月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

172.大阪で出世した海女(月刊「祭」2019.8月28号)

2019-08-30 15:57:54 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●悲劇の名もなき海女
 三木や淡路島で好まれる海女の玉取り。
 この話の主人公は名もなき海女です。何度か触れましたが、かいつまんで話します。
くわしくは、こちらのサイトへ。

 藤原不比等は讃岐の国で、身分の低い海女と出会い恋に落ちます。龍に奪われた面向不背の玉を取り返すことができれば、海女のお腹の子を後継にするという約束を交わし、海女は龍宮に向かいます。
 玉を取られて怒った龍は海女を追いかけます。海女は自らの乳房を刃物で穴を開けそこに玉を隠し、不比等の元へ持ち帰って間も無く息絶えます。
 その子が藤原氏繁栄の礎となった藤原宇合です。

どの水引幕を見ても、華やかとは程遠い質素な衣装を着ています。
三木市大宮八幡宮明石町屋台の海女



香川県三豊市河内神社先代上河内太鼓台


↑管理人画

同様のデザインは大宮八幡宮の栄町屋台や、淡路島では提灯などの題材にもなっています。
 

●大阪天満宮お迎え人形の海女
 海女の玉取りの題材は、大阪天満宮の神輿を迎えるためのお迎え人形にも取り上げられていました。その様子が松川半山、暁鐘成「天満宮御神事 御迎船人形図会」弘化三年(1846)に描かれています。



編集発行 大阪大学21世紀懐徳会「天満宮御神事 御迎船人形図会」

 なんとも派手な衣装ですね。これが、「海女」です。とはいえ、この人形は海女が実は生きていたという別伝を表しているわけではありません。また、息子の宇合の供養によって極楽浄土へ行ってからの様子を表しているわけではありません。

そこで解説を見てみましょう。原文は斜体、読みづらいとおもわれるものには()内に読み仮名をふりました。?は管理人が読めなかったものです。また、太字は便宜上管理人がつけました。
 一番はじめに海士と書かれているのがみえますね。


妄説
面向不背の玉を取返し給ふといへる事を作て海士と題す。原来(もとより)跡形もなき妄説なればこの謡曲よりて海士乙女の木偶(にんぎょう)を作し者也。

妄説と言い捨てていますが(^_^: 、その謡曲より海士乙女の人形を作ったと書いています。

水中に。。
然るニ此人形故あって水中ニ落ちいり終(つゐ)に失せたり。故(?)ニ今は龍乙姫の像(かたち)を作て用ゆとぞ

ですが、海士乙女の人形は水にはまりついになくなってしまいました。そして、今は龍乙姫の像をつくったのだそうです。

海士と呼ばれる理由
海士乙女の人形を用ひしを年久しき故ニ世の人其所を海士の町と異名す。是ニよって人形ハ龍女ニして名を海士よべり

ずっと其の場所で飾られていた人形を海士とよんでいたから、龍女になっても海士とよんでいるそうです。

●管理人妄説
 ここからは管理人の「妄説」です。なぜ、水に失せた海士の人形を再造せずに龍女に作り変えられたのでしょうか。
 管理人はこう考えます。

海士の人形が水の中に落ちて帰ってこおへん。
 ↓
それって、海女は水中の龍宮に行ったんやって。
 ↓
ほな、次作る人形はお姫さんにせなあかんな。

というやり取りがあったのかも??



171.「だんじり」からやぐらへ(月刊「祭」2019.8月27号)

2019-08-29 11:45:51 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 ●泉州のもう一つの名物・やぐらとその特徴
 祭好きの人の多くが、「泉州」と言えば、多くの人が「だんじり」を思い浮かべるでしょう。しかし、もう一つの名物が泉州の特に、南部に分布しています。それが、やぐらです。今回はこの櫓がどのようにしてできていったのかを考えていきます。2019年8月25日新調の阪南市波太神社山中渓櫓を見てきました。
 
やぐら特徴
 やぐらの特徴としてあげられるのは、牛車や祇園祭の山鉾を思わせる大きな二つの車輪です。この車輪では、地面を擦って方向転換するやりまわしはできません。しかし、方向転換が容易で山道などのでこぼこした道や階段なども運行がしやすくなります。
 
 
 
 

