月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

236.徐福が求めた永遠の命-丹後新井崎(ニイサキ)の土-(月刊「祭」2019.11月20号)

2019-11-27 17:06:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●新井崎神社
 丹後半島の新井崎神社付近にはざーーっくりいうと下のような伝説が残っています。
---
秦の始皇帝の命令で永遠の命を保証する薬を求めて旅していた徐福が、このあたりに流れ着いた、それを地元の人たちが匿った
---
といったものです。
というわけで、写真を見ていきます。

↑新井崎神社本殿

●西の異国から見た日本
 日本から見た西の異国

↑鳥居の向こうは日本海。そのはるか向こうは、朝鮮や徐福の故郷「秦」があります。
 秦からすれば、日本は永遠の命が保証される薬があるかもしれない国でした。
 一方で日本から見た異国はまさしく極楽浄土の象徴でした。丹後国の天橋立では、平安時代に迎え講という阿弥陀仏来迎を表す儀式が行われました。浦島伝説ものこり、いつの間にか数百年生きた浦島も永遠の命への信仰を連想させます。これらについての記事はこちらをどうぞ
 日本から見た極楽浄土への想い、異国から見た永遠の命への願いの交流点の一つが新井崎神社周辺だったと言えるでしょう。では、なぜ、その交流点に新井崎神社(にいさきじんじゃ)近くが選ばれたのでしょうか。

●徐福到来の地 -新井崎(ニイサキ)考-
 そこで、もう一度新井崎神社近くの徐福到来の地を見てみましょう。



↑隠れ住んだとされる岩の洞窟です。


↑海はすぐそばです。


↑足元を見ると土があかいですね。

↑落ちていた石を拾うと。。

 徐福到来の地だけに、海のそばなのは分かります。さらに、そこにある赤い土はおそらく水銀だと思われます。水銀は丹薬などとして中国などでは永遠の命の薬として研究されていたそうです(参考はもちろんウィキ●ディア)。
 こなような水銀のある地だから、徐福到来の地として伝わったものと思われます。そして「ニイサキ」は元々「ニウサキ・丹生崎」という意味合いがあったのかもしれません。


















235.韓華日提灯くらべとその進化と退化(月刊「祭」2019.11月19号)

2019-11-25 20:34:00 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-
●アジアの提灯
 灯りをとったり、はたまた信仰の対象だったり、はたまた灯籠流しをされたりと、提灯はアジアの祭や法会と共に歩んできました。そんな提灯の様子を見ていきましょう?
 
●韓
 a.ソウル特別市曹渓寺(詳細)
↑燃燈会でも知られている寺院なだけに、いくつもの複雑な形の提灯が作られていました。華やかですが、収納には不向きです。日本のネプタやキリコに近いものと言えるでしょう。

b.水原華城近くの寺院

↑極楽往生(극락왕생・ククラッグァンセン)の文字が書かれています。日本でも見られる伸び縮みする提灯で、収納に適しています。
 
●華
 タイ、バンコクで
c

↑形は上の韓国のもので言えば、aに属しますが、折りたたみはできなそうです。また、紙ではなく、より丈夫な素材でできているようです。
 
d

この記事で既出の写真ですが、より衣裳を凝らせたものになっています。
 
 一方、チェンマイで行なわれると呼ばれる灯籠流し(?)の一種では、簡素な灯籠を空に飛ばして魂を送り返しているようです。
 
eコムローイ祭
(埋め込み動画は近畿日本ツーリストのユーチューブ動画)
 
 
●日
 このブログをよくご覧になる方の多くは、何らかの形で提灯を手にしたことのある方が多いと思われます。ひとまず見ていきましょう。
 
f伸縮自在

↑神戸市東灘区東明だんじり
 だんじりや太鼓台・屋台にも提灯は好まれて使われています。
 
↑小野市久保木町住吉神社。神社の入り口や村の境目に祭前になると提灯を取り付けるために屋根が取り付けられます。姫路市などでは、ニッサなどと呼ぶようです。
 

↑小野市久保木町住吉神社。拝殿にもいくつもならびます。


↑全て伸縮可能です。



↑もともと三木市大宮八幡宮明石町屋台に取り付けられていた夜提灯も伸縮自在です。

g伸縮できないもの
 伸縮できないものは、片付けが不便ですが、制作が比較的容易になります。これをさらに簡素にしたもので、直方体のものになると、さらに制作もしやすくなります。また、一枚物の絵がかけるので、子供たちに絵を描いてもらい祭で飾ったりもしています。



