月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

302.現代の神基習合(月刊「祭」2020.9月4号)

2020-09-30 17:32:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
今回は前置き長め、写真を見せてすぐ結論(というかオチ)という構成です。

●キリスト教との習合
 このブログの読者のみなさんの多くが、神仏習合という言葉を聞いたことがあると思います。仏さんと神さんが一緒に祀られたり、この神さんの正体はなになに仏さんやといったりすることだと理解すればいいでしょうか。
 近年では多くの神主さんやお坊さんもその歴史を抵抗なく受け入れているように見えます。しかし、一方でかつて禁教の対象となったキリスト教に関しては、仏教や神道にそれらが取り入れられていたという言説に対して、やや慎重な姿勢が見られるように感じることが、管理人にはあります。
 とはいえ、クリスマスやハロウィン、西暦の導入など、禁教・鎖国があけキリスト教文化を受け入れて百年を越す日本では、無意識のうちにキリスト教も取り入れているようです。

●キリスト生誕二千を機につくられた? 鳥居
 下の画像は、埼玉県春日部市西金野井の香取神社の鳥居です。近年建てられた鳥居でその由来が書いてあります。








由来には「区画整理事業の実施を記念し」とありますが、その前置きに「西暦二千年を迎え」とあります。神道鳥居建立の契機に何気なく使われている「キリスト生誕二千年」を意味する「西暦二千年」。無意識のうちにキリスト教もまた、日本人の内に入ってきているようです。

 

301.祭実施における感染の社会的責任(月刊「祭」2020.9月3号)

2020-09-26 11:02:00 | 新型コロナと祭、民俗
 今回は少し語気を強めて書きます。

●新型コロナ流行下において中止された屋台、だんじり運行
 新型コロナ流行下において、屋台やだんじりの運行は相次いで取りやめになりました。管理人も自町において今年の運行には、強く反対しました。
①新型コロナはインフルエンザと違い、元気な年長者を死に追いやる可能性が高いこと
②祭に伴う飲食の場などでは、酒に酔った状態で十分に感染防止対策がなされるとは到底思えないこと
が理由です。
 それは決して間違っていたとは思っていません。しかし、自分のやりたいことに反対の意見を言うのはあまり気持ちの良いものではありませんでした。また、管理人のように青年団も引退しており、年長者組ではいわゆる「ペーペー」の立場であったからこそ、今年の運行に反対することが出来たとも感じています。おそらく十年前の自分であるならば、運行を強く主張していたでしょう。
 特に、青年団の若い人、何らかの役職につくのが最後の人、何らかのリーダーになる人、一生に一度の大役を果たすはずだった人にとっては、無念以外の何者でもありません。少なくとも「コロナ恐るるに足らず論」も出ている中では余計に、無念の思いは強くなることでしょう。

●少しだけ動いただんじり、屋台
 その中でも少しだけ、運行した屋台やだんじりも見られました。管理人自身は映像や画像でしかその様子を見ることができていません。その様子を見ると集団感染を心配する反面、動いているだんじりや屋台はやっぱり美しく感じます。
 それは、コロナ禍でうちひしがれている中だからこそ余計に感じるものかもしれません。敗戦直後、三木市は洪水の被害にも見舞われます。敗戦と洪水で打ちひしがれているなか大宮八幡宮の秋祭において我らが明石町屋台が参道を練り歩いたと言います。おそらくその時に人々が感じたものに近いものだとも思われます。
 その一方で、①湧いて出た祭ヘイト ②仮に集団感染の責任の所在 の問題もあるのが現実です。これらにおいて、管理人の思いを今回の記事であげます。

●湧いてでた祭ヘイト
 今回いくつかのだんじりや屋台が少しだけ運行したことを受けて、ヤフコメなどでは批判的なコメントがいくつか見られました。その種類としては
①自分たちは自粛したのに、これで感染がひろがったらどうするんだという批判
②気持ちは分かるけど、やはり慎むべきだったのではないかという批判
③祭ヘイト
岸和田でクラスターがおきればいいという発言もあった。

