月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

115.大市八幡神社太鼓台(月刊「祭」2019.6月25号)

2019-06-26 04:50:49 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●大市八幡神社太鼓台(元下大市八幡神社太鼓台)復活その後

2017年7月に見学させていただいた後、2018年10月にも見学させていただきました。その後の変化について報告します。
昭和40年代に動くことはなくなって以来、50年ぶり2014年頃に復活しました。

●担がれた太鼓台、走る太鼓台


以前はあまり担がれていませんでしたが、今回は走り、担がれが多くなっているように感じました。
それに伴い、掛け声はリズミカルになっていました。

●地域としてのまとまり
祭りを通して、地域としてのまとまりができているのかもしれません。12月には、注連縄作りをみんなでしていました。

112.京都東側の三条小鍛冶-弁慶から和泉小次郎へ。長刀鉾の長刀-(月刊「祭」2019.6月22号)

2019-06-22 17:06:26 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

前号では、小狐の刀にまつわる伝承を見てきました。ここでは小狐や三条小鍛冶の伝承がどのように変容したのか、それは何故なのかを考えます。

●長刀鉾の長刀、持ち主の推移
三条小鍛冶宗近で祭オタクとして忘れてはならないのが、長刀鉾の長刀の奉納です。「祇園御霊会細記」などによると、祇園社(八阪神社)に小鍛冶本人が奉納したと伝わっています。しかし、その長刀は我々はみることはできません。
宝暦七年(1757)の祇園御霊会細記には、長刀が小鍛冶によるものであることが書いてあり、小鍛冶が稲荷を信仰していたことが書いてあります。また「世に伝えて稲荷明神鍛冶小槌を合わせ給へりといふ」とあり、稲荷が相槌を小鍛冶の相槌をつとめたことも書いてあります。


「祇園祭細見」では、文化11年(1814)の「増補祇園御霊会細記」や「祇園山鉾考」大正元年(1912)を参考にして、
「小鍛冶宗近が娘の病気平癒を願い、祇園社に長刀を奉納したことが書かれてあります。また、後に和泉小次郎親衡はこの長刀を所望し愛用したが、何かと異変が起こり、祇園社に返納することにした。だが、一時預かった長刀鉾町で長刀は重く動かなくなったので、神意によりここにとどまることになり、長刀鉾ができた」
という伝承が残っていると書かれています。ですが、「増補祇園御霊会細記」を実際に見ると、「三条小鍛冶宗近の長刀を元々和泉小次郎のもので、家臣の勧めに従い祇園社に奉納した。疫病がはやってこの長刀を持ち出すと疫病は病み、祇園社に持ち帰る時に現長刀鉾町の地から動かそうとすると、重くなって動かなくなったことなどが書かれています。とあります。
いずれにせよ、持ち主は和泉小次郎たる人物となっています。

ところが、延宝六年(1687)の「京雀跡追」(『新修京都叢書第一』(臨川書店)1967 所収)では
くじとらず一番にわたす長刀はむさし坊辨慶か持し長刀也-〈中略〉- 古へより有けるはふかく町内に納置けるよし是三條小かぢむねちかうちたる長刀なり
とあり、小鍛冶の打った長刀であること、そして持ち主は弁慶だったと書いてあります。
そこで先述の宝暦七年(1757)の祇園御霊会細記では鉾部分の中程の天王像を見てみましょう。長刀を持っています。頭には烏帽子風のものがあり、僧というよらも武者風ですので、この時点では和泉小次郎と伝わっていると思われます。また、和泉小次郎は船を担いだとの伝承が伝わっており、よく見ると船を担いでいる様子が分かります。


では、なぜ長刀を持っていたとされる人物が弁慶から和泉小次郎に変わったのでしょうか。それを教えてくれるのは、宝暦三年(1753)に新たに長刀鉾にとりつけられた長刀です。
宝暦七年(1757)の「祇園御霊会細記」の長刀鉾のページの最後にはこのような記述があります。
當時鉾の上にあるハ延宝三年(1753)あらたに作る法橋和泉守来金通作にて真の小鍛冶か作ハおさめ置也
とあります。この長刀は、現存しております。

 

