月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

353.この担ぎ棒はどこの神社の屋台??(月刊「祭御宅」2021.05月22号)

2021-05-29 21:27:26 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-

●またまた場所が分からない写真

 また、場所が不明の写真が出てきました。

無視できないのは、屋台の棒と思われるものが写っていたからです。


●手がかり

 写真の撮影日は2012年4月26日木曜日。管理人は当時、加西市で閑職にいそしみ、帰りに神社仏閣めぐりをするのが日課でした。なので、加西市や加東市であルと思われます。そして、もう一つが下の写真の伝承です。「大歳講」の始まりとして、公達を当社でかくまい白酒を献上したが、やがて帝として即位した。それ以来九月十二日の夜に、白酒をもって当社に無言参りするようになったというものです。

 しかし、神社の名前がしるされていません。ためしに、グーグルで「大歳講 無言参り 白酒」などで検索しても、それらしきものはかかりませんでした。

 

加東市 大歳神社で検索

「加東市、大歳神社」で検索すると、グーグルマップの結果が出てきました。

 加東市に限らず、小野市、加西市のものが表されています。地図にアイコンを合わせると、そこの写真が出てきます。これをしらみつぶしに探してみました。後になって気づいたのですが、写真は山中なので、山にあるものを優先的に早くみつけられたかもしれません。

 

ようやくみつけました。小野市脇本町のものでした。






小野市脇本町の大歳神社の屋台はかつて好古館で展示されていました。その担ぎ棒であるとおもわれます。この屋台は旧三木市久留美の屋台とも伝わっているので、上の写真の担ぎ棒は、旧久留美屋台の担ぎ棒でもあったのかもしれません。

 


350.明治四年のゴンタ太鼓-当時の大宮八幡宮宮司の日記から-(月刊「祭御宅」2021.5月19号)

2021-05-27 22:02:08 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●ドでかいゆえのゴンタダイコ
三木市中心部においては屋台はタイコと呼ばれます。そして、腕白を意味する「ゴンタ」がつくと、ある一定の屋台を思い浮かべます。
 今は大宮八幡宮では多くの人が下町を思い浮かべることでしょう。といっても、トラブルを常に起こすからというわけではありません。
 担ぐ人の見た目のイカツさや、屋台のデカさ、落とした時の音の大きさなどから、そんなイメージを持っているにすぎません。ちなみに、あのドでかい屋台を落とさずに石段を昇りきる下町屋台の統率方法は、教育関係者も必見です。
 
●本当のゴンタダイコは年がわり
もちろん祭にはケンカがつきもの、大宮八幡宮の祭でもケンカをしたり、巻き込まれたりというのは、何年も祭に参加していると当たり前のようにあります。この年はあっこがようもめた、そのまえはどこそこでケンカがあったと、ケンカが起きる屋台は年がわりです。大きなトラブルを起こした屋台をゴンタダイコと呼ぶならば、ゴンタダイコは年がわりにめぐってくるものといえます。
  幕末から明治時代まで大宮八幡宮宮司を勤めていた池田春翬(き)氏の日記『大宮神社日記』明治四年に、トラブルを起こした町が記録されていたのです。この当時、屋台は明石町、下町、新町、上町、中町の下五町と高木の計六台、高木の御旅所まで高木が御神輿を先導し、他の屋台は後を付き従っていました(参考*井本由一「明治初年の三木町」『三木史談』一九八〇)。
 そこには、下のように記されていました。崩し字なので、管理人が読めたところだけ記します。
 三木市立図書館に行けば崩し字を解読された全文が掲載された、松村義臣『池田春翬手帖全編 ふるさと三木文庫5』(三木郷土史の会)1989 を見ることができます。「廿二日 曇天晴又正丸 神輿緒?渡御 新町太鼓太こと目廿二日 曇天晴又正丸 神輿緒?渡御 新町太鼓太ことめ 若?老ト若中争論」
 
大宮八幡宮祭礼日は、旧暦の9月13日ですが、その年は延期され22日になっていました。
そして、この年に「太鼓」を「とめ」て、「若?老ト若中」が「争論」したのは「新町太鼓」だったと書かれていました。明治四年のゴンタ太鼓は新町だったようです。
 
 
集後記
 大宮八幡宮の今の祭ができたころのちょっとした出来事を日記からさぐってみました。

340.神社奉納の祭礼絵馬を見るときの注意(月刊「祭御宅」2021.5月9号)

2021-05-17 19:21:58 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-

・この祭礼絵馬はどこに掲げられている?
 