です。

 ①②については、それぞれの屋台、だんじり、氏子域で引き続き議論すべき課題です。来年以降、祭をどうしていくのかはそれぞれの地域で問われる課題です。
 一方、③についてはクズの所業と言わざるを得ません。そして、この祭ヘイトの人たちは、今回もいわゆる「左翼」と呼ばれる人ではなく、ネトウヨを思わせる発言・隣国地域への差別的発言を行っていました。
 祭好きの人たちにも、残念ながら隣国への差別的な感情を持っている人達が見受けられます。しかし、それを煽っている人は、祭も誹謗中傷していることは肝に命じておくべきです。正直なところ、一緒になってネトウヨ的な発言をしている人やそのリーダーが、屋台やだんじりは神事じゃないとか言って、祭好きな人を裏切る可能性はかなり大きいと危惧しています。

●万が一集団感染が起きた場合の社会的、法的な責任について
 あってはならないことですが、集団感染が起きた場合に誰が責任をとるのかという問題が残ります。もちろん、「出す」という決断をした祭礼当事者やリーダーがその責任問われることにもなると思われます。
しかし、それだけではあまりにその責任を問われる人が気の毒です。
 まず、当事者は憲法で認められている「健康で文化的な生活」をする権利や「信教」や「身体」の「自由」を行使したにすぎません。そして、運行の可否の判断の元になる情報を流す側の責任が全く問われないのであれば、そこにも理不尽さを感じざるを得ません。もっとはっきり言えば、祭当事者達が間違った判断をするようにこの国のリーダー達が仕向けたとも言えます。
 ざっくり言うと下のような順序です。

利権などによるPCR検査の拡大ペースの遅れ、マスク不足の対応への遅れとアベノマスクという愚策。

②ニュージーランドだけでなく目の敵にしている韓国にもコロナ対策で遅れをとる

③韓国などへの面子を保つためか、緊急事態宣言の解除を無理に早め、「一月半で収束した」と宣言するも感染再拡大をひきおこす。

④ゴートゥー、オリンピックなどの政策をゴリ押しする。これらは例えば電通などへの利益供与の一面が大きいことが疑われる。

⑤もはや、コロナ収束による支持率回復は絶望的となる。かねてより、自分たちを、支持するテレビによく出るコメンテイター達が唱えていた「コロナ恐るるに足らず論(正しく怖がろう論)」が、メディアで推され始める。コロナは恐るるに足らない、インフルエンザと変わらないという言説を流布させることで、政権の失敗も大したことないと印象づけることができる。

⑦「経済を回しつつ感染を予防する」方針をとりつつも多くの業界では、それぞれの場面に応じた感染対策の教育がなされていない。あるのは、幼稚園児でも言える「三密をさけましょう、手洗いきっちりやりましょう」くらい。

⑧感染対策が不十分なまま、ゴートゥーキャンペーンなどで、元の生活をしていい雰囲気が政府やマスコミぐるみで醸成された。

以上①から⑧のような中、屋台やだんじり関係者が運行の判断を下してしまうのは無理のないことだと言えるでしょう。必要以上に咎めることに意味はありません。
 結局はできることをしなかった我が国のリーダー達に私財を投げ打ってでも補償していただく、中国の政府高官たちにも私財を投げ打っていただくというのが、筋といえます。


300.「祭」という言葉が意味するもの(月刊「祭」2020.9月2号)

2020-09-14 23:36:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●タイコは動かへんけど、神事はする
 今年は新型コロナの流行をうけて、今年の祭は「神事は行う、屋台(タイコ、太鼓台)や地車の運行は中止」というところが多くある、というかほとんどのようです。
 神事が行われることを以て、「祭が中止になったのではなく、屋台、地車の運行が中止になっただけだ」という声がSNS上などで見られるようになりました。
 そこで、月刊「祭」300号記念号として、「祭」という言葉が意味するものを考えてみたいと思います。
 
●研究者による分類
神事と神賑(かみにぎわい)
 管理人が尊敬する篠笛奏者であり地車などの祭研究者でもある森田玲氏は、この名著で祭を「神事」と「神賑行事」の二局面に分けています。森田氏の講演によると、氏が見る限りでは「神賑」という漢字で「神賑(かみにぎわい)」と読んだのは、折口信夫という民俗学者が最初ではないかということでした。そして、森田氏は下のように神事と神賑を分類し、本来的には祭=神事と捉えて差し支えないとしています。  
  一方で一定以上人が参加する祭では神事だけでは理解が不十分だとしています。
 
  「神事」カミをまつる行為(カミ迎え、    
       カミ祀り、カミ送り)
祭〈
  「神賑(かみにぎわい)」神事に伴った
   (盛り込まれた)した集団的放楽行事
 
