月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

<月刊「祭」第27号 2014.4月>京都祇園祭の鶏鉾に播州北条節句祭!?-北条節句祭の鶏合わせと龍王舞-

2014-03-04 19:00:03 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-


 ヨイヤッサー ヨイヤッサー ヨーイヤッサーサー ソリャ ヤンチキドッコイショー
 桜の中を、黒屋根の化粧屋台が優雅かつ華麗かつ勇壮に舞う北条節句祭りが近づいてきました。
 この祭のすばらしさ、屋台のすばらしさは、各サイトをご覧になり、そして、4月のはじめの土日に加西市北条町住吉神社に脚を運ばれることでご確認いただければと思います。

 ここでは、北条節句祭の中で行われる「鶏合わせ」と「龍王舞」を主に見ていきます。

○「北条節句祭」
 まずは、加西市歴史文化遺産活用活性化実行委員会「北条節句祭ガイドブック」2012の記述を参考に、北条節句祭について概観します。北条節句祭は毎年四月の第一土日(古くは、四月二日三日)に加西市北条町住吉神社で行われています。旧暦の頃は三月の二日三日に行われていたようですが、新暦移行後一月おくれの開催になりました。ですので、この地域ではこの節句祭りの時期にお雛様を出す家が多いそうです。
 神社の位置を元にして西郷と東郷に分かれます。これらの地域から初日の昼頃に、黒い反り屋根が特徴の屋台が東郷=8基、西郷=6基宮入します。その後、各郷の当番町が一基ずつ二基の神輿を担ぎ、東側の御旅所の大歳神社まで屋台を従えて行幸します。屋台は各町へ戻りますが、神輿はここで一泊し二日目を迎えます。
 二日目は屋台は大歳神社にまず宮入をします。その後、龍王舞が行われ、神輿が屋台を従えて還御します。その際に、大歳神社から住吉神社の道中で祇園囃子練りと呼ばれ、静かな太鼓に合わせて、屋台に乗った青年が笛を吹きながらいく練りを見せてくれます。現在はほとんどが台車での運行となっていますが、東高室屋台は途中まで、御旅町屋台は全行程を台車なしで行きます。反り屋根の角棒をゆっくりの太鼓のリズムで落とさずに担ぐのは至難の業で、ここも大きな見せ場の一つといえるでしょう。
 屋台と神輿が宮入後、龍王舞が行われ、餅に御幣をさしたものを十二組木箱に乗せた御手供の餅などを宮に奉納します。そして、最後に鶏合わせが行われ、屋台が各町に戻り祭りが終わります。
 
御旅町の祇園囃子練り

●「龍王舞」
 龍王舞(りょうおうまい)は、東郷は栗田、西郷は小谷(こだに)の青年達が行います(西郷は、昨今は小谷が舞い、谷が太鼓を打つそうです)。 笛と太鼓に合わせて「サールーターヒーコー(と思い込んでいたのですが実際は違うそうです。)」の節で青年達が歌い、序破急の理で徐々に舞が激しくなります。踊るのは猿田彦命と考えられていますが、頭部の鶏は、鶏合わせのある住吉神社ゆえのものでしょうか。
 このような躍りは、重要無形文化財に指定されている加東市上鴨川の住吉神社や、多可町などにも伝わっております。また、北条町住吉神社のすぐ北側にある別所町大歳神社でも、ジョンマイジョと呼ばれる同様の踊りが残っています。このジョンマイジョには笛はないそうです。確か、この付近にも昔は節句祭りのような黒い反り屋根屋台が残っていたらしいと聞きましたが、それも別所町のものだったのかもしれません。
 
 鼻高面をかぶった者の躍りを表すことばとして、龍王舞(りょうおうまい)という呼び方が必ずしも大勢を占めているわけではなさそうです。では、なぜ、北条節句祭で龍王舞(りょうおうまい)と呼ばれているのでしょうか。 それは、蘭陵王と呼ばれる雅楽から来ているのかも・・・・!?と考えられそうです。蘭陵王というのは、宮島とかで踊られているらしく、写真などで見られた方も多いかと思います。
 蘭陵王の舞も旧暦の三月に舞われていたという記述を、管理人は昔どこかの本で見た気がするのですが、家中のコピーをひっくり返しても見当たりませんでした++; ただ、日本仮面文化研究所所長の梁取弘美氏によると、陵王もまた、文武天皇の時代には、竜神信仰と重なってくるとのことらしいです。管理人の不確かな記憶はさておき、龍王舞が、蘭陵王の舞からなんらかの影響を受けていると考えることは出来そうな気が・・・・・しませんか!?
              