 この祭礼絵馬を見ると、祇園祭であることが分かります。左から先頭は長刀鉾、次は傘鉾(多分綾傘鉾、もしかしたら四条傘鉾かもしれません。)、その後はおそらく芦刈山、そして右上の唐破風の鉾は菊水山であると考えられます。


↑長刀鉾



↑綾傘鉾


↑菊水鉾

 この祭礼絵馬は、祇園祭が行われる京都の八坂神社(祇園社)にかけられているもの、、、、ではありません。

 この絵馬があるのは、なんと広島県、安芸の宮島。厳島神社本殿むかって左手にある旧阿弥陀堂・現在の千畳閣に掲げられています。文字が読めなかったので、誰がどのような意図をもっていつ奉納したのかは分かりませんでした。





●宮島の祇園祭絵馬が教えてくれること
 さて、日々祭りのことをあれやこれやと考える祭オタクや、研究する人に対して、「これ気いつけなはれや」と宮島の祇園祭り絵馬が教えてくれることがあります。この絵馬を見れば多くの人が、「祇園祭」だとわかるはずです。宮島にも山鉾があったと考える人はいません。

 しかし、他地域の資料が少ない神社ではどうでしょうか。絵馬を見て、即その神社の昔の祭礼風景だと早合点してしまわないようにしたいものです。この国では、他神社の祭の絵馬を掲げる習慣があるということを念頭におかねばなりません。


331.浜の宮天満宮の戦後の道と祭-天神屋台入魂式見学で聞いた話-(月刊「祭」2021.4月1号)

2021-04-03 00:07:13 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●天神屋台入魂式



 令和3年、2021年3月28日、姫路市浜の宮天満宮の天神屋台が漆塗り、金具などの完成を受けて入魂式がとりおこなわれました。その様子については後日にとりあげるとして、今回はそこで地元の方に聞いた話しから、浜の宮天満宮の戦後の道と祭の歴史について話します。
 
●浜の宮天満宮秋祭り
浜の宮天満宮
姫路市飾磨区須加40

 屋台は、須加、宮、天神、西細江、川内細江、中細江、南細江、大浜、港の9台。
 9日に御輿の行幸があり、神社の元々の鎮座地である宮の御旅所に行きます。その時は御輿を宮のだんじりが先導します。帰路は須加の屋台が先導していましたが、もともとは須加のだんじりが先導していたとのことです(御神職さんのお話、兵庫県教育委員会『播磨の祭礼:屋台とダンジリ』2005)
 そして、御旅所や宮入後の境内での屋台の台場ざしは、姫路市指定の文化財にもなっており、大迫力です。
 
浜の宮天満宮、道と屋台の戦後
練り上手屋台の通る道
「太」
 台場ざしなどの荒業をこなし、練り上手で知られる浜の宮天満宮の屋台練り。神社東側の国道436号線を練り合わせをしながら南下してきます。
 

↑練り合わせをしながら国道を行く天神屋台(左)と須加屋台
↑練り合わせをしながら国道を行く宮屋台(右)と西細江屋台
 
「細」
 一方で御旅所への行幸や、村練りとなるとかなり狭い道をセンチ単位で屋台の舵をとりながら練って(担いで)行きます。浜の宮天満宮の氏子域は港のそばにあり、昔の道はこちらの狭い道のほうだそうです。


太い道はどのようにしてできたのか
 聞くところによると、上の練り合わせをしながら屋台がやってくる道ももともと細かったようです。
 この地も戦争の時に空襲にあったとのことです。戦後の復興に際し、道際の家や神社や寺院が、国道をつくるために何メートルかずつ土地を分けたとのことです。
 屋台が練り合わせをしたり、安全に祭見物ができるのは、このような地元の方の努力があったからなのでしょう。



 
 
 

325,姫路城下の屋台ならぬ花台!?(月刊「祭」2021.2月2号)