また、「京雀跡追」を見ると
「比より伊賀守金通打上けるをほこのさきにさすといふ」
とあります。伊賀となっているのは、現存の長刀から考えると、活字版を書籍として発行する時か、当時の著者の間違いだと思われます。
つまり、延宝三年に和泉守を名乗る者によって長刀が作られ、そのことにより小鍛冶の長刀を持っていたと者も、混同か和泉守の権威付けのためによって、弁慶から和泉小次郎に変化したと考えられます。

思わず長くなったので、次号は小狐のもう一つの伝承と、小鍛冶、小狐伝承の背景について考えることにします。


109.描かれた浮物刺繍-(月刊「祭」2019.6月19号)

2019-06-17 22:18:37 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●歌舞伎衣装と浮物刺繍
現在の屋台の工芸で大きな役割を果たしているのが浮物刺繍です。この技術がいつ頃からできたのかは分かりませんが、江戸末期には全国各地でし赤い羅紗生地に縫い付ける浮物刺繍が施された山車が出てきていたようです。

四国では歌舞伎衣装などでもこの浮き物刺繍が好んで使われていました。それらを調査してまとめたのが尾崎明男(ここでの尾関明氏と同一人物)氏らの観音寺太鼓台研究グループがおこなった「地歌舞伎衣装と太鼓台文化Ⅰ〜Ⅲ」2015、2016、2017です。


また淡路では人形浄瑠璃の衣装で使われています。洲本文化博物館大展示室で見ることができます。


●雀踊り人形
大阪では天神祭のお迎え人形などにも用いられていました。
それを再現したもの?現物?が大阪くらしの今昔館で展示されていました。

江之子島西町が元々所有していた雀踊りと呼ばれる演目の人形です。七月に雀の格好で踊るのでそう名がついたそうです。腰回りに獅子の浮き物刺繍が施されたものを巻いています。


この人形を記録した弘化三年(1846)の文章がのこっています。しかも絵入りです。


作ったのは柳文三という名の人形細工人です。


「衣装大略」が記してあり、「褌襠(まわし) モヘキ(も碧)ラシヤ(羅紗)シカミノヌイ(しがみ・獅噛みの縫い)金糸」とあります。

描かれた浮き物刺繍を見ましたが、もしかしたら同様のものが他にもあるかもしれません。




108.駅前ノスヽメ-岸和田地車観覧-(月刊「祭」2019.6月17号)

2019-06-17 21:37:54 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
昨年は約20年ぶりに岸和田のだんじりを見に行きました。といっても、あれからさらに岸和田地車の人気は高まったように思います。見にいったところで、結局いいところは何も見れないのではないかという懸念がありました。
ですが、それは杞憂でした。しかも駅近の究極、駅前はやり回し観覧のベストスポットでした。

●春木駅前
地車の数も少ないですが、ゆったりと見れました。








春木駅前やり回し

●岸和田駅前
カンカン場などのイメージから本当に見れないかなとおもったのですが、意外とゆっくりと見ることができました。


岸和田駅前やり回し

商店街を抜けてやり回し



107.上方山車文化(月刊「祭」2019.6月17号)

2019-06-17 16:15:53 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●上荷茶船仲間所有船形山車「天神丸」
(大阪くらしの今昔館発行のパンフレットより)
元禄年中(1688-1704)上荷茶船仲間(荷物運搬業の同業者の仲間)が所有していたものです。現在は大阪メトロ天神橋筋六丁目駅すぐの「大阪市くらしの今昔館」で展示されています。
寛政四年(1792)天満の大火で罹災しますが、彫刻や焼け残りの部品を保存していました。天満宮遷宮950年を祝う前年の嘉永四年(1851)、修復されますが、大正15年(1926)を最後に組み立てられることはありませんでした。平成十二年(2000)12月大阪市指定文化財となっています。






●精巧な工芸
彫刻や工芸は精巧そのものです。
飾り金具や木彫で装飾されています。







今の地車だと波にウサギなどのデザインで、下側についていることが多いのですが、ウサギが上部についています。



●構造
内ゴマですが、前後二輪ではなく、ローラー型の車輪が前後に一輪ずつついています。


普段は部品ごとにバラして保存していたようで、組み立てる時は、楔を打ってバラバラになるのをとめています。


元禄期という江戸時代前半に原型が作られており、当時隆盛した日光東照宮などに見られる「塗られた彫刻」がこの山車にも見られました。





106.若者たちの仕事(月刊「祭」2019.6月16号)

