月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

ムカデ7 -「太平記」における呉公・ムカデ・将門~愚か者としての逆賊2~-

2005-09-17 01:02:36 | ムカデ ヤスデ
 では、ここから、かねてから言っていたムカデの当て字の一つ「呉公」について考えていきましょう。
 その前に、俵藤太のムカデ退治伝説が所収されている「太平記」について説明します。太平記は年から年の間におきた、鎌倉末期から南北朝中期までの約五〇年間の争乱を描いた軍記物語です。
 その中でムカデ退治や逆賊の系譜など、過去の逸話を取り上げ、当事者たちと
比較することで物語を盛り上げる用法もとられています。 
 では話を本題に戻しましょう。
 「呉公」の漢字は、「本草綱目」にあるようにムカデが「太呉川」に生息することから、呉に生きる虫として、「虫呉虫公」となり、そこから虫編を省略したものであると考えられます。 
 呉公をそのままの漢字の意味でとらえると、呉の公(きみ、王・君)であり、呉
の国の偉い人とか、呉の国の王様であると考えることができます。奈良時代から伝わる仮面演劇・伎楽で使われる面の中に呉公面というものがあり、それは呉の国の王様になっております。
その呉公と呼べる人物に関連する物語が、太平記にも所収されています。
それが「呉越戦の事」です。この話は、紀元前5世紀に起こった呉と越の間の戦についての物語です。この「呉越戦の事」は、官軍方の武士児島三郎高徳という人が詠んだ歌の説明として、その歌の次の段に所収されています。

 まずは、「呉越戦の事」を書く要因となった、官軍方の武士・児島三郎高徳の逸話「備前国住人児島三郎高徳主上を奪ひ奉る事」の内容を見ていきましょう。

 忠君の楠正成らが自害したとの報を聞き、南朝(官軍側の朝廷)が陥落され、後醍醐天皇は北朝側の軍に捕らえられてしまっています。
 そんな絶望的な状況の中高徳は一族を集めて言いました。
 「みなはどう考えるのか。道を志す人、仁徳のある人は、その身を犠牲にしても仁義を尽くすといわれている。衛国の懿公が北狄(蛮族)に殺されたのを見て、その臣の弘演という者は、それを見るに忍びず、主君の肝を自らの腹を割ってその中に収めた。亡き君主の恩に報いたのだ。
 -(中略)-
 さあ、諸君、さらわれた帝を敵軍から奪い返そうではないか。たとえ屍を戦場にさらす事になったとしても、その名を子孫に伝えようではないか。」
 こうして、軍を率いた高徳であるが、後醍醐天皇をつれている敵軍と会うことなく、ちりじりになってしまった。
 しかし、高徳はただ一人、後醍醐天皇の宿を訪ねたが、やはり敵軍には取り合ってもらえません。
 そこで、高徳は、庭の柳の皮をめくり、後醍醐天皇への歌を彫ったのでした。  
 <天莫空勾践
  時非無范蠡>
 (天よ呉王夫差に捕らえられた越王勾践(こうせん)のような帝のお命をむなしく殺さないでほしい。范蠡(はんれい)のような忠臣が出ないとも限らないのだから。)
 この詩の写しを読んだ後醍醐天皇は頼もしくお思いになりました。
 しかしながら、逆賊側の兵士たちはこの詩の意味を理解する事ができなかったようです。
 


 この段では、官軍側の後醍醐天皇と忠臣・高徳や楠正成の関係を古代中国の王と忠臣の関係に位置づけています。一つは、高徳がたとえ話に用いた衛国の懿公と弘演、もう一つが後醍醐天皇に送った歌の中の越王勾践(こうせん)と范蠡(はんれい)です。
 官軍側が衛国の懿公とすると、逆賊側は北狄(蛮族・「狄」は「えびす」とも読み、蛭子に繋がり朝廷にまつろわぬ神の象徴に繋がる。)になります。そして、官軍側の後醍醐天皇を「越王勾践」とすると、逆賊側が、これから話す「呉王夫差」すなわち「呉公」となります。
では、「太平記」のもう一つの「呉公」といえる「呉王夫差」とはどんな人物なとして描かれているのでしょうか?「呉越戦の事」はかなり長いのでダイジェストで見ていきましょう。
 