祭りと祭礼
 恥を忍んで言うと、管理人はこの区別をつい去年まで間逆の意味で理解していました😭
 編集・発行 香川県立ミュージアム『祭礼百態 -香川・瀬戸内の「風流」』令和元年で紹介されていた柳田国男の分類は下のようなものでした。
 柳田国男はカミ迎え、祭り、神人共食して、神を送る夜間を中心に行われた行事・「祭り」、昼間を中心に行われた「見物人」を喜ばせる趣向「風流」が出される「祭礼」に移行したとのことです。
 ざっくり言うと、森田氏の指摘した神事はここでは祭にあたり、神賑は祭礼にあたると言えるでしょう。
 
神事・祭と神賑・祭礼の区別
 多くの研究者は、「神事・祭」とそれに伴うお楽しみの部分「神賑・祭礼」を分けて考えています。もちろんそれは、研究者が好き勝手にこじつけたものではなくて、実際の祭やそれに携わる人の意識に触れて見出したものです。
 今回のコロナ禍においては、「神事・祭」のみ実施し、「神賑・祭礼」を中止したことで、その区別を実感した祭関係者の方も多いことでしょう。とはいえ、管理人自身も普段の生活では神事・祭と神賑・祭礼を区別して話したり、意思疎通したりしているわけではないと実感することも度々あります。
 
●神事と区別されずに語られる祭
 今回のコロナ禍において、屋台や地車が動かないことを以て、「今年の祭は中止や」とか、「今年は祭がでけへん」と言う人は多くいますし、管理人もその一人となる時もあります。学術的には間違えた言葉の使い方だろうし、仏教やら神道やらの考え方に照らし合わせても、必ずしも正しいとは言えない言葉の使い方かもしれません。
 しかし、子どもたちを含む多くの人にとっては、祭・神事と祭礼・神賑をひっくるめて祭と言っているのが実情とも言えます。例えば、普段の会話の中で、
Aさんが屋台を出さないことを指して、「今年まつり中止やから、」と言った時に
Bさんが「いや、違うで、神さんごとが行われるから、祭は中止ちゃうんやで」と指摘すると、話の腰をおったかたちになってしまいます。
Aさんは、「今年はひまやわー」とか「来年にむけてなんかすることないかなー」とかの本題に入ることができなくなってしまいます。
 スムーズなコミュニケーションをするためには、これらの分類を知っててもいちいち指摘しなかったり、分けて話さなかったりすることも多いなあると感じる今日この頃です。
 そこで、管理人が今までの経験から「祭」が意味する範囲を考えていきたいと思います。
 
●神社・仏閣を介さない祭
 管理人が三木以外の他地域の大学に通いだすと、神社・仏閣を介した祭になじみのない人と知り合うことになりました。自分が祭が好きだと話すと、屋台や地車の話ではなく、花火、夜店の話になることが多かったです。これは、いわゆる祭礼・神賑の範疇、あるいはさらに外側の域の話と言えるかもしれません。それどころか。から●●市民祭のような文化祭、◯◯タウンヨサコイ祭といったような神社仏閣を介さない祭を同列に話す人もいて違和感を覚えたこともありました。
 
 祭になじみのない人にとっての祭は、◯◯祭とつけば神仏なくとも即祭、露店即祭となる人が、多そうです。
 
●どこの神社・仏閣の祭が「祭」か
 高校の頃、古典の授業で、「祭とだけ書いてあれば、即、京都の葵祭を指す」と習いました。おそらく正確にいうと、平安期以降からの一定期間の都近辺の文献に限られるのでしょう。
 閑話休題、当時の管理人にとって「祭」とは間違いなく三木市大宮八幡宮秋季例大祭をさすものでした。これを強く感じたのが、京都祇園祭関係者の方が、祇園祭のことを「祭」といっていたことです。当たり前のことですが、それぞれ「祭」とだけ言われて思い浮かべるものは違うんやなということを感じました。
 祭の一文字で思い浮かべるのは、その人が最も深く関わっている祭だということに気づきました。
 
