、保元馬上 差始之、助正、助次、友次、友正、友延、友吉、友助、助氏、助重、助直、助貞、亀壽丸、顕友」

 蜘蛛の糸を手繰っていくと現在の御旅所である助正の居宅で糸が終わっており、神託どおりそこを社殿とした。助正の子孫がその社の神主となりそれを世襲しているといった内容の文章です。


これらのことから、江戸時代まで、祇園会の定例化が天延期になされたことは伝わっていたことがわかります。
祇園会の定例化は、小鍛冶が活躍したとされる永延時代にもかなり近くなります。このような祇園会定例化の史実や伝承が伝わり続けたことにより、小鍛冶の伝承が長刀鉾の長刀製作伝承につながっていったと思われます。






115.大市八幡神社太鼓台(月刊「祭」2019.6月25号)

2019-06-26 04:50:49 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●大市八幡神社太鼓台(元下大市八幡神社太鼓台)復活その後

2017年7月に見学させていただいた後、2018年10月にも見学させていただきました。その後の変化について報告します。
昭和40年代に動くことはなくなって以来、50年ぶり2014年頃に復活しました。

●担がれた太鼓台、走る太鼓台


以前はあまり担がれていませんでしたが、今回は走り、担がれが多くなっているように感じました。
それに伴い、掛け声はリズミカルになっていました。

●地域としてのまとまり
祭りを通して、地域としてのまとまりができているのかもしれません。12月には、注連縄作りをみんなでしていました。

114.都東側の三条小鍛冶-平安の春日社としての祇園社-(月刊「祭」2019.6月24号)

2019-06-23 23:20:51 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

祇園社や祇園祭と藤原氏の関係はどうなのか、を見ていきます。そして、次号以降で小鍛冶伝承と祇園会が結びついた背景も考えます。

●平安京の春日社としての祇園社  

 鎌倉期あたりに編纂されたと言われる「社家条条記録」(『増補 続史料大成 第四十四巻(八坂神社記録二)』(明文堂)1978) によると、祇園社の前身の観慶寺(別名・祇園寺)の創建伝承に、藤原基経(時平と唯平の父)の土地を寄進したという伝承が残っています。 そして、平安末期に編纂された「今昔物語集」の三十一巻二十四にはの「祇園成叡山末寺語」では 「今昔祇園は本山階寺(興福寺・藤原氏の氏寺)の末寺にてなむありける と昔祇園は興福寺の末寺だったと書いています。それがやがて、比叡山の末寺になるというのが、この物語のストーリーです。「日本紀略」では天延二年(974)に祇園が天台別院となったとしており、逆に言えばそれまでは興福寺の末寺だったことになります。藤原氏の氏社である春日社は、興福寺系統の神社でした。都の東側という位置も春日と祇園社では共通します。つまり、祇園社は平安京版の春日社であるとも言えるでしょう。 では、興福寺の末寺の時代、祇園社ではどのようなことが行われたのでしょうか。 ↑2018年再建中だった興福寺の金堂

●祇園社での祈り ・忠平の奉幣

藤原時平の弟・藤原忠平の日記『貞信公記抄』延喜二十年(920)閏六月二十三日条 「為除咳病、可奉幣走祇園之状、令真祈申、又令鑒上人立□送願」 咳病を取り除くために祇園社に奉幣したとあります。その11年前に時平、7年前には道真追放一派の右大臣源光が泥沼に溺れこの世をさっていました。咳病もまた、道真の祟りとして考えられていたのかもしれません。 しかし、その三年後、延喜二十三年(923)三月二十一日、道真追放時から当時も在位していた醍醐天皇の皇子で、そして時平の甥でもある保明親王がこの世を去ります。これらの怨霊の猛威を恐れたのでしょう、太宰の権帥として左遷された道真は、その年の四月二十日、追放前の官位である右大臣にもどされました。道真死後二十年のことです。 しかし、怨霊の猛威は止まりません。二年後は保明親王の子・頼康親王も幼くしてこの世をさりました。そして、延長八年(930)。有名な清涼殿(醍醐天皇の住まい)落雷事件が起きます。