 かつてから押したり引いたりの戦をしていた呉と越の国ですが、とうとう呉王夫差は越王勾践を捕らえる事に成功しました。
 そして、越王勾践の処遇に関しては、結束の固い越軍の叛乱への恐れと、他国から一目おかれ貢物が増えるかもしれないという期待から、越王を臣下にすることとなりました。
 それから月日は流れ、呉王夫差は正体不明の病に倒れます。それを医者が診たところ、
 「まだ絶望的な状況ではない。体内から出た(尿と一緒に出る)結石の味を報告してもらえれば、治療できるだろう」
とのことでした。
 そして、その役を買って出たのが越王勾践でした。
 そのおかげで呉王夫差の病は止み、褒美として越王勾践は越への帰還を許されたのです。

 それからまた月日は流れ、大層美しい越王の妃を呉王夫差が欲しているとの旨を呉の使者が伝えました。それに応じて妃は呉に連れて行かれました。
 妃の色香におぼれる夫差。
 君臣の諌めも聞かず、とうとう諌め伍子胥を処刑にしてしまう始末です。
 その眼は希望通り呉の東門の鉾にかけられました。
 その情報を聞いた越の忠臣・范蠡は、二十万の大軍を率いて呉に攻め入ります。
 そして、呉はとうとう陥落しました。
 越王は呉王夫差に情けをかけようとしましたが、范蠡は「あなたが呉王の二の舞になる」と主張し、夫差を捕らえました。
 そして、それを見ていたのは、伍子胥の眼でした。三年の月日閉じなかったその眼が、呉王夫差の敗北をじっと見ていたのです。
 そして、呉王夫差は首を跳ねられてしまったのです。

   
このように、色香に迷った呉王夫差は、越王勾銭に討ち殺されてしまいます。
この物語は、色香に迷う愚かな呉王夫差を、越の忠臣范蠡・の助言で討ち取る
物語といえるでしょう。
さて、前述のように、越王勾銭と范蠡が後醍醐天皇と高徳、正成の官軍側になるとしたら、呉王夫差すなわち呉王夫差、すなわち呉公は逆賊側になります。
側となります。
 その呉王夫差の人物像は、好色で欲張りな愚か者として描かれています。
 また、呉王夫差の臣下・伍子胥(これも呉公といえる)の眼が腐らず、3年間開いたままだったというところは、逆賊・将門の首が腐らなかったという逸話に共通します。
 そして、「高徳の詩が分からない逆賊、呉王夫差の愚かさを見ると、逆賊は今も昔も愚かなもの」という図式を印象づけています。

 将門とムカデは俵藤太で繋がっていました。
 そして、ムカデと呉王夫差、呉の臣下伍子胥は「呉公」の漢字でつながります。将門と呉公も「晒された眼が腐らない逸話」で繋がりました。
 「太平記」のムカデは、逆賊の代表格である将門と愚か者の代表格である呉王夫差のつながりをより強く印象付ける役割を背負っていたといえるのでしょう。
 とはいえ、「太平記」においては「官軍」は敗れてしまいます。
 これは、ムカデが太平記で持っていたと考えられる別の意味「自然の猛威」。これの前には官軍も太刀打ちできないという事を太平記では言っているのかもしれません。
 
 これでムカデ・ヤスデシリーズは完結しました。
 で、後一回だけ続きます。
 次回は参考文献と、太平記における 逆賊将門-ムカデ-呉王夫差の関連図をアップする予定です。