↑多くの観光客にとっては祇園祭、当事者にとっては祇園祭こそが「祭」
 
 
●一生の中での「祭」が意味するものの変化
屋台の近くにいることが祭
 管理人の子どもの頃のことを考えると祭・神事と祭礼・神賑の区別がついていない傾向はより顕著だったように思います。小学五年生の頃は昭和天皇が危篤だったことにより、屋台の運行はとりやめとなりました。そのことをもって、「今年は祭がでけへんかったー」とお互いに言い合ったものです。
 また、次の年はオミコッサン(御神輿)を担ぐ年齢だったので、屋台から離れてオミコッサンを担ぐ祭を過ごしました。当時の管理人にとって「祭」とは明石町の屋台について、ハタキを振りながらアヨイヤサーと叫ぶことでした。なので、オミコッサンをかついでそれがほとんどできなかった年は、「今年は祭がほとんどでけへんかった」と言った気がします。
 その真偽はさておき、当事の管理人にとっては屋台の近くにいること、屋台が出ることこそが即ち祭であったことに間違いはありません。また、周りの友達も似たような感覚だったと思います。
 つまり、祭の主役であるオミコッサンをかついでいるにもかかわらず、娯楽的要素が大きいとはいえないので、「祭がでけへんかった」という不満を当時の管理人や、おそらく周りの友達も持っていました。
 しかし、同時に「オミコッサンドイ、チョーサンドイ」のところを「オミコッサンドイ、オッサンナンドイ」と言ってふざけて怒られた思い出は祭の風景として残りました。
 
オミコッサンへの敬意
 管理人が青年団員の頃は、据えた屋台の中で太鼓を打っていると、神輿が通る時には強く太鼓を打って神さんを喜ばせろと先輩に言われてそうしたことがあります。
 また、おそらく青年団を引退して間も無くのことですが、オミコッサンの近くを屋台が通った時は屋台をオミコッサンの前で差し上げて神さんに見せるようになりました。この中で、オミコッサンが主役という感覚が、管理人や周りの仲間たちの共通認識として育ったように思います。
 
こんな祭もありやな
 そして、三年前の祭では、管理人は黒い背広を着てオミコッサンの前を歩く役になりました。となると、屋台から離れて過ごす祭となります。その時は青年団の同期、先輩、後輩、その父親たちと共に歩きました。夜の闇に控えめに光るオミコッサン、御旅所近くで迎えてくれた台車運行の高木屋台のゆっくりとした太鼓の風景は忘れられません。その時に一緒に歩いたみんなから出た言葉が「こんな祭もありやな」でした。
 小学生の時、オミコッサンを担ぐことによって屋台につきたくてもつけなかった残念な思いは、この時に100倍ほどの利子をつけて幸せな時間として帰ってきました。
 

↑オミコッサン(御神輿)を先導する高木屋台
 

↑高木屋台の後を行くオミコッサン(御神輿)
 
実は前日に祭が終わっている??
 祭に向けて、様々な準備や太鼓の練習を経て当日を迎えます。でも、何回もそれを繰り返していると楽しい日はあっという間に終わってしまうことも身に染みて経験していきます。そうなると、祭の前日にはこんな話をします。
 「もう今年の祭も終わりやな」
 


 
 
 
まとめ
それぞれの立場の人にとっての祭はおおよそこんな感じになりそうです。
①民俗学の分類での祭
神事
②祭に関心がない人の祭
◯◯祭とつくイベント、神事、屋台地車 (神賑)、露店のあるイベント
③屋台地車などが好きな子どもの祭
-屋台地車の近くにいること、運行に参加すること
④屋台地車などの関係者の祭(大人)
 ・自分が関わる祭の行事の全て
 ・祭の前日くらいまで、(始まってしまったら終わってる)
 
③④の共通点
 自らが熱い思いで参加する祭が「祭」。
 それ以外の祭りは「◯◯祭」、あるいは、「××の祭」
 


 

299.三木の中の異文化-三木の祭の国際文化的出来事-(月刊「祭」2020.9月6号)

2020-09-01 23:48:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●管理人はダブル(昔でいうところのハーフ)です。
 この祭関係の能書きを好き放題垂れ流していますが、きっと管理人の専門は何かとかになる方もいるでしょう(社交辞令で気になると言いましょう)。そこで、一応修士号(どこかの都知事みたいな詐称とワイロとコネでえたものではありませんが、あまり持っているからと言って「めっちゃ賢い」証明にはなりません。)を持っている「国際文化学」というものの話をしていこうと思います。
 