2021-02-14 02:02:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●三ツ山祭で有名な射楯兵主神社
 播州の国宝にして世界遺産の姫路城。そのお膝元の神社が射楯兵主神社です。平成二十五年(2013)には二十年に一回の三ツ山祭が行われました。現在は置山の祭として知られていますが、もともとは播州の要所であり、いち早く盛大な◯◯車の祭が行われていたようです。
 そこには、「◯◯車」や屋台ならぬ「花台」なるものも出されていたようです。
 


●もともとは車だった三ツ山
※ドヤ顔で下の内容を書いていましたが、これより詳細かつわかりやすい文章が、小栗栖健治「三ツ山祭の成立と展開 第一節 天神地祇祭と臨時祭」姫路市教育委員会文化財課『播磨国三ツ山大祭調査報告書』2015所収に出ています。
 
 天正九年九月九日(1581)の記述とさられる『惣社(射楯兵主神社のこと)集日記』には、その当時伝わっている神社や祭礼の歴史が記されています。
 その中の大永元年(1521)、二年(1522)の記事を見ていきましょう。
 大永元年六月卯日 装山并花台 -中略- 三村ゟ車出 九院ゟ台捧
 
 装山は飾り山、現在の三ツ山を連想させます。花台は、神仏に備える花の作り物かと考えていますが、これだけでは分かりません。さて、装山と花台のうち、花台は「九院ゟ台捧」とあることから九つの寺院から出されていたと思われます。となると、「三村」から出されていたのは「装山」のはずですが、「三村車出」と三村から出されるのは車となっています。山=車の可能性、山を出しさらに車を出していた可能性の両方がこの記述から考えられそうです。しかし、上で挙げた「報告書」では『播磨国飾東郡国衙庄惣社略記』の
 
 同(大永元)年六月卯日、神部ノ社三山ノ形チ装山之造車并ニ宝前装花台捧上ス
 
という引用文を挙げ、三ツ山が車であったことを指摘しました。
 さらに大永二年の記述を見ていきましょう。
 
 大永二年五月三日大祭祀 装山を改、国府村、宿村、福中村三司ゟ広前三ヶ所ニ作ル、高サ三間二尺と云、木竹にて造り、色絹にて巻之
 この年から装山を改めて、今のような置き山になったことが見て取れます。
 
 下の絵が成立した時は、すでに置き山になっている時代です。しかし、作者がそれを意図したのかどうかは分かりませんが、置き山前の車時代の山を想像する手掛かりになるのかも??

寛永十年(1633)頃 「播磨国総社三ツ山祭礼図」
 
 
●大祭祀、九カ寺院が出す屋台ならぬ「花台」
 ドヤ顔で上の内容を書こうとしたのですが、残念ながらオリジナリティはありませんでした。ここからは、オリジナリティがあるはずですが、この記述の紹介、あるいは類似記事の紹介は兵庫県立博物館がすでに展示していました。が、少しばかり初だしな内容もあるので、最後までお付き合いください。
 まずは『惣社集日記』の大永元年の記事をもう一度あげてみます。
大永元年六月卯日 装山并花台 -中略- 三村ゟ車出 九院ゟ台捧
 大永元年に花台、台を捧げていたのは九院でした。三村の山が神仏の依代であるとするならば、花台は「捧」の文字からわかるように、神仏に捧げる性質のものであったことがわかります。
 この九院の内容が大永二年の大祭祀の記事にも見られます。そこには、「花台」の姿が少しばかり想像できる記述が残っていました。
 九ケ寺院造花を出す、当年造花車を改メ
広前ニ装山す
 
 大永二年の記事では九カ寺院造花を出すとあることから、花台は造花であることが分かります。さらに、当年「造花車を改め、装山す」ということからこの年から置き山になったと思われます。逆に言えばそれまでは、花台造花車でした。
 
●寺院が出す造花車
 寺院が出す造花車がどのようなものかは、なかなか知る由もありません。しかし、寺院が造花の車を出していた事例は河内にありました。
 それが『河内名所図会』に載っている、誉田八幡の車楽です。といっても、車楽はここでは音楽を意味しており、この車自体は「藤花車」と呼ばれていたそうです。絵を見ると、車の上には造り花が見られます。この車楽は誉田八幡の東西二箇寺から出ていました*。この二点は大きな共通点と言えるでしょう。
 