2019-06-17 09:10:24 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●宝
もう二十年も前の話です。管理人もまだ青年団所属の時に、入団したての後輩のことを「宝やなあ」と友人の父親が言いました。
20年を経た今、まさしくその通りだったということを感じています。そこで、屋台やだんじりで、青年団入って間もない若者の仕事はどんなことをするのかみていきます。

●雑用
はじめはやはりこれです。
三木市大宮八幡宮明石町青年団の場合は、入団間もない若者(高校生から20才くらい)は「弁当運び」をします。屋台運行から少しの間抜けて、境内の上で団員が食べる弁当を店から運びます。太鼓のバチを磨くのも彼らの仕事となります。
加東郡社町佐保神社下組では、屋台がとおれるように二俣の棒で電線をあげます。
加西市北条町住吉神社の多くの屋台では、台車の出し入れは若者の役割となります。


●盛り上げ
「元気」でいられること。これも若者の特権であるように思います。
上述明石町青年団では、入団間もないものは宮入り前に綱を取りに行き、それを大声で降ろして行くというのも一つの役割です。管理人の記憶ではここ十年ほどですが、その間で一つの「夢」となっていたようです。
北条町住吉神社のとある青年団では、入団間もないものの中から、声出しのリーダー役を決めるという試みもなされていました。
尼崎の貴船神社では前方で山合わせをする地車の後方に乗り、盛り上げます。

写真は前方。クリックすれば、後方の様子がわかります。写真と映像のだんじりは違うものかもしれません。



●宝への配慮
青年団入団当初は高校生であることが多く、未成年者への配慮が求められます。
先述の貴船神社の例だと、山合わせをする前方は非常に危険なものとなります。
また、北条町住吉神社の場合で台車の出し入れが、若者に任せることができるのはその台車の性能によるものです。二輪式や前輪が方向を固定されていないものを使用するなど、方向転換が容易なものを用いて横からすばやく取り付けることができます。さらに、手を詰めないための配慮で手すりが取り付けてあるのもかなりの割合でありました。
若者たちに活動を通して、社会性を育むとともに、安全に配慮する姿が各地の祭で見られました。

●とある他地域から入団した青年団員の話
ある時、とある春祭り地域の青年団一年目の若者の話を聞くことがありました。彼の地元はその春祭り地域ではなく別の過疎化地域で、そこでは秋祭の担い手として頑張っています。
その彼は、青年団員として楽しく一生懸命頑張れたようですが、「10%だけ満足できなかったことがあった」といっていました。
管理人は「もっと俺らにも雑用ばっかりじゃなくて、指揮者的な役割をさせてほしい」とか「もっとかっこいいことしたい」とかそんなことを言うのかなと予想していました。ですが、彼の言葉は全く予想とは違うものでした。
「今自分はこうして、A町の青年団として楽しく活動させてもらっている。だけど、自分の地元が人手不足で困っているんだし、本当なら同じように人手不足で困ってるB町でやるべきだったのではないか。」という内容のことを言いました。少なくとも管理人が彼くらいの年頃でにそこまで深く考えることは一切なく、最近の若い人に希望を持ってしまいます。
こんな若い人たちがいたら未来の日本に希望を持てる気がします。きっと、彼の後に続いて、人手不足のB町にも入団する若者が増えることと思います。我々おださんは宝の持ち腐れとならないように、律するところは律したいものです。



104.船鉾の工芸(月刊「祭」2019.6月14号)

2019-06-16 11:06:14 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●播州人に人気!? 船鉾
祇園祭の話を播州の祭仲間とするとき、かなりの確率で話題に上るのが船鉾です。
応仁の乱前からその存在は他の山鉾などとともに文献で確認でき、桃山時代や江戸時代になるとその姿が絵に描かれるようになります。
修士論文(妄想拙文?)作成用に管理人が作成した絵図をもとに当時の姿を見てみましょう。
もとにした絵は「祇園御霊会細記」とよばれる宝暦七年(1757)の本です(リンク先は鈴鹿文庫所収の本書当該ページ)
そして現在はこんな感じです。