 「昨日亡くなった母方祖父のご冥福を祈って 南無釈迦牟尼佛」 

ムカデ6 -太平記における呉公・ムカデ・将門~愚か者としての逆賊1~-

2005-09-17 01:01:32 | ムカデ ヤスデ
 さて、ここでは、太平記のムカデ退治伝説についてさらに考えていきたいと思います。
 はじめは、ムカデを退治した藤原秀郷という人物を「太平記」の中で追ってみましょう。
 藤原秀郷は、10世紀前半に起こった平将門の乱を平定した人物として知られています。その平将門の乱を平定した際の逸話が、「太平記」の朝廷に逆らった者の事例を挙げた「日本朝敵の事」という段に残っています(諸本により、書かれていないのもあります。)。
 その将門の乱の逸話の内容は下のようなものになります。

  朱雀天皇の時代、承平五年、将門は東国の相馬の国に都をつくり、自らを「親王」(「将門記」では「新皇」)と称しました。
 官軍はこれを討ち取ろうとしましたが、将門の身は鉄身であり、矢も剣も効かないといいます。
 皆で話し合った結果、比叡山延暦寺で鉄の四天王像を安置し、四天合行の法(密教の法の一つ)を行いました。それが功を奏し、天から白羽の矢が一本飛んできて将門の眉間に刺さったのです。そして、最後は俵藤太(藤原秀郷の別名)に首をとられてしまったのです。
 さて、その首はさらされていたのですが、三月たっても変色せず、眼も開いたまま。夜になれば、「俺の体は何処だ!? その体と再び会わせて、もう一戦交えようぞ」と叫ぶのです。この声を聞いた人は恐怖でおののくのでした。
 ある日、道行く人がこれを聞いて、
 <将門は米かみ(体の「コメカミ」。俵藤太の俵とかけている。)よりぞ斬られける 俵藤太の謀(はかりごと)にて>
 と読みました。
 それを聞いた将門はからからと笑い、ついに息絶えてしまったのです。
 

 
 さて、聞くからに恐ろしい怨霊の話、ですが、先ほどのムカデの話と似てますよね?
 1 ムカデも将門も俵藤太に倒される。
 2 ムカデも将門もはじめは、身が硬く、矢や刀が効かない。
 3 ムカデも将門もまじない(ムカデの際の唾の吐きかけは呪いの一種と考えられる。)により、倒すきっかけを得る。
 4 ムカデも将門も眉間への矢が致命傷となる。
 5 ムカデの話は無限の米から俵藤太の名前の由来となり、その俵藤太が将門の米かみを斬る。つまり、双方とも米と藤太が由来となる。
 6 ムカデの話は、その後の退治の褒美としてもらった赤銅の突き鐘を三井寺に寄付している。一方将門の話は、四天王の鉄像を延暦寺に安置している。三井寺(寺門派総本山)はも延暦寺(山門派総本山)も天台系二大宗派の総本山である。つまり、ムカデの時も、将門の時も、鉱物の仏具を天台系の総本山の寺へ奉っている。
 といったところでしょうか。このように、「太平記」での「ムカデ」は、将門を象徴しているといえるでしょう。
 この説は、何処からか出版された「太平記」の注釈に2,3行程度で書かれていたことをおことわりしておきます。 

ムカデ5 -「太平記」の俵藤太ムカデ退治伝説-

2005-09-17 00:58:43 | ムカデ ヤスデ
 前回、中国や日本では「ムカデは蛇に強い」と信じられており、その理由は、「土から生まれるムカデが、水の精でもある蛇を『土剋水』の理で制するから」ということを述べました。
 そして、その性質を用いた物語が、日本に伝わる「太平記」の中の「俵藤太秀郷のムカデ退治の伝説」になります。
 その伝説は、下のようなストーリーになります。

 