 
●やぐらの源流
 「やぐらまつりドットコム」というサイトによると、今から270年前には波太神社の祭礼の形態が今と同様のものができていたという文献があるそうです。たしかに、波太神社は紀州との境目の山際の町であり、櫓のような大きな車輪でないと通りづらかったことが考えられます。とはいえ、突発的にこの車輪が用いられたわけではなく、そのもとになるものがその付近にあったことが考えられます。
 
・地車との類似
 やぐらを見てまず気づくのが、大屋根と小屋根に分かれて彫刻に趣向を凝らせた泉州や河内の地車との類似でしょう。しかし、大阪府内に分布している地車のほとんどは内ゴマで、やぐらのように外部に大きな車輪をつけているものは見られません。この車輪のもとはどのようになっているのでしょう。
 
 
・二輪の山車
 そこで、ひとまず二輪の山車はどのようなものが近隣に残っているのかを調べてみました。
 まず、目についたのが、森田玲「日本の祭と神賑-京都・摂河泉の祭具から読み解く祈りのかたち-」に掲載されていた三重県の石取祭の山車や、『守貞漫稿』に記された江戸の山王祭の山車です。しかし、やや遠方すぎる感はあります。
 

↑喜多川守貞「守貞漫稿」1837〜1867頃
 
 そこで、条件を妥協して大きな外側の「車輪」のものをさがすと、羽曳野市誉田神社のものが見つかりました。
 
・誉田神社の藤花車と車楽
  何回かこのブログでも掲載しましたが、「河内名所図会」には大型の車輪の車楽(だんじり)が掲載されています。ですがよく見ると三輪です。前輪の方にもてこを持っている人がいて、このてこで方向を変えていたとおもわれます。
 
 
 そして、誉田神社所有の藤花車と呼ばれる物が現在も残っています。舞台の裏の記述から天和二年(1682)から文久二年(1862)まで使用されていたことが分かるそうです。
 「河内名所図会」が享和元年(1801)で、下の写真の藤花車は文久二年(1862)であり、絵巻と同じものだということがわかります。一番目立つのは、車輪をとりつけた台木(1)ともいうべきものに、二本の棒(2)が車輪の前に出ており、それは台木の上に取り付けられています。方向転換が容易になったと思われます。
 

↑誉田八幡宮内の藤花車 
 大阪市立博物館「第121回特別展 南河内の文化財 平成5年3月1日〜4月11日」(大阪市立博物館)1993より転載後□と番号を振りました。
 
 
・やぐらの下部
 そこでもう一度櫓を見ると、車輪を取付けるための台木(1)が前に出てきており、上の藤花車の写真のように、そこに前にのびた2本の棒(2)がとりつけられています。管理人が考えるには、やぐらも三輪の時代があったのではないかということです。そこから激しく曳行する上で、前輪の必要がなくなったのだと考えています。その名残が台木ということがいえるでしょう。
 管理人の言う櫓が元々三輪だったという考えが違うにしても、泉南地域に分布するやぐらは、上部は彫刻をこらした二つ屋根の地車(だんじり)をもとにしています。そして、下部は藤花車とも呼ばれた車楽(だんじり)がやぐらのもとになったものだと思われます。
 


●編集後記
 このやぐらやだんじりを見に行くために、若き友人のD君がやぐらの入魂式の情報を調べて、誘ってくれ、町内の運転もしてくれました。そして、同じく若き友人のM君も本当に長距離、長時間、夜通しの運転をしてくれました。あらためてお礼します^_^

 

168.だんじり見送り彫刻の遠近感(月刊「祭」2019.8月26号)

2019-08-27 10:55:57 | 屋台・だんじり・神輿-装飾の工芸、新調、改修、修復-
●下だんじりの見送り彫刻
大阪府内のだんじりは、大きく分けて大阪市内などに分布しねいる、上だんじりと、泉州に分布する下だんじり、河州分布の石川型があります。
 下の写真のように大阪市内に分布する上だんじりだと、太鼓は後部(屋根の低い側)に向かって横向きに取り付けられているので、後部の太鼓を覆う部分の彫刻は、やや平面的なものになります。
 
↑低い屋根の下に太鼓が横に取り付けられているので彫刻はやや、平面的になる(大阪市皇大神宮今福北だんじり)
 
  一方岸和田などに分布する下地車では、太鼓が前方の欄干から下にかけて縦に取り付けられています。なので、後方部の黄色□部分・見送り部分は全て彫刻で構成されることになります。充分にとられた彫刻のスペースは、立体感のある趣向を凝らしたものが彫刻がなされるようになりました。
↑岸和田だんじり会館蔵文化文政期(1804-1829)頃の製作とみられるだんじり