「河内名所図会」享和元年(1801)
 
 屋台・だんじりが隆盛する前の祭りでは、花車を寺院が出して神仏に捧げるいう形態が一つの祭の型としてあったのかもしれません。
 
 
*大阪市立博物館「第121回特別展 南河内の文化財 平成5年3月1日〜4月11日」(大阪市立博物館)1993
 
 
 

266.京都祇園祭山鉾巡行のシンプルな法則(月刊「祭」2020.3月4号)

2020-03-24 02:03:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●いきなり結論から
 江戸時代前期(あるいは応仁の乱前後)から江戸時代中期までの祇園祭の山鉾巡行の前祭と後祭に共通したきまりは、船形の「船鉾」が最後尾を、そして、弁慶の長刀(と義経)が先頭を行っていた可能性が高いということです。
 この結論を導いた理由として、
①前祭、後祭ともに船鉾が最後尾を行っていたこと
②明治のはじめまでは後の祭の先頭は橋弁慶山であったこと
③長刀鉾の長刀が、元々は弁慶が持っていたものと伝わっていたと考えられること
④長刀-船の先頭と最後尾が前祭、後祭が揃えられており、船鉾は神功皇后一行の行きと帰りというふうに、前祭と後祭でテーマが揃えられているので、先頭の長刀もテーマが揃えられていてもおかしくない。
⑤こちらのサイトによると、「長享銘尽」という書物には、弁慶の長刀・岩融(いわとおし)もまた三条小鍛冶宗近が打ったものとされており、その伝承を長刀鉾が引き継いだと思われること
そのうち、①②は周知の事実としてよく知られていますが、③④について詳しくみていきたいと思います。

●「京雀跡追」の記述

 この記事では『京雀跡追』に長刀鉾の長刀が弁慶のものであると書いていることを述べました。それは、「跡追」いする前の『京雀』でも、弁慶の長刀である事が書かれています。『京雀』の発行は明暦四年(1658)年で和泉守金道が長刀を打つ前の成立となっています。なので、金道が長刀を打ったと言う記述は当然ありません。また、三条小鍛冶宗近が長刀を打ったという記述も見られないところは興味深いところです。

 これも前の記事で述べたところですが、『祇園会細記』の長刀鉾の天王像は船を担いでおり、和泉小次郎であると考えられます。つまり、和泉守金道たるものが、長刀を打ったことによって長刀の持ち主とされる人物が弁慶から和泉小次郎に変わったと述べました。

 そこで、長刀鉾の天王像の変化を見ていきたいと思います。

●描かれた長刀鉾から

 洛中洛外図などの室町時代から江戸時代初期の屏風絵では、長刀鉾の天皇像にあたるものはみあたりません。




祇園祭礼図(サントリー美術館像・16世紀頃?・佐藤康宏『日本の美術 第484号 祭礼図』(至文堂)2006の表紙)

 前の記事でも挙げた宝暦七年(1757)の「祇園御霊会細記」では、天皇像は和泉小次郎と思われる舟を担いだ絵が描かれています。


↑御霊会細記の長刀鉾(管理人模写)


↑『御霊会細記』の天王像。伝説の通り和泉小次郎が船を担いでいます。

 しかし、元禄十七年(1704) の序があり、題簽(だいせん)宝永(17041711)とあることから(仏教大学図書館の解説より)1704-1711年頃の様子が描かれていると思われる『花洛細見図』では、天王像は船を担いでいません。また、人物は船を担ぐのではなく、船に乗っています。文面では三条小鍛冶宗近が刀を打ったこと、霊験あらたかで和泉守金道が新たにつくったことが書かれています。ですが、やはり和泉小次郎の長刀であるとは書かれていません。

 長刀鉾の長刀が和泉小次郎の長刀であると伝えられ始めるのは、管理人が見る限りでは、『続 祇園御霊会細記』文化十一年(1811)年頃がはじめです。

 つまり、和泉守小次郎が長刀を新たに打ったことにより天王像が和泉小次郎となり、それによって長刀の持ち主も和泉小次郎と伝わるように変化したと思われます。では、船に乗る人物は誰なのでしょうか。

