今回は、三木市禰御門神社の大村屋台を特集します。
●禰御門神社の祭がなければ大宮八幡宮の祭礼は成立しない??
大宮八幡宮の氏子屋台は、宵宮、本宮両日ともに、大宮八幡宮に宮入します。それに対して、禰御門神社の氏子である大村屋台は、大宮八幡宮に宮入をするのは本宮のみとなっています。それは、禰御門神社での祭礼を大宮八幡宮の宵宮の日に行うからです。とはいえ、大村がまったく大宮八幡宮の祭礼に関係なく、ただ、石段上りのイベントだけを求めて大宮八幡宮にやってくるわけではないようです。
まず、 江戸末期の「当社祭礼祭神事能桟敷絵図写」という文書を見ると、大宮八幡宮の祭礼時には、大村にも観能用のスペースが与えられています。
また、「美嚢郡誌」には、次のような記述が残っています。
「又曰ク 月ノ輪ノ郷ヨリ子ノ方二当タル故ニ子守神社ト称シ来リシニ、中古ヨリ禰御門ト書記セラルト」
(また言うには、月の輪の郷の子の方(北の方)に当たるから子守神社と呼んでいたが、いつのころからか禰御門と書かれるようになったという)
月輪とは大宮八幡宮の神宮寺である月輪寺であり、大宮八幡宮の分身といえる寺院です。つまり、禰御門神社の名前は大宮八幡宮の位置を元にしたとも考えられ、二つの神社がつながっていることがわかります。
また、大宮八幡宮の本殿の向く方向を見てみると、つまり、石段上から三木の町を見下ろしてみると、いきつくのは禰御門神社になります。ちなみに別所長治公の墓所である法界寺も禰御門神社のほうを向いています。
「美嚢郡誌」にのこる言い伝えや、大宮八幡宮の本殿の向きなどを考えると、大村が禰御門神社での祭礼を滞りなく行うことで、大宮八幡宮の祭礼が成立するということができるのかもしれません。
無事に禰御門神社の祭礼を終えて、大宮八幡宮に宮入する大村屋台は、まさしく、「純き子の御門よりの威き使者」といえるでしょう。
●大村屋台、命がけの宮入と宮出
さて、大村屋台といえば、命がけの屋台の石段登り、下りを連想します。三木の大宮八幡宮は、84段の石段を屋台が宮入りすることで播州に知れ渡っています。その時になくてはならないのが命綱です。運動会の綱引きのような綱を屋台にくくりつけ、屋台を落としてしまっても、階段をずり落ちないように引き上げます。
しかし、大村のみ、その命綱をつけないで宮入と宮出を行います。言い換えれば、屋台を落とせば即大惨事という命がけの宮入宮出が行われることになります。
この宮入と宮出がどのようにして行われているのかをみていきます。
○大村屋台の大宮八幡宮での差し上げ
まずは、大村屋台の差し上げ方法です。三木の多くの屋台が、太鼓の早打ちによる差し上げか、大阪締めによる一気差しを用いています。ですが、大村屋台はそのいずれも用いず、「ソラッサッシマショ」に合わせたタイコのドンドンデドンを三回ほど繰り返しながら差し上げます。また、大宮八幡宮への差し上げ時は、他の屋台が正面を向けるのに対し、禰御門神社の氏子である大村は横をむけて差し上げます。
○猥歌
石段を行くときは他の屋台が行うような伊勢音頭と同じ節回しで、ここではその歌詞をかけないような猥歌を歌います。ただ、性は豊穣につながるので、信仰の範囲であるということもできるかもしれません^^; また、あえて下品とも言える歌を歌うことで、その見事な宮入とのギャップが生まれ、より味わい深いものになっているようにも感じられます。
○担ぎ手の配置方法と命がけの祭人
多くの屋台の場合、一本の棒の片側のみを担ぎますが、大村は両側をかつぎます。つまり、他の屋台は一本の棒には、左肩でかつぐ人のみ、あるいは右肩で担ぐ人のみを配置します。ですが、大村の場合は右で担ぐ人、左で担ぐ人と交互に配置するため、多くの担ぎ手が一度に担ぐことができます。しかし、これも、決して落とさない大村だからこそできる技術であり、落とすことがある屋台でこれをすると、担ぎ手の逃げ場がなくなり非常に危険なものになります。
そして、それだけでなく、宮入と宮出の時は泥台(屋台の担ぎ棒の下の土台部分)を何人かは担いでいるといいます。泥台を担ぐことで、屋台自体は安定し、担ぎ手は非常に助かります。しかも石段昇降時は石段の下から上に担ぎ上げることで、屋台が下に流れ落ちることを防ぐことができます。しかし、万が一屋台を落としたときに最も危険に晒される場所となります。
このような危険を買って出る人の存在がいるからこその大村の宮入であり、ひいては大宮八幡宮の石段上りが市の無形民俗文化財に指定された大きな原動力になったと言えるでしょう。大宮八幡宮の子の御門からの使者の威厳は、純粋にお互いを思いやる心によって支えられています。
●編集後記
今回は、三月に大村の友人が旅立つことになったので、最大限の敬意を込めて三木の大村屋台を特集しました。
彼の言動はお世辞にも上品とは程遠いものでした。
しかし、その裏に隠された優しさや熱い心意気は、まさしく大村の体現者といえるものでした。
新天地においても、その優しさと心意気で、自らと周囲の人たちを幸せにしてくれることと確信しております。