 

●現存最古の岸和田型だんじり

まずは、現存最古の岸和田型だんじりを見ます。

上の写真の黄色□部分を拡大したのが、下の写真です。見送りの側面から見ると、中国系の武将らしき彫刻がなされています。と思ったら、素盞嗚尊らしいです。そのうしろには、凝った装飾の柱、カーテン、庭の木らしきものが見えます。おそらく後方から見たら、武将が主役の奥行きのある構造になっていることでしょう。

←前方        後方→

●旧沼町だんじり

 最近、サミット出演でも話題になった岸和田だんじり会館に展示中の旧沼町だんじりには一ノ谷の合戦が彫られています。この彫刻の場面をざっくり言うと下のような感じです。詳しくはこちら(ウィキ●ディア)
 
 1 から馬二頭を駆け下りさせて、一頭怪我、一頭無事。
2 だから、人が馬に乗って攻め入っても大丈夫だろうといって駆け下りて攻め込む。
 
 では、彫刻を見てみましょう。
 
↑写真左下の手前の馬よりも、大きいはずの馬の上に写っている陣屋は、騎馬武者と同じくらいの大きさで彫られています。
↓その拡大写真です。
 
↓手前の騎馬武者と写真右側の崖の上の武者は同じ人間ですが、写真右側の崖の上の武者は、騎馬武者の半分くらいの大きさで奥を小さく彫ることで遠近感を出しています。

 

●城を背景にした合戦

豊臣方の彫刻

 大坂夏の陣などの豊臣方のものを扱った彫刻は江戸時代にはなかったと言われたりもします。

 しかし、太閤記などの豊臣方を主役にした書物は屋台やだんじりが活躍する江戸時代後半には出回っていました。また、徳川家康を祭る東照宮が大阪天満宮近くにできた時もそれを批判するような文章が残っているとも聞きます。また、賤ヶ岳七本槍など豊臣方の武将を題材にした彫刻が屋台の彫刻として文政年間に制作されました。

 豊臣方の題材は幕府の許可はおりにくかったのかもしれませんが、一切認められなかったわけでははないようです。しかし、豊臣方を題材にしたものでない中国物が好まれていたのも事実と言えるでしょう。それが明治以降、中国物を抑えて豊臣方などの題材が増えてきました。それは、豊臣方への規制がなくなったことに加えて、日清戦争などの戦勝を通して、中国が必ずしも憧れの対象とはならなくなった日本の時代背景があると言えるでしょう。

木下舜二郎氏の大坂夏の陣
そのような豊臣方を題材としたもので、見送り彫刻として好まれた題材が大坂夏の陣です。城攻め(城守り)の戦で、戦場さながらの立体感を出した作品として、大坂夏の陣を題材にした岸和田の名工・木下舜二郎氏(1910-1972)の作品が挙げられます。
 ここでは、二台のだんじりを見ていきます。
 
岸和田市岸城神社大手町
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
堺市桜井神社栂だんじり  
 
 
 

 

 

木下舜二郎師の彫刻の腕 

 栂だんじりも大手町だんじりも見送り彫刻は下のように城を中心に据え、本来なら人物よりずっと大きいはずの城を人物と同じくらいや小さめに作ることで、人物側から見れば城がずっと遠方にある仕掛けになっていました。
   
 
 木下舜二郎師は、ミクロな面で彫刻師としては超一級の人物として知られています。しかし、彫刻全体の配置、マクロな面でも超一級だということがわかりました。

169.阪南市波太神社の石の役割(月刊「祭」2019.8月26号)

2019-08-25 06:56:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-



本記事中神名は、神社の由緒書に従いました。

●波太神社
大阪府阪南市波太神社は櫓の宮入りで知られています。
管理人が訪れた2019年8月25日は山中渓櫓の新調入魂式でした。ですが、今回はまずその神社の平常時の↑の石の秘密などについて話していきます。







Google 波太神社の地図へ

●特殊な拝殿
90年程前に建てられたという拝殿は特殊な形をしていますが、中心と左側に注連縄がかけられています。それぞれの奥に本殿と末社があり、の違う建物の祭神を一つの建物から拝めるようになっています。
 この形式は、すぐ隣の鳥取神社と鳥取戎神社にも通じます。