「祇園祭細見」の著者である松田元氏も指摘していますが入り組んだ屋根や、華やかな装飾が取り付けられています。

●播州屋台との共通点
播州人が船鉾に親近感を抱くのは、全体で「神功皇后の三韓遠征」を表しているからだけではありません。それは、梵天を思わせる、金塗りの鷁(げき)の彫刻や、両舷の水引幕の浮き物刺繍によるものでしょう。そこで、それぞれの作品の来歴を見ていきます。参考にしたのはやっぱり「祇園祭細見です。

●鷁

龍頭と一対にして水難避けのお守りとして貴人の船に用いる習慣があったそうです。
製作は宝暦十年(1760)で、長谷川若狭という者により作られたそうです。
ちなみに龍頭は三韓遠征から帰ってくる様子を表した、最近復興した凱旋船鉾の先端についています。↓


●浮き物刺繍
播州の祭マニア垂涎の作品が、下の両舷の水引幕でしょう。糸縒りによる微妙な色の変化に加え、他の祇園祭の作品よりも立体感に満ちた作品となっています。

作者は円山応挙門下であり船鉾町生まれの西村楠亭の下絵だそうです。天保七年(1836)の製作です。

●屋台文化の工芸が花開いた江戸末期
こうして見ると、屋台、太鼓台が広がり始めたころ、その工芸も花開きはじめたことが見て取れました。絹常が幕末に京都から小野へ移り住んだという伝承も納得できる気がします。
祇園祭の場合、どうしても舶来品に目が行きがちですが、日本の歴史や文化を考えるには、刺繍や彫刻をより細かく見る必要がありそうです。

102.城下の屋台(月刊「祭」2019.6月12号)

2019-06-14 04:41:25 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
明石市岩屋神社は2016年に屋台を復活させました。7月のおしゃたか神事と呼ばれる淡路の岩屋神社からの神の来訪?召喚?をあらわす神事で有名な神社です。

7月の祭が海の祭だとすると、屋台の祭は神輿をとともに村内を練り歩く、陸の祭と言えます。
なんと氏子域は神戸市の高津も含まれているとのことです。











場内を担ぎました。

101.灘のけんか祭おわりの風景(月刊「祭」2019.6月11号)

2019-06-13 06:49:06 | 屋台、だんじり、太鼓台関連


灘のけんか祭は、華やかな屋台の練り合わせ、見事な村練り、豪快な神輿合わせ、御旅山の山登りなどは広く知られています。

ですが、意外と見る機会が少ないのは、各屋台の終わる風景です。昨年(2018年)見ることができた、終わろうとする祭の風景を追っていきます。
残念ながら見ることができない屋台もありました。

●松原八幡神社秋祭り(灘のけんか祭)●
毎年 10月14、15日
15日は屋台宮入り後、松原の「テンテンツク(小屋台)」などとともに3基の神輿が渡御
山陽電車「白浜の宮駅」から徒歩10分くらい?

●妻鹿
今年の練り番です。
激しい神輿合わせの跡が伺えます。
神輿の中を見ることができるのも珍しいかもしれません。





●松原
御旅山や神社からは比較的近い松原。村内を担いで行くところを見ました。
祭が終わるのを惜しむかのように、たくさんの人が見守ります。



●東山、八家
まるで練り合わせをするかのように仲良く台車運行で帰っていました。


●宇佐崎
蔵入れの風景。
蔵の中には旧の屋台がありました。





東条町

2019-06-11 20:11:53 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

源頼政鵺退治

 

 

 

比叡山西塔 鬼若丸(弁慶の幼名)鯉退治

 

清盛日招き

 

桃山御伝

布引桜四段目 小櫻責め
 清盛によって鳥羽利休に幽閉された後白河法皇を救い出そうと、琵琶法師になりすました多田行綱が潜入。
腰元として入り込んだ娘小桜に内部を案内させるが、不審がられて小桜は捕らえられ責められる。琵琶を弾く行綱の手が動揺で乱れ、父であることを見破られ切りつけられる。(参考 国松君ブログ)

 

五条大橋(義経(伝・幼名牛若丸)と弁慶の戦い  義経の幼名が「牛若丸」となるのは、たしか室町時代の御伽草子などだったはず)
比叡山の弁慶が「鬼」若丸  鞍馬寺の義経が「牛」若丸。御所から見ると、鬼門の方角に比叡山、丑の方角に鞍馬寺がある。

大江山頼光木渡り (源氏の祖先、凡そ10世紀頃 源平盛衰記などにその名が残る。)