天神縁起絵巻承久本

その年に醍醐天皇もこの世を去り、後に作られた天神縁起などでは、醍醐天皇もまた地獄の業火に焼かれることになります。

延喜帝(醍醐天皇)さえも地獄の業火に(英賀神社本 永正本)

参考文献および、本記事以上の全ての絵の写真の引用 「日本の美術 299 絵巻=北野天神縁起」 (至文堂) 1991

・東西賊乱の東遊走馬十列

『日本紀略』天慶五年(942)六月廿一日条
六月廿一日癸酉。奉東遊走馬十列於祇園社。東西賊乱御賽
とあるように、「東西の賊乱」をおさめるための祈願が、成就した祭礼「御賽」をおこなっています。 西の賊乱は藤原純友の乱、そして東の賊乱は平将門の乱です。 平将門の乱後まもなく成立したとされる「将門記」では、「新皇」を名乗った将門に対して道真の霊がしたことが残っています。 「平将門其位記左大臣正二位菅原朝臣霊魂表者右八幡大菩薩」 訳があっているかは分かりませんが、「平将門にその(新皇)の位記を左大臣菅原道真の霊魂が八幡大菩薩の名の下に表した。」少なくとも新皇の位記に道真が関わっていることはわかります。 道真の怨霊が関わっているとされる将門の乱平定に関する祭や、道真猛威を奮っている時代の祇園社の隆盛は、祇園社が道真の怨霊を意識した祭礼を興福寺末寺時代に行なっていたことが見てとれます。 では、上記の祇園社で道真の怨霊の平定がなされようとしたことは、小鍛冶の相槌伝承や長刀制作伝承、「小狐」の道真怨霊平定伝承の時代まで意識されていたのでしょうか。 続きは次号よりあとになります。次号、次々号は少し短めになます。


113.都東側の三条小鍛冶-小鍛冶と祇園、もう一つの小狐伝承-(月刊「祭」2019.6月22号)

2019-06-23 14:37:36 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●小鍛冶と祇園
祇園会の長刀鉾に小狐を打ったとも言われる小鍛冶の伝説が結びついたのでしょうか。

●感神院新宮
粟田神社付近は小鍛冶の邸宅跡と伝わっています。そして、粟田神社はかつては感神院新宮などと呼ばれていました。感神院とは祇園感神院、つまり祇園社のことで、史実の真偽は別として、江戸期に信じられていた小鍛冶という人物は祇園系の神社のお膝元で刀を打っていたことになります。そうなると、長刀鉾の伝説と結びつくのもある意味自然なことと言えるでしょう。





●「戴恩記」の小狐伝承
相槌稲荷伝承によれば一条帝の時代に三条小鍛冶が作ったという小狐には、もう一つの伝承が生まれました。
「戴恩記」天和二年(1682)には、
天子には三種の神器有。臣下には三宝あり。三宝と申は、一には大織冠の御影、二には恵亮和尚の遊ばされし、紺紙金泥の法華経、三には小狐の太刀なり。此小狐の太刀と申すは、菅承相百千の雷となり、朝廷を恨み奉り、本院の時平公を殺し、晝夜雨風やまず。おそらしかりし此のなかにも、猶はたゝお神のおびたゞしく御殿さくる計になりさかりし時、御門大いにさはがせ給ひ、『今日の番神はいかなる神にておはするぞ』と貞信公にとはせたまへば、御はかしのつかゞしらに、白狐の現じ給ふを見て、『御心安くおぼしめされね。稲荷の大明神の御番にておはす』と答へ給ひければ、程なく神もなりやませたまひ、雨も晴れはべしとなり。其御太刀を小狐の太刀とは申侍る。
と、小狐の太刀は、大織冠御影(鎌足の絵?像)、恵亮和尚の持っていた紺地金泥の法華経と共に臣下三宝の一つとなっていました。そしてその刀を持っていたのは一条帝(980-1011) よりさらに時代を上る藤原忠平(880-949)です。時平を祟り殺した道真の霊を恐れた御門(天皇)は、忠平に今日の番をしてくれる神さんは誰やとたずねます。すると藤原忠平の太刀に小狐が現れたので、お稲荷さんだも答えたことが、その刀の名の由来となったとしています。
ここで道真の怨霊が出てくるのは、小狐が藤原氏伝来の刀だったことによるものでしょう。