↑波太神社拝殿。左が末社用、中心が本社用。


↑向かって左が鳥取戎神社用の門、右が鳥取神社用

●本殿
本殿と末社は共に三間社流造の同形式で、拝殿の真ん中の門の奥の本殿は寛永十五(1638)にできたそうです。三間社に向かって右の祭神は、波太宮である角凝命でこの辺りを治めていたといわれる鳥取氏の祖神です。中心は二神の境目となっており、左側が指ケ森神社の西沢だった八幡神・応神天皇になっています。この本殿は、国指定重要文化財となっており、その理由は、建築の見事さだけでなく、同様の建築物が末社にもあるからだとおっしゃっていました。

↑左側八幡神・応神天皇、中心を開けて、鳥取氏の祖先神・角凝命








●末社
拝殿向かって左側の門の奥には、本殿八幡宮・応神天皇の母と臣下である神功皇后と竹内宿禰が両脇に祭られています。そして角凝命の孫である天湯川板拳命が中心に祭られています。鵠(くぐい)にふれて30歳にしてはじめて言葉を始めて発した応神天皇のために、天湯川板拳命は鵠を捕まえて献上します。この褒賞として天湯川板拳命は、鳥取の姓を賜ったそうです。
 つまり、本殿と末社でつながりがあるのは、建築様式だけでなく、祭神同士にもあったということです。



●長方形の敷石の役割
 やっと本題です。
様々な伝承を持つ波多神社の長方形の石は何のためにあるのでしょうか。


答えはずっと下です。






























地元の方は朝の散歩でこのように石の上に立って頭を下げていました。

では、この視線の先には何があるのでしょうか。下の映像の文字をクリックしてください。

頭を下げるのは鳥居、そしてさらにその奥にある本殿でした。
現地の方に話を聞いたところ、神社に出入りする時にこのようにして頭を下げる方が高沢いらっしゃるそうです。

168.祭ポスター、カレンダー香川県、大阪府編(月刊「祭」2019.8月24号)

2019-08-24 15:16:27 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-

●四国香川県

大原野町


このカレンダーを作ったのは秋月会。三木市内にある祭愛好会と同じ名称ですね。




香川県宇多津町2012


宇多津町2012
 
●大阪府
 上地車新報制作のカレンダー2016



河内地方のだんじりカレンダー、河秋会 2016
 三木市の秋月会もそうですが、必ずしも秋祭だけのだんじりが写っているわけではありません。


彫陽 2018
 だんじり彫刻業者のカレンダーです。泉州は彫刻師が今も競いながら技を高め合っています。各業者がカレンダーなどを作っています。


神戸空港(関西国際空-神戸空港間フェリー乗り場)の岸和田祭ポスター 2019
 国際的な観光資源としても価値が見出されています。
 
●パソコンやスマホで
 祭りが盛んな地域で育った人たちにとっては、多くの人が祭りがいちばんの楽しみになります。そんな祭をいつでも近くに感じられるカレンダーなどの祭グッズは、ほしくなるものです。それを作るには、手間とお金がかかりますが、今では、パソコンや場合によってはスマホで、より手軽にできるようになりました。
 写真が増えたり、デザインが趣向をこらしたものになったりするのは、昨今の通信技術の進歩によるものと言えるでしょう。
 管理人の持っているカレンダーを全て掲載したつもりでしたが、まだ、あることに気がつきました。近いうちに第2弾を考えています。
 

167.祭カレンダー、ポスター播州各地、展示会編(月刊「祭」2019.8月23号)

2019-08-24 15:13:00 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-
●姫路市市内
姫路市恵美酒宮天満宮玉地屋台 1997
 
 
灘のけんか祭り 2015(刺繍のおくむら制作)


 
●曽根天満宮
曽根天満宮1999






●加西市住吉神社、 加東市糀屋稲荷神社
加西市住吉神社1999


加西市住吉神社2018

加西市住吉神社のものは、持っているのはたまたま、御旅町が写っている時のものでした。こうしてみると、随分と形が変わっているように見えますね。でざいんもより趣向をこらしたものになっています。
 
 
●展覧会など
播州屋台保存連絡会 2012展覧会用


みき歴史資料館 上から2016.2018.2019
 


 


 

管理人が講演する機会を賜ったものです。
2015年にできたみき歴史資料館も2018年頃からポスターデザインの雛形ができたようです。本当にお世話になっています。
 
 

166.三木市内祭ポスター、カレンダー(2019.8月22号)

2019-08-24 11:10:30 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-
三木市内
秋月会発行三木市内屋台を網羅したカレンダー
最近のもの
最近のものは番外の市外のものがいくつか掲載されています。
2019年