 その前に、管理人の秘密を。実は私、ダブル(昔でいうところのハーフ)です。といっとも、日本と韓国、日本とアメリカといったように2つの国家を跨いでのダブル(ハーフ)ではありません。
 播州三木明石町(大日町)生まれの父と、播州三木宿原村生まれの母との間に生まれたダブル(ハーフ)です。同じ三木市内、同じ三木中学校区、共に布団屋根屋台分布域ですが、その習慣は少しずつ異なります。
 例えば、屋台を担ぐ時に歌う伊勢音頭(祇園囃子)は、明石町(大宮八幡宮)は太鼓を3回打って1回休みのリズムで打たれます。しかし、宿原屋台(若宮八幡宮)は明石町とは旋律は違い、歌詞も違うものがあり、リズムは時々太鼓が2回の時もありずっとゆっくりです。宿原屋台関係者の若いお兄さんに聞いたところ三木で一番ゆっくりで、それが良さだといっていました。明石町は旧の「町方」であり、田んぼはありません。宿原は旧の農村で現在も田んぼがあります。なので、農村の宿原には「今年ゃ豊年どし」の歌詞があるけど、町方の明石町にはありません。元々同じ10月16日17日の祭でしたが、願うことも少し違うようです。
 
↑明石町の伊勢音頭
 
↑宿原の伊勢音頭
 
 同じ三木市内で、共に三段布団屋根の屋台で、共に「八幡宮」の祭だけど、屋台の所作から願うことまでそれぞれの文化は異なっています。2つの「異文化」の間に生まれた子どもという意味では、管理人もまた「ダブル(ハーフ)」ということになります。
 管理人の場合は明石町と宿原でしたが、例えば同じ明石町五町内でも大日町の母と清水町の父で生まれた子でも、大日文化と清水文化は異なります。同じ大日町でも一組と二組では違うし、同じ大日町の四組でもあの家とこの家では、、、といったように、この世の中の人は、ナメック星人でもない限り2つの異文化の間に生まれた「ダブル(ハーフ)」だといえます。
 
●国際文化学の英訳と「とほうもなく広い日本」
 国際文化学の英訳には、Intercultural Studiesという言葉が当てられています。管理人は、International cultural Studiesだと思っていたのですが、違っていました。そして、このInterculturalという言葉を選んだことで国際文化学たるものが、多様性を帯びた学問になると言えます。その説明のために、Intercultural, Internationalをそれぞれ、「国際」以外の言葉で訳してみます。
 
International cultural studies
•••国家際文化学
 nationalが国家という行政単位を表すので国家単位での相互文化・文化際の学問となります。
 
Intercultural studies•••文化際学
 culturalだとあらゆる文化を指すことができます。つまり同一国家内であっても異文化があるという前提で考えることになります。国際という字をあてていますが、国(くに)を邑(むら・くに)に変えることも可能でしょう。
 
 international cultural studies・国家際文化学は、intercultural studies•国際文化学・邑際文化学・文化際学の一分野にすぎないということになります。
 このinter cultural studiesという見方をすることで、日本という同一国家の中でも多様な文化が存在するという認識のもとに考えることができます。管理人の同窓生の一人は、バイクで日本一周を旅して「途方もなくひろい日本」と表現しました。飛行機、車、スマホで狭くなったように見えてもこの日本の中には、多様な文化が入り混じっておりそれぞれが個性を持っています。その個性を見つめて、それがお互いにどう影響しあっているのかを学ぶのが国際文化学です。



国際文化学的から見る三木の祭
例1 屋台の大宮八幡宮への伝播
 三木の大宮八幡宮では19世紀前半までは、檀鶴(だんづる・だんじり?)で芸を宮に奉納するのが基本的な秋祭のかたちでした。しかし、明治維新前後より現在のような屋台(太鼓台)と神輿の祭がさかんになってきます。
 これは、それより前にすぐ横の岩壺神社地域、久留美では屋台が担がれていた影響によると思われます。同じ播磨の国美嚢郡内での国際文化的な出来事です。
 
例2 反り屋根屋台の生成と伝播
 播磨西部では神輿屋根屋台が広く分布し、播磨東部では三段平屋根布団屋台が分布していました。その中間地、おそらく高砂市域あたりに、神輿屋根、平屋根のあいの子として生まれたのが反り屋根屋台です。
 
 