h伊達提灯
 さて、播州地方の布団屋台は、四隅に提灯を取り付けます。その時に、絹常をはじめ、京都からも学びにくる優れた刺繍業者を輩出した播州だけに、提灯も刺繍で飾られるようになりました。一方で、灯りを灯すことはなくなりました。明石町などは、夜提灯と取り替えて使用しており、昔はそういう地域が目立ちました。最近は自ら光らなくなった提灯をライトアップする屋台も出てきました。





 

↑ライトアップされる岩壺神社滑原屋台と提灯

↑ライトアップされる岩壺神社芝町屋台と提灯
 
提灯の進化
 提灯はそれぞれに進化してきました。
 どのような進化があるのかまとめてみましょう。
 
1収納の進化
 bとfに見られるように伸縮できるものが好まれて使われます。こうすることでたくさんの提灯を小さいスペースに収納できます。
 
2飾の進化(絵画型)
 aとgに見られるように、平たい面に絵が描きやすい提灯も作られています。和紙などで作られているようで、毎年作ら変えられるものに多そうです。
 
3耐久性の進化
 より丈夫に作り上げ、常時飾れるようにしたものです。この記事ではdとeが当てはまります。日本でも居酒屋など年中飾ってある提灯は紙以外の素材でできていたり、何らかの加工が加えられていたりするようです。
 dとeの場合は複雑なデザインのまま耐久性もあるものを作っているようでした。
 
4物理的な性質を利用した進化
 eは、暖かい空気が上にいくという性質を利用しています。極力無駄を省いた状態で空に浮かせる工夫がなされています。
 
5楽しみとしての進化
 おそらく、灯籠流しとして川に流されたり、燃やされたりしたであろうものが、eはさらに飛ばされています。
 aやネプタは、その細工の見事さで競い合っています。
 そして、姫路市魚吹八幡神社では提灯練りと称して、提灯を一斉に壊す儀式もあります。これも、灯籠流し的な行事が「楽しみ」として進化したと言えるかもしれません。
 
 
 
6飾りの進化と自光機能の消滅
 播州では、華やかな刺繍文化が花開き、明治期頃からか、自分では光らない伊達提灯が使われるようになりました。今は、提灯が照らされてライトアップされるようになっています。
 
 


 
 

234.日泰眷属ネズミ比べ(月刊「祭」2019.11月18号)

2019-11-25 01:52:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●タイ(ヒンドゥー教?上座部仏教?)のガネーシャ神とねずみ
 ヒンドゥー教国でもあるタイのバンコクには、人身像頭のガネーシャ神がよくまつられていました。その中で管理人が宿泊したホテルの敷地にあるガネーシャ神の足元には、かんのネズミちゃんたちがいます。
 このサイトによると、退治した悪魔をガネーシャがネズミの姿に変えて、ヴァーハナ・神の乗り物としたと伝わっているそうです。また、なずみは暗い所を象徴することもあるそうです。
 さらにこちらのサイトによると、ガネーシャの別名をヴァーマムカといい、ヴァーマは「北」を象徴するそうです。



↑よく見ると宝物を持ってきていて健気です。↓


●京都大豊神社のこまねずみと祭神
 京都市内の大豊神社(こちら)摂社の大国主神社も狛鼠がその前にいます。大国主命は記紀神話などによると、素戔嗚命に周りに火をつけられるも、ねずみの案内で助かったという伝承が収録されているそうです。








大国主と同じ読みになる「大黒天」もねずみと関係が深く、ネズミが米俵の周りをうろつくデザインの絵画がこのまれるとのことです。このデザインは中国でもこのまれていたそうです。
 中国ではねずみは十二支のうちの「北」をさし、大「黒」天の黒も北を表す色となります。つまり、大黒天が道教や陰陽五行思想によってねずみと結びついて行ったようです。
 インドのほうでもねずみを従えていたガネーシャもまた、北を表す神であるのは興味深いでしょう。