 俵藤太秀郷が勢多川(滋賀県大津市・琵琶湖から流れ出る唯一の川。)の橋を渡っていると、二十丈(60メートル)ほどもある、見るも恐ろしい大蛇が橋に伏していた。普通の人なら見ただけで卒倒してしまうほどの大蛇であったが、秀郷は何事もないかのようにその蛇を踏んづけて乗り越え、橋を渡って去っていってしまった。
 それから間もなく、小さな男が秀郷の前に現れた。その男が言うには、
 「私はこの橋の下に住んで2000年あまりになります(龍神です)。たくさんの人を見てきましたが、あなたほど勇敢なものは見たことがありません。私は、今の住処の場所を争ってきたものがいまして、その者にずっと悩まされています。で、勇敢なあなたにその敵を討ち取っていただきたいのです。」
 秀郷は即座に承諾し、その男を案内人に立て、今来た道を帰っていきました。
 勢多川の橋につき、川の中に入っていきました。なんと、その底には、美しい龍宮城が建っていたのです。
 そこで、飲み食いの接待をうけているうちに、深夜になりました。そんな時、敵の襲来だと周囲があわただしくなりました。
 秀郷は肌身離さず持っている大きな弓と、矢を三本用意して、敵の襲来を今か今かと待っていました。
 夜半を過ぎた頃、雨風は一通りすぎて、雷鳴が絶え間なく轟いています。
 しばらくすると、比良山のほうから二列に並んだ二、三千程の燃える松明を要した島のような物が龍宮に近づいてきました。それをよく見ると二列の松明は、全て左右の手に持ったものでした。
 なんとこれは、百足(ムカデ)の化け物のようです。
 秀郷は、一本目の矢を化け物の眉間に射かけますが、その矢は刺さりません。
 二本目の矢を同じところに寸分たがわず射たのですが、それでもその身を貫くことが出来ません。
 そして、三本目、最後の矢です。秀郷は唾を吐きかけ、また、同じところを射ました。
 唾を吐きかけた効果なのか、同じところを三度も射た効果なのかは分かりませんが、その矢は眉間を射抜き喉まで到達しました。化け物の手の松明の火は消え、その体が倒れるすさまじい音が大地に響き渡りました。
 近づいて、見るとその化け物の正体はやはりムカデでした。
 龍神は喜び、ムカデ退治のお礼として、いろいろな褒美を秀郷に与えました。
 太刀に巻絹、鎧。そして、頭を結った米俵と赤銅の突き鐘。
 その米俵は中を取っても取っても、米はつきませんでした。そこから藤原秀郷の別名を「俵藤太」と呼ぶようになりました。
 そして、鐘は三井寺に納められました。




ここでは、俵藤太がムカデ(土)を倒すことで、土に弱い水の性質をもつ龍神を助けます。水が助かったことにことにより、豊作を象徴する無限の米が現れたといえるでしょう。
 この物語の舞台である勢多川は、近畿の水瓶・琵琶湖から流れ出る唯一の川です。
 この川は下って宇治川をぬけ、淀川を通って海にいたります。この琵琶湖から流れ出る川から水を引き稲作をする庶民にとっては、川が干上がることは死活問題となります。
 この川が豊富な水をたたえますように。こう言った願いが、俵藤太のムカデ退治の伝説に現れているのでしょう。

ムカデ6 -太平記における呉公・ムカデ・将門~愚か者としての逆賊1~-
ムカデ7 -「太平記」における呉公・ムカデ・将門~愚か者としての逆賊2~-

ムカデ4 -陰陽五行思想から生まれたムカデの性質-

2005-09-17 00:52:42 | ムカデ ヤスデ
 ここからクライマックスに入りますが、それを理解するための基礎知識として、古代の中国の史書に書かれているムカデの性質を紹介します。

☆ムカデの生息地
 「本草綱目」によると、太呉の川谷(現在の浙江地方・古の呉の国の地)の流域に生息しているそうです。このことから、「呉公」もしくは、虫偏をつけた「蜈蚣」の字が当てられたのでしょう。
 