神奈川県鎌倉市鶴岡八幡宮の陵王面
「頼朝と重源」(奈良国立博物館)2012より。       龍王舞。頭に鶏がついているのが見える。
 


●「鶏合わせ」
 鶏合わせは、東西の神輿が還御し、東西の龍王舞が舞われた後に行われます。東郷は横尾、西郷は西上野の代表者一名が烏帽子姿になり、それぞれ一羽づつ高くに掲げてお互いに向かい合わせます。闘わせるわけではなく、顔を見合わせ、目をそらさなかったほうが勝ちといわれているそうです.今は、神さまの前で平和を祈り加護を祈る儀式ともいわれているそうです(前掲「ガイドブック」)。

北条節句祭の鶏合わせ

古来の鶏合
 ○戦の予祝、占いとしての鶏合
  鶏合わせは、多くが闘鶏として昔から親しまれてきたようです。いくつか紹介していきましょう。おそらく日本での鶏合最古の記録であろう「日本書紀」にはこんな話が残っています。
 雄略天皇七年八月、雄略帝と敵対する吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみみさきつや)は、二羽の雄鶏のうち小さい一羽の毛と羽をむしり雄略帝とし、もう片方を自分の方として戦わせた。前津屋側が負けると、雄略帝側の鶏を殺していたそうです。本物の方は、前津屋が雄略帝に殺されます。
 他にも「平家物語」では、熊野別当の湛僧が源平どちらにつくかを決める際に、赤き鶏(平家側)と白き鶏(源氏側)を七羽づつ闘わせたところ、白が全勝して源氏につくことを決めたと伝えています。
 これらの闘鶏は、戦事の占いや予祝行事として行われていたようです。

 ○陰陽五行に則った鶏合
 一方、闘鶏は禁中(天皇が住む区域)行事としても認識されていました。吉野裕子氏は禁中行事の鶏合に関して興味深いことを、著書である「十二支 易・五行と日本の民俗」(人文書院)1994でおおよそ、下のように述べています。
 闘鶏は、幼い皇子がいるとき、辰月(三月)三日に行っていた。(「禁秘御抄」、「洞中年中行事三月」、「宣胤御記」)
 辰の月に鶏(酉)を持ってくることは、陰陽五行の十二支・支合の法則*1に則って金気を強める。金気は「健」に通じて子ども達の健康に繋がる。
 となると、旧暦三月三日の北条節句祭の鶏合わせもこの法則に適うと言えるでしょう。


 ←画像は、前掲吉野氏の著書
 *1支合の法則-五行・木火土金水を十二支に割り当てる方法の一つ。
 北側三つ亥子丑を水、寅卯辰を木、巳午未を火、申酉戌を金とし、丑辰未戌には土の性質も持たせるのが一般的な配当。
 支合の場合は、子丑が土、亥寅が木、戌卯が火、巳申が水、午未が土となり、辰酉は金となる。

京都祇園祭鶏鉾との類似!?
 鶏鉾の拡大図の赤丸下の船部分には、写真のような金色の鶏が二羽背中合わせで乗せられます。
そして、拡大図の上の部分の人型は、住吉明神と言われています。
二羽の鶏と住吉さん。北条節句祭を思い浮かべる播州人は少なくないはずです。
本記事を書いた約5年後の追記
「住吉名勝図会」という書物によると、大阪の住吉大社でも闘鶏がなされていたことがわかりました。この記事この記事をみてください。
 
  → 


編集後記
 北条節句祭は、比較的規模の大きい祭でありながら、現役の絹常製の刺繍が数多く残っている稀有な祭です。
 また、桜と黒い屋根に金の梵天、着流し姿の組み合わせも非常に洗練されていて、感嘆のため息が絶えません。
 このような絶妙の色の組み合わせ、数々の文化財、担ぐ技術どれも一級品でありながら、伊達花にはちょっと笑ってしまうような有名人を入れるなどの洒落っ気もあります。また、困ったときには屋台を超えて助け合う精神が根付いているという話もよく聞きます。
そこに住む方々の心意気が一級品なのでしょう^^ 


唯一残る初代絹常の水引き幕 東高室屋台

 
有名人の名が…           

編集後記2 間違いの訂正
 コメント欄にあるとおり、間違いの指摘を賜りました。実は、このコメント欄以外にも指摘があり、訂正いたしました。このような間違いに気づかれたときは、追って訂正いたしますので、ご指摘下さると幸いです。ご指摘本当に有難うございました。