●チベット仏教では。。
 チベット仏教ではマハカーラがガネーシャを調伏した姿で描かれることが多いようです。では、このマハカーラたら神様は何者でしょうか。実はこの神様は大黒天のインド式の名前だそうです。参考
 ネズミを従えると伝わるのは、タイやヒンドゥー教国ではマハ・カーラに調伏されたガネーシャがねずみをつかっていました。
 一方日本や中国では大国主・大黒天・マハ・カーラ自身がねずみをしたがえました。
 そして、日本や中国ではねずみは北の方角を表します。インド・タイなどではガネーシャの別名ヴァーマ(北)・ムカに北の意味を込められていました。北の方から福や宝物を持ちくるものとして、大黒、ガネーシャ、ねずみは良く考えたものだったのかもしれません。

●有名な泥棒の名前
 さて、かの有名な泥棒の次郎吉さん。彼もまた宝物を運びくると伝わる「ねずみ」の名が欲しかったのかもしれません。ねずみ小僧次郎吉の墓が兵庫県三木市慈眼寺(アクセス)にも残っています。
 



↑三木市の慈眼寺にのこるねずみ小僧次郎吉の墓。下にねずみがいます。(アクセス)


233.バンコク、敗れ去った者の鎮魂廟(月刊「祭」2019.11月17号)

2019-11-22 15:15:41 | コリア、外国
●バンコク・チャオプラヤー川沿いの中国式の廟
 前号に書きましたが、タイには華人が昔から入ってきていて、中華文化の影響が色濃く残っています。そして、その中華文化を用いて、とある鎮魂が行われていると管理人が「妄想」したので、報告します。
 その廟はバンコクのチャオプラヤ東北岸、ワット・ポーの西側、そして川の向こう側には、ワット・アルンにありました。ワット・アルンとワット・ポー、二つの寺院に囲まれた、バンコクでの鎮魂廟?について考えます。


↑チャオプラヤ川東北側のワット・ポー

↑チャオプラヤ川西南側のワット・アルン


●昭帝爺廟
 その廟は下の地図の位置にあります。





↑中国式の廟と言えます。昭帝爺廟!?


↑狛犬もいます。阿吽という違いではなく、玉を咥えているかいないかの違いです。

●「昭帝」の生涯とその後、そして「昭帝爺廟」の立地
 では御本尊を見てみましょう。

↑御本尊は、中華風というよりタイ風に見えます。そして、武将姿になっているのが分かります。この武将は「昭帝爺」ということになります。帝の文字があるということは、王位についたことのある方だと思われます。タイの王族は清国に対して漢字で名前を名乗ることもしていました。
 そこで、管理人の御用達サイトで調べると鄭となのっていた王様を見つけました。タークシン王です。つまり、上の御本尊はタークシン王ということになります。
 さらに、上記御用達サイトで彼の人生とその後をまとめてみましょう。また、この動画も参考にしました。

 タークシン王は華僑で、タイ族の官吏の養子となったことがきっかけで、国家の要職を歴任することになりました。アユタヤの知事に赴任しようとした時に、ビルマとの戦争に参戦。大砲を当時の王の許可なく発砲で左遷。その後華人を集め挙兵し、チャオプラヤ川をのぼり再びアユタヤへ戻るが、もうアユタヤは荒廃していました。そこで、現在のバンコクの対岸あたりにトンブリー王朝を興し、アユタヤを奪還などを経てタイを統一、駐留していたビルマ兵も追い返します。
 タークシンは、ワット・アルンの修復など仏教を保護しました。さらに、「ラーマキエン」と呼ばれる民族的叙事詩の編纂などを経て、タークシンは一躍英雄となりました。
 しかし、タイ族でもなく王朝の血を引いておらず、王の血筋の者たちに快く思われていなかったタークシンは心を病み始めたと言います。それは、自らを拝むように僧に強制し、従わないものを処刑するなどの暴政に転じました。
 この暴政を見かねたのがチャオプラヤー・マハーカサット・スック・後のラーマ1世です。彼は、タイ王室の血を引き、タークシンの片腕として各地を転戦してきました。彼が、トンブリーにもどり、タークシンを処刑したそうです。その後、チャオプラヤー・マハーカサット・スックはトンブリーの対岸のバンコクに王宮をつくり、アユタヤ王朝の権威をつぐチャクリー王朝を開きました。その王宮の横に作った寺院が、ワット・ポーです。この王朝は現在に引き継がれています。