☆ムカデは蛇に強く、蛇を食べてしまう。
「玉篇(6世紀中国)」によると、「蝍蛆(ムカデの別名)はよく、蛇を食べる。」とあります。また、「本草綱目」には「性よく蛇を制し、大蛇を見るとその脳を食らう」とあります。「春秋考異郵」という本の中で、宗均という人が注釈するには、「蝍蛆(ムカデの別名)は土より生まれ、水に属する蛇を土剋水の理で蛇を制することになる」といった内容が書かれています。
 土剋水とは、万物を木、火、金、土、水の5つ(五行)に分けたうち、土は水を吸い込むので、土は水を剋するという考え方です。
 またそのことによって、土に属するムカデもまた、水に属する蛇に勝つということになるのです。
 そして、「天龍」というムカデを表す漢字は、蛇(龍)の上(天)を行く龍という風にも考えられるのでしょう。
 ここの、「土剋水」の理を持って、ムカデが蛇・龍を苦しめるという話は、日本でも「太平記」の中に所収されている「俵藤太百足退治」の物語にも伝わっているのです。
 ムカデ5ではそのことについてのお話をしたいと思います。

ムカデとヤスデ その他の漢字

2005-09-17 00:21:11 | ムカデ ヤスデ
 さて、ムカデ featuring ヤスデシリーズも、そろそろクライマックスを迎えようとしています。
 さて、その前に、ムカデとヤスデのそれぞれのこれまで紹介した漢字とその他の漢字、それと英語を見ていくことにしましょう。わが国最古の辞典である「倭名類聚抄(10世紀)」を中心にその他中国の文献などを見ていくことにします。

 ムカデ centiped ("centi(百)"の"ped(足)")
  ・体の一節に一対の足。ヤスデよりも大きい。
  蜈蚣 蒺藜 蝍蛆 天龍 疾梨 百足(倭名類聚抄以降か)無加天(「むかで」と音読み)呉公(次回の主題)      


 ヤスデ milliped ("milli(百)"の"ped(足)")
  ・体の一説に二対の足。ムカデよりも小さい。
  馬陸 百足(こちらのほうが、ムカデにこの漢字を当てる歴史は古い) 
  百節 千足 馬蚿 馬軸 飛蚿蟲 刀環蟲

 では、今度は、「太平記」に描かれているムカデについての考察です。
 次号クライマックスです!

祭オタク必須! 屋台・太鼓台・山車に関する英語

2005-09-02 19:44:55 | 英語で言えますか?
 祭りの季節が近づいてまいりました。
 国際化の昨今、外国の人が祭見物に訪れる機会もどんどん増えています。
 ここでは、祭とくに、屋台やだんじりなどを説明する上での単語を紹介します。

 
屋台 太鼓台 山車 ダンジリの総称
           ・・・・・・・float
担ぐ屋台(太鼓台・神輿など)
           ・・・・・・・carrying float(担ぐ屋台)
曳く屋台(ダンジリ・曳山など)
           ・・・・・・・pulling float(曳く屋台)

彫刻・・・・・・・・・・・・・・・sculpture(木や石などを彫ったもの)
飾り金具・・・・・・・・・・・・・plate relief(金属の浮き彫り)
神社・・・・・・・・・・・・・・・shrine
欄干・・・・・・・・・・・・・・・railing
水引幕・・・・・・・・・・・・・・ceremonial curtain(めでたい幕)
擬宝珠(欄干の上のもの)・・・・・an ornamental railing top(欄干の上のホンの飾り)
 これは、欄干の上で用いる場合のみの方がいいと考えられます。 
 御神輿や播州地方に分布する神輿屋根型太鼓台の屋根の上で用いる場合、その擬宝珠は非常に神聖なものとなります。よって、ornamental(ほんの飾り)というわけにはいきません。これらの場合は、onion-head-shaped top(玉ねぎ型の頂上)
と呼んでみるのがいいと思います。また、お神輿や、神輿屋根型屋台は、地球を構成すると考えられる5つの現象である、地・水・火・風・空の五大のうちの空を表すので、onion-shaped sky object(玉ねぎ型の空のオブジェ)ということも出来るでしょう。

御神輿や神輿屋根型太鼓台の屋根の上の擬宝珠
    ・・・・・・・・・・・・・・onion-shaped top(玉ねぎ型の頂上)
    ・・・・・・・・・・・・・・onion-shaped sky object(玉ねぎ型の空のオブジェ)
座布団・・・・・・・・・・・・・・a square (Japanese) floor cushion
                   (平坦な床でのクッション)