住吉大社には、三韓を平定した神功皇后と、その航海の守り神でもあった、底筒男命、中筒男命、上筒男命が祀られています。
管理人も就職で一時期住吉の地に移住しましたが、「住み好し」な地になることなく旅立つ羽目になりました(TT;
切ない話はさておき、うまれて初めてブログに写真をアップしました。
携帯の写真です。
それにしても、携帯で何でも出来る世の中になってきましたね。
管理人の携帯も、音声付のムービーまでいけます。
ポケットに入れられて隠し撮りされても気づかないでしょうね。。
一億総証人というところでしょうか。
浮気現場から、密室での恫喝まで。
うかつなことは出来ませんね。
話がずれてきましたので元に戻します。
住吉大社にはその鬼門(東北)を守る神社(もしくは奥の院?)が存在します。
それは、若松神社(旧名・止々呂岐比メ命神社)といいます。
祭神はスサノオノミコト。
京の都の鬼門を守る比叡山延暦寺の本尊・薬師如来を本地とすると考えられています。
その神社で昭和30年ころまで運行されていた「船だんじり」が、大阪市立歴史博物館に展示されています。
住吉の神が、航海の神であることにちなんで、船型となったのでしょう。
「その話、ぜんぜん変な話しちゃいますやん。至極まっとうな話ですよ」とつっこみたいM君。
しゃべる内容に、いつも「要するに」と前置きするY君。
続きの話は全然要点絞れてません。
「要するに、要するに、要するに」
3連発した瞬間を僕は見ました。
しゃべる内容に、いつも「ぶっちゃけ」と前置きするI君とAさん。
もっと、ぶっちゃけてください。
屁をこく=break a wind, pass gass, fart
気に入ったのは、break a wind。
直訳すれば、「風を打破する!壊す!切断する!」
なんか、気合を感じます。
心地よいそよ風が吹いているところに、「ブリッ!!」
確かに風は壊されます。
pileは奴です。
この文章のポイントは4 eyed。 メガネのレンズにも目が写って、2+2=4つの目ということです。
映画「STAND BY ME」の台詞を引用しました。
僕は、「国際文化学」部を卒業し、「国際文化学」研究科修士課程を修了しました。
「国際文化学」の英訳はどうなるんでしょうか?
普通に考えると、 International cultural studies となると考えがちですよね?
「そんなことない」と言ったら死刑です。
しかし、実際の英訳は "intercultural studies"になるのです。
「国際」と言うと 「international = 国際的な、国家間の」という意味を連想してしまいます。だったら、 「国際文化学」だと、 「international cultural studies」というのが、一般的です。
なのに、何故、 internationalを使わないで interculturalなのでしょうか?
それは、 「国」と 「国家」いう言葉の違いに端を発すると考えられます。
まず、 「国家」は領土・人民・制度で組織される 「行政単位」です。
一方で、「 国(くに)」は国家という意味のみでなく、 地域・地方などの意味も持ちます。
漢字を変えれば 「邑(むら)」も「くに」とも読めるのです。
「国際文化」の「国」とは「国家」という行政単位ではなく、「一つの文化を構成する地域・文化圏/culture」と考えられるのでしょう。
それらが相互にかかわりを持つということで「inter」が頭につき、 「intercultural」になったと言うことになります。
一つの国家の中に、一つの文化圏しかないということは、まずありません。つまり、「国際文化」というのは、日本とアメリカとか、日本と中国というだけでなく、一国家の中だけでもある現象であると考えられるのです。
例えば山城国と播磨国というような感じですね。
「日本の文化」というと、「一つの文化圏の文化」と捉えがちですが、「日本という国家の範囲にあるたくさんの文化圏の文化」と考える方が偏見は少なくなるでしょう。
最近の教育の傾向として見られる「日本文化の啓蒙」は、「日本文化」を「一つの文化圏の文化」として捉える傾向があり、好きにはなれません。
「日本文化の啓蒙」をしようとする政治家の人達が求めてるのは、「豊かな心」ではなく「従順な駒」であるように感じています。
日本語訳にすると、「ヒステリーには、それに至るまでの歴史(ヒストリー)がつき物だ。時としてそれは、不可思議な謎(ミステリー)である。」
韻を踏んでいます。
そうそう、はじめのhysterie(ヒステリー)はドイツ語です。ドイツの精神医学を学んでいく課程で、日本でおなじみの言葉になったのでしょう。
「ヒステリー」は、「感情を統御できず、激しい興奮・怒り・悲しみなどをむき出しにした状態。」と「感情的葛藤が原因の身体的発作」の2つの意味があるそうですが、ここでは前者のみ扱います。