 結果、チャオプラヤ川の南西側にタークシンのトンブリー朝・ワット・アルン、北東側にラーマ1世のチャクリー朝・ワット・ポーが作られました。そして、件の「昭帝爺廟」というターク・シンを祀る廟は北東側の川岸につくられています。そして、このタークシン王を拝むと、そうなると背後の南西のアルンワットやトンブリーを拝むことになります。
 もちろん、立地上の都合でそうなっているのですが、このような土地を選んだのも決して偶然ではないように思えてきます。

●タークシンの処刑とラーマ1世の中国名
 このサイトによると、タークシンは後のラーマ1世から、首をベルベッドの袋に入れられ、白檀の棒で首を折るという方法で処刑されたそうです。この方法は、王侯のみに用いられるものとされているそうです。
 つまり、ラーマ1世は、タークシンは王侯の一人として認めていたともいえるようです。さらに、Wikipディアによると、ラーマ1世は清国に対して名乗る中国名として、「鄭」を引き継ぎ、鄭華と名乗っていたそうです。
 これらのことからも、新しいチャクリー朝は、トンブリー朝のタークシンの権威を認め、引き継ぐ形で、王朝を運営したことが伺えます。その伝統は今も受け継がれ、タークシンはかつての20バーツ紙幣、現在の100バーツ紙幣の肖像となっています。

●昭帝爺廟の八仙
 現在のタイの王朝でもあるチャックリー朝も、タークシン王のトンブリー朝を蔑ろにはしていません。そして、それを表す絵が昭帝爺廟に描かれていると管理人は考えます。それが下の二つの絵です。


↑廟内側の両側面に描かれています。



↑御本尊であるタークシン王像の後ろにも八仙

 これらの絵は八仙と呼ばれる仙人を8人集めた絵図です。日本の七福神にも共通するめでたい絵のモチーフとなっています。しかし、御本尊の後と両側面に同一のモチーフを扱うのは、このデザインに余程の思い入れがあることになります。
 この八仙人が活躍する小説「東遊記」が明代に成立したようです。おおよその内容はこちらのサイトを見ると分かります。詳しくは、この書籍だと日本語訳で分かりやすそうです。
 上のサイトを閲覧したところ、ざーーっくりとした内容は、八仙人たちは東の龍王と争いを起こし、観音菩薩と和解を結ぶというお話です。つまり、西と東の和解のお話が、八仙人の活躍する東遊記のテーマになります。
 それは、チャオプラヤ川西のトンブリー朝のタークシンとチャオプラヤ川東のチャクリー朝のラーマ1世の和解を祈って掲げられた絵画なのかもしれません。
 敗れ去った者への思いやり。これはかつてあった日本の御霊信仰にも似ているように思います。

●編集後記
 今号などのタイ関係記事は、Tし君の結婚を祝いにタイに渡ったことがきっかけです。空き時間にともにTし君の結婚を祝うために日本からやってきたTり君とワット・ポー側からワット•アルンに渡る道を探しているときに見つけたのが昭帝爺廟です。暑い中お付き合いしてくれたTり君に感謝!

 
 



 

 

 
 




232.バンコク、ヒン、道、仏、基混在宗教スケッチ(月刊「祭」2019.11月16号)

2019-11-21 00:25:00 | コリア、外国
●寛容な宗教事情
 タイには、ヒンドゥー教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教の人々がいりまじって、そして、時と場合によって宗教を横断して信仰しているようでした。
 今回は、管理人が宿泊したり訪れたりしたバンコクの中でもワットポー付近とベーリン駅付近のものを紹介します。



●イスラム教
 管理人はイスラム教を信仰している建物や祠などの施設を見つけることはできませんでした。しかし、空港や紅茶の露店などで頭に頭巾のようなかぶりものをかぶった女性が働いているのを見かけました。
 