●船に乗る人物

(ここの画像は本当はカラーです。是非本物を見るか、本を見るかしてください。)

宝三年(1684)に和泉守金道が長刀を打つ直前のものと思われる絵が、1660年代と思われる「祇園祭礼絵巻(以下絵巻)(狩野博幸 山路興造 藤井健三『近世祭礼・月次風俗絵巻』(花林社)平成十七年所収画像もこの本より)↓


↑絵巻

と、それと同時期と見られる(なんかの本でみたけど、コピーをなくしました)青文庫の「祇園祭礼図巻(以下図巻・画像は祇園祭編纂委員会 祇園祭山鉾連合会『祇園祭』(筑摩書房)昭和五十一年)より↓」です。


↑図巻

 「絵巻」の方を見ると船の上に二人いることがわかります。また、『図巻』の方も二人のっており、大柄な人物と小柄な人物が乗っています。『京雀』の記述を考えると、船に乗っているのは大柄な弁慶と小柄な義経だとも考えられます。

 後の祭の橋弁慶山が弁慶と義経の『五條大橋』ならば、船に乗る弁慶と義経は『船弁慶』でしょうか。




長刀鉾の長刀に関する持ち主の伝承の変化

長刀鉾の長刀に関する持ち主の伝承の変化はおおよそ次の通りだと思われます。

船弁慶をモチーフにした三条小鍛冶宗近の長刀

天王像も船弁慶

 ↓

和泉守金道が長刀を新造

同時あるいは間もなく天王像を和泉小次郎の船担ぎに変更

 ↓

長刀の持ち主が和泉小次郎にかわる。

 

 

164.1790's大阪、布団太鼓と祭に携わる人々-摂津名所図会から4--文身4-(月刊「祭」2019.8月20号)

2019-08-23 07:11:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-

●だんじりと布団太鼓の古い絵図

地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
今回はだんじりと布団太鼓に携わる人々を見ていきます。

 
●布団太鼓もだんじりも、動く絵画展
動く美術館と言えば、祇園祭などの山車の祭を指していうことがありますが、この当時は、絵画を地肌に施している人、刺青を入れている人が、布団太鼓を担いだり、だんじりを引いたりしていました。
1布団太鼓



↑欄干下を担いでいます。


↑暑い夏の祭。川の水で顔を洗おうとしています。

↑軒先で一休み。履いているのは足袋でしょうか。
 
2だんじり
だんじりのほうにも刺青を入れた人はたくさんいました。




↑棒を担ぐ?押す?人、はやす人、どちらも楽しそうです。7人中5人が刺青です。

↑ひく人の中にも刺青を入れている人がかなりの割合で混じっています。
 猛暑の中、何を食べているのかは、ずっと下です。

◯刺青を入れている人の持ち場
刺青を入れている人が見られたのは、布団太鼓では担ぎ手として、だんじりではひき手としての参加している人に限られていました。逆に言えば、だんじりの上に乗っている人、家の上で見物している人は、服を着ているからかも知れませんが、見られません。
 こうして見ると、江戸時代なだけに、身分の区別があった影響も見られます。しかし、祭という場においては、その身分を超えて、お互いに笑顔で楽しんでいる様子も見られます。
 それは、見物する側の旦那衆が、担ぎ手やひき手に何かを振舞っていたからとも言えます。
 それは、何だったのでしょうか。
 
振舞われる◯◯
なにが、振舞われていたのかを見るために
ずっと下を見てください。
 


 
 





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1布団太鼓に振舞われていたもの
 

↑の絵の右上部分を拡大したのが、下の画像です。
緑の□内では家の奥さんらしき人と担ぎ手が、談笑しています。黄色の◯の人達は、どうぞこちらで休んでくだされと言わんばかりに手招きをしています。
そして、赤い□の中では旦那らしき人が用意しているのは西瓜・スイカです。お盆のスイカを美味しそうに食べていますね。


2だんじりにも
 
 
だんじりにもスイカがふるまわれていました。その様子は↑の絵を拡大した下の画像を見るとわかります。
 子どもも頑張ってお茶を出すお手伝いをしています。美味しそうにひき手の人たちはスイカを頬張り、一人は食べながら引いている人もいます。
 スイカを振る舞う横は、旦那さんとその仲間たち?が豪華な部屋で見物しています。そこに親しげに話しかける笑顔のひき手と笑顔で返す旦那さん。身分を超える一面がこの時から祭にはあったのかも知れません。
 