「ヒステリーを起こす」というと、「突然」怒り狂う、という印象にとられがちです。
しかし、他人から見たら「突然」でも、本人には、怒り狂うまでの「歴史(ヒストリー)」があるのです。その歴史とは、キレた相手に対して押さえ込んでいた「怒り」かもしれませんし、その人の生い立ちかもしれません。ただ、いずれにせよ、キレられたひとから見ると「突然」であっても、キレる人にとっては「歴史」があるという認識は大切です。
また、キレるまでの「歴史」が分かったつもりでも、キレた人にしか分からない部分、他人から見たら「謎」の部分というのが必ずあるという認識も大切でしょう。
分からない部分があると知りつつも、キレた人の「歴史」に何があったのかを考える「想像力」が、大切なのです。
そのような想像力を働かせるのは、個人対個人だけでなく、集団対集団においても大切になってきます。「テロというヒステリー」が起こるに至った「歴史」を考える「想像力」が、ヒステリーを回避する方法なのです。
キレた人の「歴史」に何があったのかを考える「想像力」は、今日の日本の社会にも求められています。
例えばよくあるこんなお話(フィクション?です)。
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月刊「祭」君に「ごめんなさい。」といい続けたモテモテのAちゃん。
二人の共通の友達Bちゃんが、月刊「祭」君に耳寄り情報を持ってきました。
なんと、Aちゃんは最近彼氏と別れたそうです。
「なあなあ、月刊「祭」君。Aちゃん一月前に彼氏と別れて今『フリー』らしいで。チャンスやん。」
「フリー」になったAちゃんに再び告白した月刊「祭」君。その結果は、、、、、、
「ごめんなさい。」
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「フリー」という言葉は、彼氏、彼女がいない状況という意味で使われていると思われがちですが、、、
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@@好きな相手を「自由に」選べる人に、彼氏・彼女がいない時のことを「フリー」という@@
フリーを和訳すると「自由」。
「Aちゃんは『フリー』だ。」という文章は、「『彼氏』という『束縛』がなく、好きなパートナーを選べる『自由』の身である。」というニュアンスがあります。
また、「Aちゃんが『選ぶ』立場にあるということ」、「Aちゃんに彼氏がいない状況を『チャンス』と思う人がいること」を意味するとも言えましょう。
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@@好きな相手を「自由に」選べない人に、彼氏、彼女がいない状況はやっぱり「不自由」だ@@
しかし、上の物語でAちゃんに撃沈された月刊「祭」君に「フリー」という言葉は似合いません。月刊「祭」君も彼女がいない状況なのは代わりはありません。しかし、月刊「祭」君には「束縛」する「彼女」がいなくても、好きな相手に告白してもフラれてばっかりでは、到底「自由に」相手を選べません。相手を自由に選べない月刊「祭」君を「フリー」と呼ぶには、かなり違和感を伴います。月刊「祭」君の場合はタダの「彼女いない人」なんですね。
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@@「俺はフリーだぜ」、「私はフリーよ」に現れる自信@@
彼氏、彼女がいない状況を「フリー」と呼んでもらえる人は、「選ぶ立場でいられる人」、「チャンスと思う人がいること」を前提にしていることを指摘しました。
では、たくさんの異性の前で「俺はフリーだぜ」、「私はフリーよ」と何気なく言う事は、次のようなことを意味するのでしょうか?
「おい、お前らにも、俺(私)様に選んでもらえるチャンスがあるかもよーかもよー」
上から見下されてる?
よっぽど自信があるように見えます。
言葉の使い方には気をつけるにこしたことはないようです。
ちょっと、ひねくれた見方でしょうか?
僕は、マニアというわけではありませんが、一般の20代と同様に古着のジーンズが好きです。
まっさらの色がはっきりしたものより、使い込まれて色落ちしたものが好きなんです。
この嗜好は、神社とか山車、屋台に関してもそうなんです。
地域復興のために、神社や山車を整備してまっさらにするということが良くありますが、少し、残念に思うときもあるんです。
「色がはっきりしたものだと渋みがなくなるような感じがする」と言うと、友達に笑われます。
また、まじめな話、優れた彫刻にペンキで色を塗ってしまうように、「ぱっと見」をきれいにするが為に、貴重な文化財を台無しにしてしまうということもあるようです。
回収するのは、匂い立つトイレくらいにおいておくのもいいのかもしれないですね。
「色あせた渋み」を大切にしてほしいものです。