●ヒンドゥー教
 

↑象頭人身の方はガネーシャでしょうか。


↑こちらはガネーシャと言っておりました。

↑シヴァ神だそうです。かなり多くのビルかこのようなものを祀っていました。

●中国系(道教?)
 お札や、八卦を描いた鑑を玄関先に飾る家をよく見かけました。
 なんで、こんなに多いのか?と疑問を持ち調べてみました。調べる先はもちろん、ウィキPDA。日本語版ウィきPディアは優秀です^^; 見る限りでは古くから中国とタイの縁は深かったようです。
 ウィキPDAのタイの華人バンコクの項目を下にまとめてみました。
 
スコタイ王朝(13世紀ころ-1438)
 その前から華人の商人が来ていたそう。陶芸技術の持ち込み宋故禄を開発。タイの人と徐々に同化か。
 
アユタヤ王朝(1351-1767)
 華人の商人のさかんな到来、明の鄭和の遠征にともない多数の華人が移り住んだか。
 17世紀の日本人町焼き討ち、ヨーロッパ国への鎖国の結果、中国系の貿易商がアドバンテージを得る。
 さらに1645年に清朝が華南を制圧したことにより、華南よりタイに人が流れてくる。
 
トンブリー王朝(1767-1782)
 中国潮州系タイ人タークシン(中国名・鄭昭)が王朝を開く。華人のタイ国内での商売を奨励。潮州からさらに大量の華人が流れてくる。
 
チャックリー王朝(1782-現在)
 1782年ラーマ1世が、首都をチャオプラヤ川西のトンブリーから東に移す。これがバンコクの原型となる。
 ビルマ(後のミャンマー)コンバウン朝の進入を防ぐため。
 アユタヤ同様、王宮とその関連施設の周囲には、運河がつくられできた中心のラッタナコーシン島には王一族と王室華人とよばれた有力華人だった。
 ラーマ王も対清朝においては、鄭性を引き続き名乗った。
 
 現在も中国の急激な経済成長に伴い、その交流は濃くなっています。華人の方が経済的に豊かであり、その格差が問題にされることもあるそうですが、経済的には切っても切れない可能性があるそうです。






↑タトゥーショップなどには、八掛の鏡が置いてありました。


↑ワットポー付近、チャオプラヤ川沿岸にあった廟。この廟については後ほど。


↑下にはヒンドゥ―系の神様、提灯は中華系です。
 
仏教
 

↑アソック駅付近に、さまざまな種類の仏像がかざられていました。
 

↑仏さんと神棚?仏棚?などをおまつりしている食堂がありました。



↑ふとい木が信仰の対象なのは日本と似ています。

↑三木の根本には、修行する総理の彫物が。

 
●キリスト教
↑プロンポン駅付近に飾られたクリスマスツリー



↑プロンポン駅付近のデパートにあったクリスマスツリー。
 それぞれの願い事がかかれた短冊が飾られていました。
 家族やカップルで祝う習慣があるのは、日本と似ているように思います。
 
●編集後記に代えて
-王さま-
 近年即位した王さまの写真があらゆるところに飾られていました。軍事政権派もそうでないほうも、王さまには敬意を持っているという話を聞きました。
 王さまは「いる」だけでよくて、「名の下」に人を殺めたり、排除を始めるとロクなことがないのかもしれません。我が国では、天皇の名の下に排外的な主張をされる人もいますが、その人は間違いなく「騙している人」か「騙されている人」です。



-宗教の寛容性-
 どっかで誰かが言っていた内容の繰り返しになりそうですが、タイも様々な宗教を柔軟に取り入れて存在しているように見えました。クリスマスを楽しみ、仏さんにお坊さんと一緒にお経を唱え、自然の神さんにおまじないをする。王さまは好きで、中国式の提灯の下にヒンドゥーの神さんがいて、その横をイスラム式の被りものを被った女性がスマホで話しながら歩く。バンコクはそんな都市でした。
 宗教的に寛容で豊かな食料がとれるこの国は、目が合うとほほえみかけてくれる「ほほえみの国」と呼ばれているとも聞きました。宗教的な寛容性は、豊かな食料がとれることによるものかとも思ったのですが、真偽のほどは分かりません。ほんの少しの間すごして、歩いて、分かったことは、タイが「ほほえみの国」だということです。
 