次号では祇園信仰と藤原氏の関係を見ていきます。







112.京都東側の三条小鍛冶-弁慶から和泉小次郎へ。長刀鉾の長刀-(月刊「祭」2019.6月22号)

2019-06-22 17:06:26 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

前号では、小狐の刀にまつわる伝承を見てきました。ここでは小狐や三条小鍛冶の伝承がどのように変容したのか、それは何故なのかを考えます。

●長刀鉾の長刀、持ち主の推移
三条小鍛冶宗近で祭オタクとして忘れてはならないのが、長刀鉾の長刀の奉納です。「祇園御霊会細記」などによると、祇園社(八阪神社)に小鍛冶本人が奉納したと伝わっています。しかし、その長刀は我々はみることはできません。
宝暦七年(1757)の祇園御霊会細記には、長刀が小鍛冶によるものであることが書いてあり、小鍛冶が稲荷を信仰していたことが書いてあります。また「世に伝えて稲荷明神鍛冶小槌を合わせ給へりといふ」とあり、稲荷が相槌を小鍛冶の相槌をつとめたことも書いてあります。


「祇園祭細見」では、文化11年(1814)の「増補祇園御霊会細記」や「祇園山鉾考」大正元年(1912)を参考にして、
「小鍛冶宗近が娘の病気平癒を願い、祇園社に長刀を奉納したことが書かれてあります。また、後に和泉小次郎親衡はこの長刀を所望し愛用したが、何かと異変が起こり、祇園社に返納することにした。だが、一時預かった長刀鉾町で長刀は重く動かなくなったので、神意によりここにとどまることになり、長刀鉾ができた」
という伝承が残っていると書かれています。ですが、「増補祇園御霊会細記」を実際に見ると、「三条小鍛冶宗近の長刀を元々和泉小次郎のもので、家臣の勧めに従い祇園社に奉納した。疫病がはやってこの長刀を持ち出すと疫病は病み、祇園社に持ち帰る時に現長刀鉾町の地から動かそうとすると、重くなって動かなくなったことなどが書かれています。とあります。
いずれにせよ、持ち主は和泉小次郎たる人物となっています。

ところが、延宝六年(1687)の「京雀跡追」(『新修京都叢書第一』(臨川書店)1967 所収)では
くじとらず一番にわたす長刀はむさし坊辨慶か持し長刀也-〈中略〉- 古へより有けるはふかく町内に納置けるよし是三條小かぢむねちかうちたる長刀なり
とあり、小鍛冶の打った長刀であること、そして持ち主は弁慶だったと書いてあります。
そこで先述の宝暦七年(1757)の祇園御霊会細記では鉾部分の中程の天王像を見てみましょう。長刀を持っています。頭には烏帽子風のものがあり、僧というよらも武者風ですので、この時点では和泉小次郎と伝わっていると思われます。また、和泉小次郎は船を担いだとの伝承が伝わっており、よく見ると船を担いでいる様子が分かります。


では、なぜ長刀を持っていたとされる人物が弁慶から和泉小次郎に変わったのでしょうか。それを教えてくれるのは、宝暦三年(1753)に新たに長刀鉾にとりつけられた長刀です。
宝暦七年(1757)の「祇園御霊会細記」の長刀鉾のページの最後にはこのような記述があります。
當時鉾の上にあるハ延宝三年(1753)あらたに作る法橋和泉守来金通作にて真の小鍛冶か作ハおさめ置也
とあります。この長刀は、現存しております。

 

また、「京雀跡追」を見ると
「比より伊賀守金通打上けるをほこのさきにさすといふ」
とあります。伊賀となっているのは、現存の長刀から考えると、活字版を書籍として発行する時か、当時の著者の間違いだと思われます。
つまり、延宝三年に和泉守を名乗る者によって長刀が作られ、そのことにより小鍛冶の長刀を持っていたと者も、混同か和泉守の権威付けのためによって、弁慶から和泉小次郎に変化したと考えられます。

思わず長くなったので、次号は小狐のもう一つの伝承と、小鍛冶、小狐伝承の背景について考えることにします。