今回はかねてより見たかった三木市大宮八幡宮城山屋台の特集です。今年は町内の方のご厚意により、虫干しの様子を見学させていただきました。
町内の方に聞いた話によると、城山屋台の屋根は下町屋台のものを譲り受けたものだそうです。管理人が小学1年生か2年生の頃(昭和59年か60年、1984年か1985年)に、城山10周年という文字を布団屋根に巻いていたのを見たことがあります。それから1994年の最後の運行まで、その屋台の魅力に気づくことはありませんでした。
2回シリーズのだい1回目ということで、今回はその刺繍以外を紹介していきます。
◉本体、その他
平屋根で、手作りらしいです。
金具にはよく見ると城山の文字が見えます。
雲板は三段ありますね!これもビックリです。前にだけ龍がいます。
布団締めには、座布団と同じ赤色が金綱の下地に使われています。
法被は管理人(1978年生まれ)にとっては下の写真の黒地版が一般的な城山の法被です。写真の赤地のものは区長用のものだそうです。
上の法被が使われる前は下のような青地の祭法被が使われていました。襟元の文字は手書きです。背中の滲んだ感じは昔の法被ならではでしょうか。
◉彫刻
・狭間から欄間への変化
欄間彫刻は昭和50年に栄町の方から譲り受けたものだそうです。見学に来られていた方のご教示や「何でもかんでも三木」の記述を参考にすると、もともと反り屋根型か神輿屋根型の屋根型屋台ものだったと考えられます。見学の方が平屋根用の屋台には背が高すぎたので、上部を切り取った跡があると教えてくださいました。
これは、まさしく狭間(播州中部以西の呼称)から欄間(三木の呼称)に変わった瞬間ということが言えるでしょう。銘には「黒田◯◯」と見えますが◯の部分は読みきれません。
三代目松本義廣などと比べると人物一人一人が大きめに作られています。2面ずつ題材の大きなテーマが決まっており、2面は中国の騎馬武者が右から左へ駆け抜ける構図になっています。もう2面は退治物で、右側に退治する武者が、左側に退治される妖怪が彫られています。
2面ずつ類似構成をとるという形態は明石町屋台の彫刻にも見られ、このような場面配置が流行した時代があったのかもしれません。
↑中国の騎馬武者。二面とも右から左に駆け抜ける構図
↑鵺退治?で組み伏せているのが猪早太、指示を出しているのが源頼政でしょうか。それにしては弓を持っていません。そもそも前言は戯言で鵺ではないのかも。。
↑八岐大蛇退治?
鎮西八郎の蛇退治かとも思ったのですが、退治武者の鎧を見ると、神代を題材にしていると思われます。八岐大蛇が八頭でなく一頭として描かれる構図はよくあります。が、とくに屋台装飾の場合は多くは龍形で蛇形は珍しいかもしれません。
城山屋台の彫刻は、狭間から欄間の変化が見られる屋台でした。また、大きく大別して中国騎馬物、日本の退治物の二種類の場面構成、構図により作られたものということが分かりました。
次回か次次回には城山屋台の刺繍について取り上げます。
今回は城山有志の方の虫干しを快く見学させていただいたことにより記事ができました。あらためて御礼申し上げます。また、屋台運行を休止しているにも関わらず、町の宝を大切にしている姿に心を打たれました。屋台自体やその心意気がまさしく三木の至宝と呼ぶにふさわしいものではないでしょうか。
◯編集後記
安保法案がとおりました。為政者が憲法を無視できるという前例ができたことに恐怖を覚えます。最近、格差固定とよばれる本が発売されました。格差固定を望むのは為政者の常であり、西北隣の国がその完成系なのかもしれません。
町内の方に聞いた話によると、城山屋台の屋根は下町屋台のものを譲り受けたものだそうです。管理人が小学1年生か2年生の頃(昭和59年か60年、1984年か1985年)に、城山10周年という文字を布団屋根に巻いていたのを見たことがあります。それから1994年の最後の運行まで、その屋台の魅力に気づくことはありませんでした。
2回シリーズのだい1回目ということで、今回はその刺繍以外を紹介していきます。
◉本体、その他
平屋根で、手作りらしいです。
金具にはよく見ると城山の文字が見えます。
雲板は三段ありますね!これもビックリです。前にだけ龍がいます。
布団締めには、座布団と同じ赤色が金綱の下地に使われています。
法被は管理人(1978年生まれ)にとっては下の写真の黒地版が一般的な城山の法被です。写真の赤地のものは区長用のものだそうです。
上の法被が使われる前は下のような青地の祭法被が使われていました。襟元の文字は手書きです。背中の滲んだ感じは昔の法被ならではでしょうか。
◉彫刻
・狭間から欄間への変化
欄間彫刻は昭和50年に栄町の方から譲り受けたものだそうです。見学に来られていた方のご教示や「何でもかんでも三木」の記述を参考にすると、もともと反り屋根型か神輿屋根型の屋根型屋台ものだったと考えられます。見学の方が平屋根用の屋台には背が高すぎたので、上部を切り取った跡があると教えてくださいました。
これは、まさしく狭間(播州中部以西の呼称)から欄間(三木の呼称)に変わった瞬間ということが言えるでしょう。銘には「黒田◯◯」と見えますが◯の部分は読みきれません。
三代目松本義廣などと比べると人物一人一人が大きめに作られています。2面ずつ題材の大きなテーマが決まっており、2面は中国の騎馬武者が右から左へ駆け抜ける構図になっています。もう2面は退治物で、右側に退治する武者が、左側に退治される妖怪が彫られています。
2面ずつ類似構成をとるという形態は明石町屋台の彫刻にも見られ、このような場面配置が流行した時代があったのかもしれません。
↑中国の騎馬武者。二面とも右から左に駆け抜ける構図
↑鵺退治?で組み伏せているのが猪早太、指示を出しているのが源頼政でしょうか。それにしては弓を持っていません。そもそも前言は戯言で鵺ではないのかも。。
↑八岐大蛇退治?
鎮西八郎の蛇退治かとも思ったのですが、退治武者の鎧を見ると、神代を題材にしていると思われます。八岐大蛇が八頭でなく一頭として描かれる構図はよくあります。が、とくに屋台装飾の場合は多くは龍形で蛇形は珍しいかもしれません。
城山屋台の彫刻は、狭間から欄間の変化が見られる屋台でした。また、大きく大別して中国騎馬物、日本の退治物の二種類の場面構成、構図により作られたものということが分かりました。
次回か次次回には城山屋台の刺繍について取り上げます。
今回は城山有志の方の虫干しを快く見学させていただいたことにより記事ができました。あらためて御礼申し上げます。また、屋台運行を休止しているにも関わらず、町の宝を大切にしている姿に心を打たれました。屋台自体やその心意気がまさしく三木の至宝と呼ぶにふさわしいものではないでしょうか。
◯編集後記
安保法案がとおりました。為政者が憲法を無視できるという前例ができたことに恐怖を覚えます。最近、格差固定とよばれる本が発売されました。格差固定を望むのは為政者の常であり、西北隣の国がその完成系なのかもしれません。
反り屋根、平屋は他所の町から購入してきた経緯(おさがりの中古品)がある為です。明石方面なのか?高砂方面なのか?そういった経緯が正しい元ネタです。
たしかに東条町は屋根の形がそりやねとはすこし違いますね。きったあとだとはしりませんでした。
城山は狭間、欄間がきったあとがありました