2018年


2017年


2015年



2014年


2013年


 約20年前
2000年


1999年


岩壺神社2019年


2014年三木屋台大集合
行う前
 


 
行なったあと


各神社のカレンダーは岩壺神社が毎年出しており、大宮八幡宮の末廣屋台は一台だけで作っていたはずですが、管理人の在庫には多分ありません。
 
次号は、播州各地編です。
 

165.ビルの間の地蔵盆(月刊「祭」2019.8月21号)

2019-08-23 18:13:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●8月23日
 この記事を書いているのは8月23日で、全国的?(どちらかといえば関西でしょうか)では、地蔵盆が行われています。
 元々は七月二十四日でしたが、子供たちの夏休みにあたることと、新暦の該当する日が旧暦におおよそ一月足した日になることから、八月にするところが多いようです。
 別記事で詳しく書けたらと思っていますが、元来の地蔵菩薩の縁日は二十四日で、二十三日の午後から夕方にかけて子ども達にお菓子を配るのは、地蔵盆イブともよべる前夜祭のようです。
 神戸市の長田区などでは、子ども達が自転車などで町中の数あるお地蔵さんにお参りし、お菓子をもらっている風景が見られました。長田区は人口密集地で、人家が集まり、その分お地蔵さんもあちこちにいらっしゃいます。その守りをする方も比較的いらっしゃる(といっても後継者が不足しているという話も聞いたことがありますが)ことから、このような行事が盛んに行われると思われます。
 そして、大阪市内でもその風景は見られました。真宗大谷派徳成寺横の久和永寿地蔵です。大阪市には戦災の影響か、鉄筋建の寺院が数多くあります。





●お地蔵さんとオフィス用品会社
 





 突然ですが、上の写真は管理人のPCケースです。そして下の提灯を見てください。


両方にLIHIT LABの文字があります。



聞くところによると、LIHIT LABというオフィス用品などを制作販売している会社の社員さん達が、中心になって祭壇の準備やお菓子配りをされているそうです。子ども達が、順次お参りしていました。
すぐ横には会社の入っている高層ビルがありました。↓(写真をクリックすると、会社ホームページに行きます。)

●奇跡の地蔵
 ここの地蔵菩薩石像は、ビル建設時に地中から偶然、戦災で焼けたものが発見されたそうです。御尊像を拝見させていただきましたが、心なしか、焦げ跡がついているようにも見えました。戦下の中の奇跡によって地蔵は残りました。そして、社員の皆さまのご尽力、そして、お参りされる方々と子ども達によって、ハイカラなオフィス用品の会社と高層ビルと地蔵盆という取り合わせで法灯が保たれていました。

ご奉仕していらっしゃったLIHIT LABの社員の皆さまにご親切に教えていただきました。管理人愛用のPCバッグを持ち歩きながらの見学も何かの縁かもしれません。
本当にありがとうございました。





164.1790's大阪、布団太鼓と祭に携わる人々-摂津名所図会から4--文身4-(月刊「祭」2019.8月20号)

2019-08-23 07:11:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-

●だんじりと布団太鼓の古い絵図

地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
今回はだんじりと布団太鼓に携わる人々を見ていきます。

 
●布団太鼓もだんじりも、動く絵画展
動く美術館と言えば、祇園祭などの山車の祭を指していうことがありますが、この当時は、絵画を地肌に施している人、刺青を入れている人が、布団太鼓を担いだり、だんじりを引いたりしていました。
1布団太鼓



↑欄干下を担いでいます。


↑暑い夏の祭。川の水で顔を洗おうとしています。

↑軒先で一休み。履いているのは足袋でしょうか。
 
2だんじり
だんじりのほうにも刺青を入れた人はたくさんいました。




↑棒を担ぐ?押す?人、はやす人、どちらも楽しそうです。7人中5人が刺青です。

↑ひく人の中にも刺青を入れている人がかなりの割合で混じっています。
 猛暑の中、何を食べているのかは、ずっと下です。

◯刺青を入れている人の持ち場
刺青を入れている人が見られたのは、布団太鼓では担ぎ手として、だんじりではひき手としての参加している人に限られていました。逆に言えば、だんじりの上に乗っている人、家の上で見物している人は、服を着ているからかも知れませんが、見られません。
 こうして見ると、江戸時代なだけに、身分の区別があった影響も見られます。しかし、祭という場においては、その身分を超えて、お互いに笑顔で楽しんでいる様子も見られます。
 それは、見物する側の旦那衆が、担ぎ手やひき手に何かを振舞っていたからとも言えます。
 それは、何だったのでしょうか。
 