231.バンコクの弁天?(月刊「祭」2019.11.15号)

2019-11-18 05:17:00 | コリア、外国

●日本の弁天
 日本ではたくさんの弁天さんがまつられています。有名なのは、厳島神社でしょう。厳島神社について、あれこれ考えたのはこちら





明治の神仏分離政策により、今は隣の寺院に弁天さんは移っています。

 日本各地の神社や寺院にも弁天さん、つまり弁財天は、現在では厳島神社と名乗るなどしてまつられています。宮島の厳島神社がその名の通り海の鳥居を持つ海上にせり出した神社です。弁天さん・弁財天は、七福神のひとつであるように、水の神でもあります。なので、それぞれの神社や寺院で祀られる場合にも、池の中の島に祀られることが多くなります。





↑京都市禅林寺境内の弁財天社
 池の島に建てられいます。


●タイの弁天さま!?
 タイにも弁財天はいらっしゃいます。ヒンドゥー教の女神でサラスヴァティというそうです。へっぽこ祭ブログ管理人の御用達サイト-某wikiぺdアによると、サラスヴァティも水の神。下の写真の神像?仏像?は、バンコク市内ベーリン通りで見つけたレストランにありました。
 池の島に立っている様子はまさに弁天さんです。しかし、手に持っているのは蓮のようで、楽器ではありません。となると、管理人愛用ページにある、サラスヴァティのように楽器を持っていません。
 グーグルで画像を検索してみると、ラクシュミーと呼ばれる女神が蓮を持ち、蓮の花の上に立っていました。この点では写真と共通します。また、弁天を脇侍としていふ画像をよくみかけます。ラクシュミーと弁財天がまざった姿が日本の弁天信仰なのかとも思いましが、ウィキpディアによると、ラクシュミーは4本あるとのことで、この像とは異なります。
 そこで、「蓮の花を手に持つ」、「蓮の花の上に立つ」ところから考えてみると、行き着くのは観音さんでしょうか。あくまで管理人の主観ですが、この像はやや中国風にも見えます。例えば、「台湾、観音」でグーグルなどで検索すると雰囲気の似たものが画像で見ることができます。
 バンコク市内特には八掛鏡ともいえる、鏡を掛けた商店がいくつも見られ、中国の宗教的影響が見られました。なので、中国風の観音像であっても不思議はありませんが、管理人は断定できません。
 
 





↑地図上では近く見えますが、ベーリン通りを車で10分から20分ほど走りました。



↑ベーリン駅近くにかけられてたハ掛鏡。


編集後記
 親友t君の結婚祝いに渡ったタイ。彼がタイに旅立つ直前に一緒に旅行に行ったのが宮島でした。そして、式の後、管理人がタイをたつまえに新郎ご家族と新婦ご家族と共に食事をしたのが、画像のレストランでした。「弁天さんや」と思って、何かの縁を感じつつ記事を書いてみたら、必ずしもそうではなかったようです^_^:
 とにもかくにも、T君、Jちゃん、本当におめでとう。そして、旅行期間中お世話になったT君ご家族のみなさま、本当にありがとうございました😊
 







230.タイワットポー巨大涅槃物の大きさ以外の見所(月刊「祭」2019.11月15号)

2019-11-17 04:45:00 | コリア、外国
●タイ王国バンコクワットポーの巨大涅槃仏
(アクセス【公式】タイ国政府観光庁のワットポー解説)
 ワットポーの涅槃仏は当時チャクリー王朝のシャム国王であったラーマ3世(在位1824-1851)の命令によってつくられました。
 高さは15メートルで、頭が建物を突き破らんばかりになっているし、全長は46メートルで小学生が走り抜けられる距離になっています。しかし、この涅槃仏の魅力は大きさだけではありませんでした。とはいえ、やっぱり大きさもおどろきでしたので、まずはそれがわかる写真を見ていきましょう。


