先代・大阪市杭全神社野堂北組だんじり(現・神戸市灘区春日神社都賀だんじり)
●だんじりに刻まれた海の幸
だんじりの土露幕部分を見ると、随分おいしそうな海の幸が彫られています。
この海の幸の彫刻は、現役の野堂北にも受け継がれています。
鯛、亀や海を渡る兎など、台木部分には海をテーマにしたものは多いようなのですが、このような鯛や蛸など数種類の海の生き物が彫られるのは数多くあるとは言えません。
では、なぜ野堂北がこのような数種類の海の幸の彫刻に拘るのでしょうか。その理由は、野堂北組だんじりが誕生した背景にあると思われます。杭全神社の氏子地域では平野本郷・散郷に別れ、七名家と呼ばれる坂上広野麿の子孫が分家した家が、本郷の泥堂、西脇、流、市、背戸口、馬場、そして野堂の七町をそれぞれ支配し、だんじりを出すようになったそうです*2。そのうち野堂は東、南、北に分かれていきました*2。だんじりの製作年代を考えると*、その時期は幕末から明治時代でしょうか。野堂北だんじりも明治時代はじめに作られたそうです。
野堂北、野堂東、野堂南は野堂組として一つのだんじりを持っていたことは先述しました。この野堂のうち、野堂北にあたったのが、「魚の棚」と呼ばれていた地域だそうです*。 野堂北が魚の棚と呼ばれた地域だったので、海の幸にこだわわった珍しい土露幕彫刻が生まれたといえそうです。
鯛と蛸の彫刻。他にも様々な海の幸がありました。
この二枚は現在の大阪市杭全神社野堂北だんじり
*いわねえ氏ウェブページ:「屋台だんじり悉皆調査http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/」本記事において、数字を伴わない*はこのウェブページを参考にしたものです。
全国のだんじり、屋台、太鼓台、山車、神輿の祭などを、本当にこと細かく調べてあります。
書籍化はされていませんが、この作業は、屋台、太鼓台、山車、神輿など祭礼研究の金字塔と言えるでしょう。
*2 濱田時実「平野郷夏まつりの現状と課題」『京都民俗第30.31号』(京都民俗学会)2013年11月
大阪市平野区杭全(くまた)神社の夏祭を、歴史的に概観し、現在の様子を調査・分析・考察しています。祭の地域外の人の協力をいかに仰ぐかなどを考えるヒントになるかもしれません。各地で祭をしている人たちに読んでほしい論文です。
編集後記
予定していた、明石の屋台シンポジウムの振り返りと、北条節句祭の龍王舞考察の続きをこちらの都合で変更したことをお詫び申し上げます。今回の記事は、誘われて同行した神戸市灘区のだんじりパレード(5月11日・毎年5月の第二日曜日?)で都賀だんじりを見ている時に、関係者の方が気さくにお声をかけてくださったことがきっかけとなりました。その時に大阪から震災(阪神大震災)の前年(1994年)に購入したものであることを知ったことが、面白い発見のきっかけになりました。改めて御礼申し上げます。
2015.5.17追記
某氏より間違いのご指摘を賜り、記事を大部分改変しました。それは、十二支彫刻をネズミが足りない十一支しかないと勘違いして書いた記事でした。そのうちの子=北は氏子自身ではないかという曲学阿世の代名詞のような記事を掲載しておりました。だんじり関係者の方々、読者の皆様に深くお詫び申し上げます。