月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

日記 -弱者の武器-

2006-01-12 20:09:45 | 民俗・信仰・文化-時事・コミュニケイション-
 僕は「日記」の「自分自身を振り返る」以外の、別の効果を知りました。
 それは、その人が「日」々をすごした「記」録に他ならないということです。
 昔の人の日記は、その人の人生ばかりでなく、その時代を映す「史料」としての価値を持ちます。例えば、ナチスの暴虐を綴った「アンネの日記」。南京大虐殺の史料として注目される「ラーベの日記」等があります。平安時代の貴族達の日記からは、その時代の風俗や習慣をうかがい知ることもできます。
 そして、今を生きる人の日記は、例えば犯罪の立証のための重要な「証拠」となりえます。それは、現代の学校や会社で行われているセクシャルハラスメントやパワーハラスメント(上司や先輩の嫌がらせ)、いじめ等にもかなり有効だそうです。
 このようなことで、今悩んでいる皆さんには、日記をつけることをお勧めします。「今日あったことを記録する。」それが、弱者に許された最後の武器なのです。

 でも、あまりブルーな事ばっかり書いていると、気分が打ちひしがれてしまうので、楽しいことや嬉しいことを書くことも忘れずに。
 ぼんくら怠け日記(毎日ではなく飛び飛びの日記。ホームページのことではなくて)をつけている僕ですが、いざというとき(*)のため以外は、あんまりブルーな事は書かないようにしています。

 (*)その時に役に立ったのは、日記というかその日の記録でしたが、一度だけ功を奏したことがあります。その時は、本当に記録しておいてよかったと胸をなでおろしました(TT;。
 でも、少し効きすぎのときもあるので、使用は程ほどに
 

白を白、黒を黒と言うこと -ホームページをつくって2年-

2006-01-10 22:46:03 | お気楽言葉
 僕は、昔、恩師に「祭りの研究者になりたいです」と言った事があります。
 その応えは、ニコッと笑って「なって下さい」でした。
 僕は、「そんなに甘くないぞ」とかいわれるのかと思ったので、腹をくくって相談したつもりなんですが、正直拍子抜けした気持ちになりました。
 今、なんとなくですが、その意味が分かった気がしています。
 答えは、「もうなっている」ということではないだろうかということです。
 
 昔、親しい人に似たようなことを言った事がありました。
 その人は、「教授」になるには、有力者の意向に沿って「白を黒」といわなければならないと言っていました。
 その人の言うことは極論ですし、必ずしも、全ての教授がそうではないと思います。しかし、僕が見聞きした中でもそのような人が何人かいることも事実です。その人は「教授」であったり、「講師」であったり、講師のいすを狙う「学生」であったりしました。耳に聞いていたような世界を目の当たりにした時は、ちょっとばかりショックでしたし、憤りもしました。
 ですが、その人は「研究者」とは呼べないのでしょう。
  
 「白を黒」というだけの度胸と覚悟,言わざるを得ない状況に追い込まれる機会がなかった僕は、ボンクラな研究者といえるのかもしれません*。
 でも、同じ勇気をだすならば、「白を白、黒を黒」という勇気にしたいと思い、このホームページをつくったことを改めて思い出しました。
 数少ない読者の皆様方、なにとぞ本年もごひいきに。
 
 * ここでいう研究は「調べる」と同じような意味で使っています。   

ミンカン2 -大学では キャンパスと産学のしわ寄せ-

2006-01-03 09:53:55 | 民俗・信仰・文化-時事・コミュニケイション-
 僕自身を含め、多くの人にとって、大学生時代とは人生の中で、最も思い出深い時間の一つになっていると思います。

 昨今では、その大学もバブル崩壊後の就職氷河期を経て、就職指導に力を入れるところが多くなってきているようです。そして、その傾向が多くの学生のニーズに応えるものであるということも事実でしょう。また、就職に直結しない学問は軽視されがちになるのも、背に腹変えられぬ状況となっては仕方ないことなのかもしれません。

 一方、大学経営の面においても、いわゆる「無駄を省く」「ミンカン」の経営がもてはやされています。現代的な建物がたちならぶキャンパスで、コンピューターで管理されたカリキュラムをこなすことで、社会に通用する人材に、効率よく学生を育て上げることが「成果」や「結果」としてもてはやされます。

 そのような流れの中、学生にとっての時間の「無駄」、経営側にとっての経費の「無駄」を省くために、夜の一定の時間以降は学生をキャンパスに残さないようにする大学もあるそうです。それは、研究室のあたえられた大学院生も例外ではありません。僕はこのような学生の集いや思索の場を奪う風潮を快くは思いません。確かに就職や資格試験の勉強は電車の中や、自宅でもできます。しかし、何万円もする大事典や絶版の稀書を使う好奇心にまかせた調べ物、仲間との夜を徹した議論、大学生の想像力やコミュニケーション能力、そして、コペルニクス的な発見を生み出すための貴重なチャンスもまた、大学生には必要なものです。金銭の都合上、下宿の出来ない学生が増える中、そのようなことが出来る場として、キャンパスはこれまで以上に重要な役割を担っています。

 そのキャンパスをはやばやと閉ざすような経営に本当の意味での未来はあるのでしょうか?韓国は図書館が二十四時間あいてるのだとか。羨ましいかぎりです。