↑三木市三坂神社の加佐東屋台、三段布団屋根型


↑姫路市英賀神社英賀西屋台、神輿屋根型

↑高砂市曽根天満宮中筋屋台、反り屋根型
 
①華やかな反り屋根屋台は人気があり新調時作り替え時に反り屋根屋台がつくられたこと
②その屋台文化の中心地である高砂市の曽根が頻繁に新調を繰り返して中古の譲渡、転売が頻繁に行われたこと
 こな2つの理由によって、反り屋根屋台は平屋根分布地域やもともと屋台がなかったと思われる地域に増えてきました。三木市内でも下町屋台、大手屋台、新町屋台が昭和期に、興治屋台、細川の御酒神社屋台などが平成に反り屋根屋台となりました。
 これは、高砂市域と他地域で起こった播磨国内での国際文化的現象です。
 
例3 バッチの流行
 三木市内三木地区の祭の衣装は昭和期から平成初期、中期にかけてはニッカポッカなどの作業ズボンが主流でした。平成はじめころに、喧嘩などの防止の観点から、大宮八幡宮などでまずはズボンの色が白などに統一されはじめました。
 そして、平成中期ころから、インターネットなどで各地域の祭の情報を気軽に目にできることが増えました。そこで目にしたのが岸和田など泉州の地車祭ではかれているバッチです。

↑岸和田市弥栄神社大小路地車 バッチをはくのがこの地域のスタンダード
 
 この頃から、三木市内でもバッチを岸和田まで買いにいったり、ネットで注文する人が増えはじめ、現在は多くの人がバッチを好んではいています。また、三木市内でもバッチを扱う業者が出て来ました。
 しかし、完全に岸和田と同じになったわけではありません。
①依然作業ズボンの人もいること 
②岸和田のような細い袖の法被でないこと ③地下足袋とバッチの色が違う人がいること 
 などにより、岸和田とは違った祭衣装文化が生まれています。
 代表的な播州の祭地域である姫路や高砂のような「マワシ」、北条節句祭の着物は、着衣に手間がかかることから選ばれなかったと管理人は考えています。
 これも近年の三木の祭衣装文化に起きた国際文化的現象と言えるでしょう。
 

↑三木市岩壺神社芝町屋台 近年ではバッチをはく人が増えているが、作業ズボンの人もいる。法被の形が岸和田と違っていたり、地下足袋が違う色になっているので、岸和田とはまた雰囲気が異なってくる。
 
 
例4 三木の屋台構造、担ぎ方の広がり
 一方、三木地区の祭は規模の大きさや、大宮八幡宮の石段登りなどの影響か、一つのブランドとして認識され、他地域の祭に影響を与えるようになりました。
 また、芝町に屋台刺繍を扱う業者ができたこともあり、三木の祭の影響をうけた屋台や担ぎ方か増えてきました。播磨町阿閉神社の本庄屋台はその業者が屋台制作を手がけ、三木の屋台のように長めでよくしなる棒をつけました。上の芝町屋台に雰囲気も似ています。

↑播磨町阿閉神社の屋台
 
 
 明石市の屋台や加古川市八幡神社(宗佐厄神)の宗佐屋台では同様によくしなる棒だけでなく、担ぎ方もアヨイヤサーの掛け声をかけるようになりました。
 その一方で、宗佐屋台は同じ神社の屋台が神輿屋根型屋台であり衣装もマワシをしており、その屋台の練り子(担ぎ手)が手伝うことで、独特の祭りの風景が生まれています。加古川市がもともと赤以外の屋根の色の反り屋根が分布していたことにより、宗佐屋台の屋根の色も三木の屋台と違って昨年は黒くなっていました。
 
 
 
 これも播磨国の中でおきた国際文化的な出来事と言えるでしょう。
 
 こうして見ると、三木の祭は色々な地域の「異文化」の影響を受けて、元々の文化は変容するけど、その異文化と全く同じにはならない独自の文化を作り上げていることが分かります。
 
 
編集後記 -母校から消えた国際文化学-
 母校の龍谷大学は国際文化学部がなくなり、国際学部という名前は似てるけど全く性質の異なると思われる学部に変わってしまいました。就職対策など背に腹変えられない事情があってのことでしょうが、非常に残念です。ナショナル・国家間同士で考えるだけでは、限界があることからできたのが、カルチュラル・文化間で考える学問・国際文化学だったのに、、、また舞い戻ってしまいそうに感じました。後輩(国際学部の学生をそうみなせば)、先生方、職員の皆さまの奮闘と、国際文化学部の復活を強く望みます。