振舞われる◯◯
なにが、振舞われていたのかを見るために
ずっと下を見てください。
 


 
 





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1布団太鼓に振舞われていたもの
 

↑の絵の右上部分を拡大したのが、下の画像です。
緑の□内では家の奥さんらしき人と担ぎ手が、談笑しています。黄色の◯の人達は、どうぞこちらで休んでくだされと言わんばかりに手招きをしています。
そして、赤い□の中では旦那らしき人が用意しているのは西瓜・スイカです。お盆のスイカを美味しそうに食べていますね。


2だんじりにも
 
 
だんじりにもスイカがふるまわれていました。その様子は↑の絵を拡大した下の画像を見るとわかります。
 子どもも頑張ってお茶を出すお手伝いをしています。美味しそうにひき手の人たちはスイカを頬張り、一人は食べながら引いている人もいます。
 スイカを振る舞う横は、旦那さんとその仲間たち?が豪華な部屋で見物しています。そこに親しげに話しかける笑顔のひき手と笑顔で返す旦那さん。身分を超える一面がこの時から祭にはあったのかも知れません。
 
 
 

















 

163.獅子噛のない上地車?大阪市だんじり今昔-摂津名所図会より3-(月刊「祭」2019.8月19号)

2019-08-23 06:33:05 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 
●だんじりと布団太鼓の古い絵図  
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。 今回もだんじり編で、だんじり本体部分の拡大図で本体の様子を現在の大阪市内のだんじりと比較しながら見ていきます。
 
 
 
↑大阪市若宮八幡大神宮蒲生四丁目だんしり
↑摂津名所図会のだんじり
 
 全体では、現在のものは当時のものより、やや小さめになっているようです。現在残っているだんじりで古い物は江戸末期のものや明治期のものがあることから、「摂津名所図会」が刊行されてから、間も無く小型化の流れがあったのかもしれません。
●彫刻と刺繍
 
↑大阪市杭全神社泥堂だんじり
 
 
 
↑大阪市若宮八幡大神宮蒲生四丁目だんしり
 
 
 
◯1獅子噛
現在の上地車の象徴とも言える屋根の獅子噛は、この当時では見られません。また、他の彫刻もあまり絵では見られません。
 獅子噛は、弘化三年(1846)の杭全神社市だんじりには見られます。しかし、嘉永五年(1852)の大阪天満宮のだんじりには見られません。「摂津名所図会」の時代にはなく、19世紀中頃より次第に獅子噛は広まっていったようです。
 
 
↑嘉永五年(1852)大阪天満宮のだんじり。獅子噛はない。
 
 
 
◯2刺繍か彫り物か
 そして、水引幕は現在にも引き継がれていますが、
「摂津名所図会」の本文にも
 特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
と、「錦繍」とあるように縫い物が飾られていたことがわかります。現在のものは、水引幕は前部のみで、後部は彫刻になっています。四本柱にも見事な彫刻が彫られており、一方、絵を見ると、だんじりの後部にも水引幕があり、四本柱にも布がまかれています。
 
●前てこと綱元   
↑今福西之町だんじり
 

↑杭全神社野堂北だんじり
◯4(◯3は写真番号付け間違いによりなし)台木
 現在はの台木は、岸和田のものは長方形のままのものが多いですが、上だんじりは、雲?などの模様がついています。また、精巧な彫刻も彫られていますが、「摂津名所図会」のものは、正方形に近い形になっています。
 
◯5てこ
てこは、やや「摂津名所図会」のほうが細いでしょうか。おもしろいのは、現在のものはてこを持つ人が、棒の上まで体を出していますが、「摂津名所図会」のものは、体を屈ませており、むかって右側の人はてこを完全に泣いてしまっています。
 また、上の野堂北だんじりのてこは下の後部の写真のように、杭全神社のものなど、今のものはかなり短く、太くなったものもあります。急ブレーキで止まる時に紐を離したら、てこが落ちて止まるようになっています。
 細長いてこから、各地域の運行の仕方に合わせて進化していっているようです。
 
杭全神社野堂北だんじり後部のてこ
 
◯6綱元
綱元に穴が開いていて、そこから綱をつなげる構造になっているのは昔からのようです。管理人はこのしくみが一番新しいと考えていたので、新鮮な驚きでした。