 
 

















 

127. 貝塚太鼓台屋根考(月刊「祭」2019.7月8号)

2019-07-13 11:34:15 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-


●夏の祭
大阪や堺では地車や布団太鼓が出る祭は秋だけでなく、夏にもあります。そして、布団太鼓、屋台や地車が活発に動いていた幕末には、その庶民文化の中心地となったこともあり、優れた彫師を多数輩出した地域でもあります。

●貝塚市感田神社の夏祭の太鼓台
感田神社は浄土宗本願寺派願泉寺の寺内町の現社地に、南部の海塚村の牛頭天王、菅原道真を勧請し、天照大神を中心として三柱の神として祀ったと伝わっています。管理は境内に寺院があった天台宗の宗福寺の僧がおこなっていたそうです。17世紀には社殿ができており、文化時代に社殿がやけ、翌年再建されたそうです。つまり、江戸時代には感田神社の姿は現れており、このころあたりに太鼓台が動き出したと思われます。
18世紀の記録ではだんじりが出たという記録があり、これが貝塚の太鼓台の始まりと考える人もいます。一方で、記憶は定かではないのですが、根来寺と関連して寺内の門徒がはしごをかついではやし立てた?という類の伝承ものこっており、それが始めと伝わったりしもしています。
また、感田神社の太鼓台は差し上げを行いません。大阪市大阪天満宮の催し太鼓が差し上げをしなかったり、姫路市で記録上の最古級のもなである松原八幡神社の木場屋台が、村練りの時は差し上げないことを考えると、感田神社の太鼓台もかなり古くからあるものと思われます。


↑宮の前では差し上げなしで、儀式を執り行います

●感田神社の太鼓台の屋根
・まら
屋根の上についている二本の棒は「まら」と呼ばれています。「まら」は男根を意味しますが、二本あるのは、蛇の男根が二本あること(後述吉野氏の著作)と、感田神社の祭神に素戔嗚尊がおりオロチ・大蛇を退治した祭神であること、感田神社の中央の祭神は天照大神ですが、日程的には祇園祭の日程であり素戔嗚尊の祭の意味合いが強いことを考えると納得がいきます。



・伊勢神宮外宮刺車紋との類似
尾関明氏は「新居浜太鼓台」において興味深い指摘をされました。尾関氏が参考にしたのは吉野裕子「陰陽五行思想と日本の祭」(人文書院)1978(ただしリンク先は2000年再版のもの)です。その指摘によると、伊勢神宮外宮の刺車紋と似ているとのことです。そして、吉野氏は先述の著作において、伊勢神宮内宮が不動の北極星・天皇をさすのに対し、刺車紋を擁する外宮は北斗七星を指すとしています。
また、北斗七星の柄杓に水を入れ内宮に供物を捧げるのを意味すると思われる儀式が十一月や二月、九月に行われていると書いてあった「はず」です。ただ、伊勢神宮外宮と内宮の儀式は秘儀であり、こらが北斗七星と北極星を即いみするものであると当時の貝塚の人たちがしっていたかどうかはわかりません。

・(考察?妄言?)なぜ伊勢神宮刺車紋と類似したものを持ち出したのか

感田神社は天台宗の宗福寺が管理していました。比叡山延暦寺のお膝元である日吉大社は北斗七星と習合した七神をまつっていました。ただ、伊勢神宮外宮や刺車紋が北斗七星を意味すると当時の貝塚の民衆や為政者が考えていたかどうかはわかりません。

↑滋賀県大津市日吉大社東本宮
しかし、江戸時代の貝塚は幕府直轄地・天領となっており、当時の天台宗は、幕府が南光坊天海ら天台僧を使って、各地に「東」照宮を建立し、皇祖神天照大神と幕府将軍の同一化とも言える宗教政策が行われていました。そこで、祇園祭という素戔嗚尊を祭る日に外宮を思わせる太鼓台を出すことで、天照大神と武神である素戔嗚尊を同一化させ、それは、武家政権である徳川家と皇統を同一化させる意味があったのかもしれません。