↑献花や入口とくらべてらと大きさはわかります。


↑見上げて撮った枕と後頭部。



↑パノラマでとると、両端の入口と出口が豆粒のように見えます。

●脱帽、靴を脱ぐ習慣
 入場するためには、条件がつけられています。脱帽と土足厳禁です。


↑入口にNO HATの文字。

↑土足厳禁はで歩いたところは石畳でした。

 土足厳禁ではあるものの、高床にもなっておらず、石畳での土足厳禁でした。これは、他の建物でも適用されているところがありました↓。




●工芸
 涅槃仏を囲む工芸ではその高い技術が総結集されていることがわかります。

台座

↑眠る仏さんの蓮の台座。重層的に彫刻?がされています。葉の葉脈を立体的に表し、葉脈は金箔が貼られ、そうでないところは緑色になっています。一枚一枚の葉に一つずつ青い石がついています。

絵画

↑柱にも細かい植物などの絵がていねいに描かれていました。



↑扉は黒の下地に金色で細かい絵が描かれていました。


↑建物上部などには物語の絵などがえがかれています。場所によっては、板に直接描かれていました。

螺鈿
 そして、螺鈿細工です。


↑足の指の指紋を象って螺鈿細工でがされています。

↑足の指でないところには、仏様たちが象られています。

↑一つ一つを見ると非常に細かくできています。これが、日本では煩悩の数とも言える108の世界に分けて描かれているそうです↓




●原始仏教と新仏教が統合された究極の芸術
 原始的な仏教では、仏の姿を描いて崇拝することは禁じられていました。しかし、それでは、庶民への教化がむずかしく、やがて仏像をの制作は解禁されていきます。
 その過渡期として、仏さまの足跡、仏足跡を崇拝する信仰が、インドなどの仏教発祥地付近ではその遺物が比較的よく残っているようです。ワットポーの涅槃仏の足の裏の工芸が、芸術の粋を集めたものになっているのは、仏の姿を忌む習慣から生まれた足跡崇拝の名残と言えます。
 その一方でワットポートの涅槃仏の足の裏に見事な螺鈿細工で描かれているのは、かつては禁じられていた仏さまたちのお姿が形作られています。

●ワットポーの涅槃仏
 ワットポーの涅槃仏には、超巨大な彫刻に超繊細な芸術が組み込まれていました。ワットポーの足の裏には、かつての足跡信仰の名残が、新しい仏像信仰という形で見事な螺鈿細工で表現されていました。

ワットポーの魅力の一部を紹介しました。

謝辞
 お忙しい中式前日に案内してくれた、新郎のT君、新婦のJさん、同行してくれたご家族のみなさま、ほんとうにコップンクラップ(ありがとうございました)




229.王国と祭-うる覚えの著作から中国の天命説を考える(妄想する)(月刊「祭」2019.11月14号)

2019-11-15 08:42:00 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台
政と祭の分離、祭を担う王がいる民主国家
 私事ですが、友人の結婚式のためにタイにいきます。タイもまた王様がいますが、政治には関わっておりません。日本も、(その名をたてに、格差拡大固定政策をしき、その不満を差別でそらそうとする不届き者はいますが、)天皇は祭を行いますが、政(まつりごと)は行いません。
 今はタイにむかう船の中、今回は日本の天皇の祭などについて書きます。また、この記事とセットでタイのことも書いてみたいと思います。

●大嘗祭の名著
 現在今上天皇が、即位のための大嘗祭を行っているそうです。即位した今上天皇が皇祖神に新穀を供え、共に食する儀式だそうです。
 興味深いのは、大嘗祭は北斗七星の運行に合わせて祭りが行われている、陰陽五行道の思想を取り入れて祭が行われているという吉野裕子氏の指摘です↓。



●北極星としての天皇、比較的安定した日本と安定しなかった中国
 中国の文献などによると、動かない北極星は「天皇大帝」とも呼ばれていました。一方で日本においては、古来よりの太陽信仰から、その王もまた、太陽の象徴・日嗣の御子(ひつぎのみこ)でありました。その王が天皇と名乗ることで、日嗣(ひつぎ)の御子は同時に北極星として君臨するようにもなったと、吉野氏は述べていたはずです。

 不動の北極星を冠することで天皇は安定した地位を保ったが、中国は北極星などの天命により「皇帝」が選ばれるという思想だったので、「皇帝」の地位を巡った争いが絶えなかったといったようなことも書いていました。
 しかし、「皇帝」も「天皇大帝」の「皇」と「帝」を取った字やんとも思えてきます。中国で、皇帝の地位を巡る争いが激しかったのは、「天命思想」を選んだからではないと管理人は考えます。争いが激しかったのは、その領土が広く、民族や文化、利害の絡み合いが複雑だったからでしょう。そして、その結果、「天命思想」を選ばざるを得なかったということになると思われます。






228.高砂市高砂神社秋祭りの辻(月刊「祭」2019.11.13号)

2019-11-14 18:57:00 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台
●高砂神社の祭
 祭礼日10月10.11、アクセス
  
 仲睦まじい夫婦の象徴ともいえる高砂神社。そこの祭は、「辻の祭」ともいえそうでした。

●神輿の渡御
 神輿の渡御において、だんじりやお神輿、一つ物が巡航します。その時に、神輿と一つものは辻、つまり交差点に来るたびに所作をしていました。


 






●神輿のお渡り
ひとつもの
 曽根や加古川市の神吉八幡神社にものこっています。座の神事が終わった後、神輿とともに巡行していました。辻に来ると周回していました。


●神輿のせんざいらく、まんざいらくねり
 辻に来るたびに、「千歳楽じゃ、万歳楽じゃ」と神輿揺らした後差し上げます。神戸市の長田神社では常に、「せんざいらく、満載」の掛け声をかけてかついでいるのをYouTubeでみました。長田神社では、神輿行列の後ろをいく太鼓がある(あった)ようです(CiNii 図書 - 神戸の民俗芸能(長田編)ようですが、高砂神社でも屋台が一台行列の最後部を行きます。


●練り合わせ
 2日目の午前中は、辻に屋台があつまり練り合わせが行われていました。辻が練り合わせ場所、道が待機場所となって入れ替わり立ち替わり練り合わせが行われました。


●辻
 辻まわし、やり回しなど曲がる見せ場だけではないようでした。この本には、辻がこの世とあの世をつなぐところだとも書いているようです(管理人はまだ読んでいません。このレビューを読みました。)。確かに、神輿とひとつものの場合は、そのような考え方が反映されているように思えました。
 屋台の練り合わせは、それに加えて、物理的に練り合わせと待機がしやすいからのように見えました。


227.坊勢島恵美酒神社の差し上げ考(月刊「祭」2019.11.12号)

2019-11-13 20:34:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●坊勢の屋台
 今回は、坊勢島の屋台の差し上げについて考えます。
 坊勢島の祭りについては、こちら
 
姫路の浜手の屋台差し上げ
姫路の浜手の神輿屋根屋台の差し上げは、ざっくり分けると2つに分けられそうです。
灘型の差し上げ
 一つは、練り合わせを行う灘型屋台などどちらかと言えば東部に見られる差し上げです。ヨイヤッセ、ヨイヤッセなどの掛け声で、肩に乗せたまま「ガブ」ってから差し上げます。
 
網干型の差し上げ
一方西部に分布する網干型屋台の場合は、一回さした屋台を腕までおろして、また差し上げます。
 これらの荒技は、脇棒が長く比較的大人数で担げることで可能になっています。
 
 
●坊勢恵美酒神社屋台の差し上げ
 では、坊勢の屋台を見てみましょう。
 屋台は、灘型で脇棒が短く、差し上げの時の掛け声も少し早いですが灘型なものと言えます。しかし、決定的な違いが見られます。そこは、一度映像を見て下さい。
 
 
型の上の屋台を一度腕までおろしてから差し上げています。これを、短い脇棒でしているので、簡単そうに見えてなかなか難しいと思われます。映像では何回も回転しながらくりかけしているし、道中でも、花をいただくたびにしていました。網干と灘の差し上げの折衷型と呼んでしまうと簡単になってしまいますが、見事な練りであることには間違いありません。
 坊勢の屋台練り、見ものです。